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第七話 少年ラツェルは女傭兵レナーテと共に人生初の戦場に臨む

 本格的に寒さが到来し始めたある夜、レナーテは野営地内の見回りをしていた。

 もうずいぶん共和国領内に入り込んでいて、襲った村の数は片手で数え切れないほどになっていた。

 彼女の中では以前の遠征では影も形もなかった複雑な感情が首をもたげてきていた。

 後悔? 恥じ入り? 申し訳なさ? たかが少年一人のトラウマに刺激されたからと言ってそれほどに沸き起こるものだろうか。

 レナーテはその答えにたどり着きつつあった。

 腰に吊った剣の球形の塚頭を撫でる。

 冷たいはずなのに何故か懐かしい温かさを感じる。

 兵士たちの幕舎まで来たとき、暗がりにうずくまる何者かを発見した。

 泥棒か、剣を引き抜こうとしたその時、真っ暗な闇に目が慣れ、そこにいるのがラツェルだということに気が付く。


「あんた、どうしたのこんなところで。そろそろ敵と当たることが強く予想されてるんだ。それは明日かもしれない。夜更かししてないで寝ておきな」


 情報の降りてこない兵士達も薄々それがわかっているからこそ、ここ数日は夜通し女遊びをするものも多かった。

 死地へ赴く前の最後のどんちゃん騒ぎということだ。

 だがこの少年はそんなものには縁があるまい。

 ラツェルはゆっくり体を起こすとレナーテの方を振り返る。

 その顔は不安一色と言ったところだった。


「僕、もういやになっちゃっいましたよ。何の罪もない人が殺されてくのを見てもなんとも思わなくなっていく自分が情けない」


 戦場は人をあけすけにさせる何かがあった。

 不安に圧殺されそうになっている子供ならなおさらだ。

 連日の略奪という非日常体験は確実に少年の心をむしばんでいた。

 レナーテは心に一気に憐憫と慈愛の波が広がるのを感じる。

 ゆっくりとラツェルに近寄って傍にしゃがみこむ。

 暗がりの中で不安げな目と心配げな目が向き合った。


「眠れないのかい? かわいそうに。ホント、坊やはこんなところに来るべきじゃなかったよ。逃げるにしたって、もう言葉も通じない国の奥深くに来ちゃったから今更無理だしね。近々戦場に立つなんて、考えられない。ごめんね、私が頼み事なんてしたから」

「いいんです」

「戦場に立つのが怖いのかい?」


 レナーテは少年の肩に手をかける。震えが手を伝って来た。


「そうじゃないんです、戦うのは怖くない。人が簡単に死んだりひどいことができたりする環境に身を置くのがつらいんです。そういうのに染まっていく気は全くしないけど……やっぱり傭兵なんかになるんじゃなかった」

「坊やは優しいねえ」


 レナーテは驚いた。

 てっきり戦いで死ぬのが怖くて震えているのかと思ったからだった。

 大人でもこういう時には死の恐怖を忘れて蕩尽に走るものなのに。

 やはりこの子は変わっている。いや、変わっているという言い方は不適切なのかも知れない。

 この子はおそらく、誰よりも優しいのだ。

 そんな少年をレナーテは心底愛おしそうに見つめる。

 少年の静かな高潔さは密かに求めていたものそのものに思えた。


「なんだか私、坊やに会えてすごくよかった気がするよ。ほら、今日は早く寝な。明日に備えるんだ。もういつ敵と出会ってもおかしくないんだから。大丈夫。私の配下の親衛隊として、配置を考えてあげる。坊やは後列に置いてあげるから。私たちが崩れない限り安全、人の死を直接見なくてすむよ。」


 ラツェルは頷くと自分のテントの方に歩いて行った、その背中をいつまでも見送るレナーテであった。



「あの子を前方列に!?」


 レナーテは驚きのあまり声を上げる。今朝の軍議は部隊の編成についてだった。プセヒパーテンはよく行軍の途上で戦隊の変更を迫った。


「そうだ。前面の銃列を増強した槍陣を試したい。そのためにはできるだけたくさんの銃兵が要る。銃を持っているなら親衛隊の方からも供出してもらいたいのだ。撃てるのだろう? そのガキは」

