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第四話 少年ラツェルは傭兵とその周辺の者たちの有様を見る

 遠征の目的地の共和国までは閲兵式を執り行った街の郊外の野営地からまっすぐ南へ向かえばいい。

 まずは帝国の国境沿いの街まで進む。

 ここでこの世界この時代の傭兵の性質について話さねばなるまい。

 傭兵たちの為すことは悪名高い。

 彼らの通った後には草木一本すらも残らない、そう言われるほどであった。

 それほどに彼らは貪欲に周りの社会から収奪し続けた。略奪、無銭飲食、強盗……。

 しかしそれは仕方ないことなのだ。

 そもそも兵士たちの食料は支給されるものではなく、自分の給料を使って兵団について回る補給商隊や街道の人間から得るものであった。

 それが不正な値段や金持ちの将校・兵士が買い占めを行うことにより滞ると途端に兵は飢えることになる。

 そうなって補給商隊からも都市や村々からも十分な食料が得られないときこそ、兵士たちはやむを得ず略奪の徒に化けるのだ……。

 無論、好き好んでそうすることの方が多いのだが。

 この時代は軍隊の規模と補給能力とが全く釣り合っていない時代であったのだ。

 補給システムが未発達のまま軍隊の方だけが際限なく拡大した結果、このような状況が現出したのである。 

 補給物資の需給バランスは史上類を見ないほど悪いものであった。

 略奪が補給の根本なのは古代からの習いだが、大規模にそれが行われなければならない状況などそうそうあり得なかった。

 軍隊は食うためには移動を続けなければならない。

 なぜか。

 近隣の村や町から補給物資を頂戴してまわるためである。

 それこそ飢えた群狼の様にあちこちを食い荒らして回るのだ。

 一つ所にとどまればたちまちのうちにその地域を疲弊させて砂漠のように干上がらせてしまう。

 消費行動の極致こそが軍隊行動であった。

 プセヒパーテン傭兵団もその例にもれず、絶えず移動しながら街道沿いの村や街から、時に正当な取引で、時に不当な手段で必要なものを得ていた。


「ゲオルグさんはどうして傭兵になったんですか?」


 馬に乗るレナーテに付き従うラツェルは、となりをひぃひぃ言いながら歩くゲオルグに話しかける。

 七・五キロと重い火縄銃を背負って歩くラツェルは文句一つ言わずに頑張っているのに、軽い書類しか背負っていないゲオルグが息を切らしているのはなんともおかしな光景だった。


「ええ? 僕かい? あはは。傭兵ってつもりはないんだなあ、これが。僕はただの書記官だし。大学の学費を稼いだらさっさとおさらばさ。そう、大学生に人気の職なんだよ? 傭兵団の書記官ってのは」


 意外な答えだった。そういうものなのか、とラツェルは新たに得た知識を咀嚼せんとする。


「そんな話、僕から聞いても面白くないだろう? そういうのはこっちの女中隊長に訊けよ。きっと行軍の苦しみも吹っ飛ぶような小説みたいなバックストーリーが聞けるぞ」


 ゲオルグはレナーテを指さす。やれやれと言った表情でレナーテは応える。


「言いにくいことを訊くじゃんか。こういう流れ者ばかりの場所で身の上や過去を探るのはご法度だかんね、坊や」


 当然の話だ。

 数日前に出会ったばかりなのに、貴族だった彼女が若干二十三歳の若さで傭兵中隊長をしている理由など話せるはずもない。

 ラツェルが自分のうかつさを恥じてうなだれたその時、脇からズイと赤い髭のもじゃもじゃ生えた大男の顔が現れる。


「わしには訊かんのか?」


 古参兵ベルンハルト。

 何度もこの傭兵団に加わっていて、軍隊のことをよく知っている。

 レナーテがほんのひよっこだったころから彼女と共に戦場にいて、彼女専属の剣の先生をしていたこともある。

 その衣装は全身色とりどりで、左右の手足四本がそれぞれ違う色の切れ込みの入った布で飾られていた。

 動きやすさを重視した腰に草摺りのない胴鎧に斜めに革ベルトを巻きつけ、左右で違う色の靴を履いている。

 頭に乗っているのは節入りの浮き輪のような膨らんだ帽子で、縁を取り巻くように五色の羽飾りが生えていた。

 もはや兵士としてはトウが立っているが、重い両手剣ツヴァイヘンダーを難なく振るう豪傑だ。

 髭面を新顔の少年兵に向けて親しみやすそうな笑顔を浮かべている。

 ラツェルは言われたとおりに同じ質問をする。


「