「あ、そうだねえ、まあ。この一か月でだいたいモノにはなったよ。でも……」

「でも、何だね? 用兵に私情を挟むのかな? まったく酷薄公とまであだ名される余の幕下に人間の心をお持ちの方がおられるとは予想外だ」


 ヨスを含む他の将校たちが笑う。レナーテはひるまず異議を唱えようとするが、プセヒパーテンがそれをぴしゃりと制する。


「お前の親衛隊だろうがお前の私兵ではないのだぞ? そのガキは余の兵団の服務規程を受け入れているのだろう? だったら立派な余の駒だ。いくらお前が後方においておきたいとわがままを言っても通らん。余の命令の方が優先される」


 なおも食い下がろうとするレナーテだったが、明確な反論を思いつけない。


「あきらめろよ、レナーテ。いくらお気にだからって代わりがいないわけじゃないだろ? 遠征が終わればまたかわいいのを探せばいいさ」


 ヨスが軽い調子で発言する。

 そう、軽いのだ。貴族的価値観を持つ彼ら将校にとって平民出身の兵の命など風に舞う塵の様に軽い。

 レナーテのようにたった一人の子供に拘る神経が理解できないのだ。

 レナーテはこの、戦術のセンスは二流で要領よく立ち回ることばかりが得意の男の顔を睨みつける。

 しかし何も言い返す言葉が思い浮かばない。

 確かにその通りかもしれないからだ。

 自分はラツェルが気に入ってる。

 というよりかは気になっているというべきか。 

 なぜか無視できないのだ。

 そのトラウマを。

 戦災孤児などいくらでも見てきただろうに。

 ラツェルは違っていた。

 戦争を憎みながらもそれを避けるでもなく、荒んでいって傭兵の世界に染まるでもなく、正常な感覚を維持したままここにいてくれるところが。


「まあいいじゃないか。前方列なら俺らも加わるんだ。一緒に隊列を組む方が目が届いて却って安心かもよ?」


 それもそうかもしれない。

 将校は戦場にあっては馬に乗ってお高くとまっているよりも部隊の最前列で兵士と共に槍を掲げることの方を尊んだ。

 レナーテが再び何か言おうと口を開こうとしたその時だった。

 伝令がテントの中に駆け込んできた。報告です、と息を切らしながらも淡々と情報を述べていく。

 曰く、接敵圏内に敵集団を捕えたとのこと。数は数千。


「聞いたな、皆の衆」


 プセヒパーテンが立ち上がる。


「目論見通りだ。これ以上領内を荒らされるのは耐えられんとお出ましだな。午後には会敵する距離のようだ。戦闘準備に掛かれ!」


 野営地はにわかに活気づく。

 レナーテもせわしなく働くが、頭の中はいつもの戦闘の時とは違う不安で一杯だった。



 野営地のすべてのテントが畳まれ、補給商隊は撤収の準備を完了した。

 ここからは純然たる軍事行動の時間だ。

 兵士たちと補給商隊は暫しの別れ。

 幾人かの兵士がお気にの娼婦と口付けをしている。

 古参兵たちのほとんどはそうする代わりに臥せって大地にキスをする。

 戦闘に都合のいい開けた平野はすぐ先だ。

 両軍がそこを目指して進撃し、そこでぶつかり合うのだ。

 もう会敵するまでの時間は幾ばくも無い。

 戦闘準備に大わらわな一団を尻目にレナーテとラツェルは荷馬車の影で二人きりの時間を作るのだった。


「いいかい?陣形同士が長槍一本分の距離に入ったら撃ち合いになる。その時はためらわず伏せなさい。死んだふりをするんだ。そして乱戦になる前に味方の槍の列を縫って後退するんだよ」


 生き残る、そのためだけの方法を教える。

 そんな経験はレナーテにはなかった。

 ベルンハルトに教わった技術はそのほとんどが殺すためのもの。

 両軍が撃ち合いをする最中に地に臥せる卑怯などこれまで考えたこともなかった。

 ラツェルは無言で頷く。


「いざとなったらあんたは絶対、私が命に代えても守るから。それじゃ、無茶だけは絶対しないでね」


 レナーテはそういうとラツェルの頭を抱き寄せ、額にキスをする。


「あたしからもキスしちゃう~」


 二人はまさしく逢瀬を邪魔された男女の様に飛び上がって驚く。

 誰も乗っていないように思えた馬車に、今しがたまで昼寝をしていたハンナが転がるように躍り出てくる。

 そしてレナーテからラツェルをひったくると彼の頬に熱いキスをくれてやったのだ。

 レナーテはふうとため息をつくとこれから迫りくる苦難に気を引き締めた。



 両軍併せて一万二千程度の会戦など大した規模ではない。

 それでも林の様に槍が立ち並ぶ戦列が向かってくる様は圧巻だった。

 敵は落ち着いた服装や全身鎧を身に付けているものが多い。

 ラツェルはそんな敵の壁の真ん前、五百人からなる隊列の最前列に位置していた。

 最初に火縄を撃ち合う危険な役、同じように銃を撃つ役の同僚はプセヒパーテンの提案により通常の倍の百人。

 そのすぐ後ろに五m弱の長槍を持って居並ぶ二百人の兵士たち。

 彼らが攻防の主役だ。火縄が火を噴いたら槍でつつき合い、削り合う攻守一体の重要な立場。

 それでもやることは単純であるから構成はルッツなど経験の浅い兵がほとんどだ。

 その後ろの百五十人は槍同士の戦いが膠着した場合に側面に周り込むか正面に突っ込む切込み役。

 ここではベルンハルトのような古参兵が重要な役割を演ずる。

 そして最後列の五十人は倍給兵士。

 貴族を含む彼らは簡単にはおっ死ねないが故の最後尾だ。

 散開して火縄を放つ役回り。


 これがレナーテ中隊の陣容だ。

 ではレナーテ自身はどこに位置するのか? 槍隊の最前列である。

 珍しいことではない。

 傭兵の指揮官とはそういうものだ。

 死を恐れ、真面目に戦わないものが過半な以上、身をもって範を示すしかない。

 そうしないと簡単に陣は崩れるのだ。

 レナーテはラツェルのすぐ後ろで彼を見守ることになるわけだ。


 ついに目視可能な距離に敵軍が迫る。

 彼らもやはりレナーテたちと似たり寄ったりの陣形を取っている。

 ただ違うのは前面に立つ銃兵の数だった。こちらより明らかに少ない。

 ドンと遠雷のような音が響く。

 こちらの列の近くに砲弾が着弾し、地面が掘り返される。

 当たれば一巻の終わりだ。

 しかしこれくらいでビビっていては戦争はできない。

 彼我の距離が火縄の有効射程まで詰められるその時をじっと耐えて待つ。

 その時、何発目か、轟音を立てて敵砲弾がレナーテ中隊の列の一端をつぶした。


「後列! 前へ!」


 すかさずレナーテは指示を出し、欠けた穴を埋めさせる。

 倒れた兵士の体はもともとの衣服の色なのか自身の血によるものなのか、赤黒い色に染まっている。

 隊列を整えるレナーテ中隊。

 敵の隊はすでに顔の見分けがつく距離にまで迫っている。

 お互いの一歩一歩の足取りはまるで死刑台を登るかのように重苦しい。

 恐怖を意志と勇気と狂気の力で押し殺して前へ進む。

 どちらともなく槍隊の前列が、垂直に立てていた槍を水平にせんと傾け始める。


「銃隊まだだ! まだ引きつけろ!」


 レナーテが叫ぶ。

 精度の悪いマッチロック式やタッチホール式の火縄では長槍がぶつかり合うか合わないかの距離でないと効果を発揮しない。

 先走ったのは敵軍だった。

 敵前列がしゃがみ、構えた、と思うが早いかバッと白い煙につつまれる。

 その瞬間連続した多数の射撃音と共に甲高い風切り音を上げながら鉛の塊が飛来した。

 それはラツェルの頬をかすめ、レナーテの隣の男の腹にぐちゃっと飛び込む。

 だがそれだけだ。

 距離があるおかげでこちらの損害は軽微。

 やはり敵は撃つのが早すぎた。

 再装填の暇もなく、こちらは確実に適切な射撃タイミングをモノにする。


「てッ!」


 タタタタタ……。

 レナーテの号令のもと銃列が一斉に射撃する。

 ラツェルも発砲する。

 レナーテの言いつけを守らずに戦うつもりだ。

 レナーテはその様を見てハラハラするが、今更どうしようもない。

 こちらの銃弾で敵兵がバタバタと倒れる。

 しかし敵もでくの坊ではなかったようだ。

 平均値よりも速いスピードで装填を終えると再度射撃準備に取り掛かった。

 ――まずい。

 ラツェルは本能的に飛来する弾が自分に当たる未来を強く思い描き、とっさに伏せる。

 果たして、轟く射撃音。

 弾はラツェルの頭上を掠める。

 三秒前には彼の胴体があった場所だ。

 彼を殺傷するはずだった銃弾は後ろにいるレナーテの身体へと飛び込む……かに見えたがしかし掠るのみ。

 間一髪。

 戦場ではこういうことがままある。

 生の隣に死がどっかりと腰を据えて、暗闇を進む中どちらに出くわすかの試し合いこそが戦場なのだ。

 胆力を付けるのにこれほど有効な訓練もない。

 レナーテは自分が今しがた死にかけたことなど一顧だにしていなかった。

 第二射は間に合わない。

 そう判断したレナーテは銃隊下がれの号令を出す。

 槍隊の列の合間を縫って後方へ下がる銃列。

 もちろん今度こそラツェルも言いつけ通りにし、後ろに下がる。

 一列目と二列目の槍兵が槍を倒し、自分の顔の高さで水平に構える。

 ウニの針が勝手に外敵の方を向くように、その穂先が一斉に敵の方を向くのだ。

 敵軍も同じように銃隊を下がらせ、前列の槍が水平になる。

 いよいよ近接戦だ。

 両部隊の槍の穂先が近づいていく。

 そして交錯、先端と先端が触れ合い、互いの隙間を縫って行き交っていく。

 時折槍同士がぶつかり合うカコカコという音が響く。

 いよいよ、互いの槍が互いの持ち手の身体に触れる程に両者は接近した。


「突け!」


 レナーテが指示を出すまでもなく、突き合いが始まる。

 両軍合わせて数十の槍が互い違いに突き出され、敵の身体を串刺しにせんと繰り出される。

 無論どちらも防御し合うからなかなかうまく決まらない。

 しかしこれは集団戦で、個人同士の攻撃のやり取りではない。

 真ん前の敵の槍を自らの槍で捌いているうち、その隣の敵からの槍が自分の身体を貫いている……そんな戦いであった。

 だが一撃で致命傷を与えられることは少ない。

 大抵の穂先は耳をかすめわき腹をかすめ足をかすめるにとどまった。

 まさにそれは削り合いの名にふさわしかった。

 チクリチクリと両軍の長槍兵は傷つけられていく。

 レナーテも例外ではない。武技に優れる彼女であってもこの状況ですべての攻撃を防ぐのは難しく、体のあちこちに傷を負っていた。

 このままではジリ貧だ。

 レナーテは決断し、後列にまで達する大声で下命する。


「後列、近接戦部隊周り込め! 白兵戦用意!」


 ついにベルンハルトたち古参兵に指示が下った。

 ベルンハルトは肩に担いでいた大剣を屋根の構え――つまり高く垂直に構えると雄たけびを上げて槍列の側面から突撃した。他の近接戦歩兵がそれに続く。

 陣の両脇から躍り出た彼らは鳥が羽を広げるようなカーブを描いて敵陣の脇腹を突く。

 敵もそれを察知すると同じように歩兵が陣からにじみ出てくる。

 乱戦が始まったのだ。

 あちこちで雄たけびが上がる。

 こちらの歩兵の方が優勢だ。

 守備のため側面に出て来た敵兵は押され、こちらの兵が敵の槍陣に食いつくことを許す。

 ベルンハルトは一人で六人分の働きをした。

 バッタバッタと、懐に入られ無防備となった槍兵や、迎撃に出てきた敵歩兵を切り倒していく。

 遂に槍を構えていた敵の隊形が崩れ始めた。

 レナーテはもはや無用の長物となった長槍を地面に捨てると腰の中剣ハンド・アンド・ア・ハーフを抜いてその中に突っ込む。

 ラツェルは無事に最後尾に下がっただろうか。

 こんな状況にあってもまだそんなことを考えていた。


 一方のラツェルは事前の取り決め通り中隊の最後列で装填作業をしていた。

 手が震えて上手く弾込めができない。

 レナーテさんは大丈夫だろうか。

 こちらもこちらでそう考えていた。

 そんな彼に話しかける影がある。


「おい、坊主。震えてるぜ。そんなマジになるなよ。俺らは適当に指示が出るまで待機して、指示があったら側面から撃ってりゃいいんだ。乱戦は平民共に任せて物見気分でいようぜ。おっと、お前も平民かな?」


 いけ好かない冒険野郎。

 こいつは後の人生で語る武勇伝のためだけに傭兵になり、貴族だからというだけで普通の兵士の倍の給料をもらう、そんなタイプの傭兵だった。

 ラツェルはつい感情的になる。


「みんなが命を賭けて戦ってるんですよ! 何でそんなにやる気がないんですか!」


 冒険野郎は目を丸くする。

 平民、しかも子供にそんな口を利かれるとは思わなかった。

 だが言い返す間もなく、少年は前の列に消えた。


「レナーテさん、レナーテさん」


 ラツエルは一心不乱にその名を呼びつつ居並ぶ屈強な男たちの間を駆け抜ける。

 と、途中で火縄を取り落としてしまう。

 それは集団の中で蹴飛ばされ、届かないほど遠くに行ってしまった。

 仕方なしに彼はレナーテからもらった喧嘩剣を抜くと血しぶき飛び交う鉄火場に飛び込んでいった。

 彼は戦争が嫌いだった。

 人殺しなどまっぴらだった。

 こんな場所一刻も早く逃げ出したいはずだった。

 しかしあの女傭兵のことを想うとなぜか何でもできる気がしていた。

 しかし前線まで来たラツェルの目に飛び込んできた光景は想像を絶していた。

 あれだけ着飾り、武装し、威容を誇っていた男たちが屠殺された豚の様に地面に転がされ、土にまみれた死に顔を晒していた。

 だがそうなるまで戦った人間は大したもので、ほとんどの者は死にたくないがゆえに緩慢なチャンバラに精を出したり、逃げ出したりしていた。

 そんななかでもつむじ風の様に激しく剣を振るう集団がいる。

 すなわち、ベルンハルトとレナーテ、それから幾人かの古参兵たち。

 長槍同士の突き合いはとうに消失し、剣、大剣、斧槍が主役に躍り出ている。

 時折火縄が火を噴く音が聞こえる。

 ラツェルはためらわずレナーテの下、つまり死と血の最も蔓延する場所に駆けて行った。


 レナーテはすでに幾人もの男たちを切り伏せていた。乱戦にあっては駆け引きもくそもない。

 こちらに来るものあれば瞬時に対応し、こちらに隙を見せるものあれば詰めて切り付けるのみだ。

 ベルンハルトと背中を守り合いながら他の古参兵と共に敵陣をこじ開けていく。

 唐突に死角から剣を持った男の突きが飛んでくる。

 幸運にも胸当てがそれを受け流す。

 レナーテは即座にその男に向き直り相手の剣を払う。

 キーン、と金属と金属の打ち合される音が鳴る。

 しかしレナーテがいくら女の割には力が強いと言っても相手は平均以上の立派な体躯を誇っていた。

 払わんとするレナーテの剣撃はいとも簡単に止められ、バインドと呼ばれるつばぜり合いの状態へと移行する。

(不味い……)

 乱戦での膠着状態は即、死につながる危険な罠である。

 周りからくる新手に対応できなくなるからだ。

 力と力が拮抗しお互いの動きが止まる次の瞬間、レナーテは刹那の内に力を抜き、剣を手前に滑らせる。

 そうしてその切っ先が相手の剣をくぐると同時に強く踏み込んで顔面に強烈な一撃を加えた。屈強な大男は頭を真っ二つに割って果てた。

 ベルンハルトはこここそわが領域と言わんばかりに羽飾りを振り乱して大剣をぶん回している。

 もう何人切り倒したか本人もわからない。

 この驚異的な古参兵と女傭兵は二人だけで前線を押し上げていた。


「レナーテさん!」

「坊や!?」


 そんな文字通り血飛沫をかいくぐる修羅場にあって、似合わぬ子供の呼び声を聞いたレナーテは自身の耳を疑った。

 後列待機しているはずではなかったのか。

 抜き身の喧嘩剣カッツバルゲルのみを頼りにこちらへ向かってくる。

 援軍のつもりだろうか。

 レナーテは少年の蛮勇にめまいを感じる。


「来るんじゃない! あんたにはまだこの場は早すぎるって!」

「僕も戦います!」


 次の瞬間、長槍がレナーテとベルンハルトの間の空間に叩きつけるように打ち下ろされた。

 敵の後部槍列が前進を始めたのだ。

 お互いの歩兵隊は既に疲弊し、幾人もの死傷者を抱えている。

 また長槍隊に戦場の主導権を返還する頃合いだった。

 レナーテたち近接戦部隊は退却する。


「坊や、坊や! さあ、退くよ! 今度こそ後ろに下がってるんだ、いいね?」


 ラツェルは答えない。

 もう槍の穂先が届くところまで迫った敵の槍隊の前に呆然と立ち尽くしている。

 今からレナーテが助けに行っても二人とも串刺しになるだけかもしれない。


「諦めなされ、レナーテ殿。さ、下がるのです。深手はありませんがかなり血を失っているかもしれません。指揮官が倒れるわけにはいかないのですぞ」

「しかし、先生……」


 逡巡している暇も何もありはしない。

 ――命に代えても守ると誓ったのに……。レナーテは歯噛みした。

 その時、ラツェルはばったり地面に倒れるとそのまま動かなくなる。

 恐怖で気絶したのだろうか? 敵の槍陣がラツェルの上に差し掛かる。 

 あわや踏みしだかれる、かに見えた刹那、少年は大声を上げて敵槍列に吶喊する。

 死んだふりだったというわけだ。うおお、と子供らしからぬ雄たけびを上げて敵の陣の奥深くまで侵入する。

 突然のことに敵前列は動揺する。子どもとはいえ懐の中奥深くまで侵入してくる相手を槍持ちには止めるすべなどない。

 瞬く間に足元に取りつかれ、剣でザクザクと切りつけられる敵槍兵だった。

 パニックが広がる。

 密集して並んでいた槍の穂先に乱れ偏りが生じる。

 ラツェルの功績だ。


「今だ! 歩兵隊、再度突撃!」


 レナーテはその隙を見逃さず、残った古参兵たちをその間隙に食い込ませたのである。

 敵の混乱を突いたその攻撃は奏功し、突撃する兵士を面白いように敵陣に滑り込ませていく。

 再度乱戦、しかし今度は無用の長物と化した槍を持った敵兵をばたばた狩るだけの仕事だ。

 効果が全く違った。

 敵は瞬く間に崩れていく。

 あとに残ったのは呆然とへたりこむラツェルと辺りに散らばる敵の死体の山だけだった。

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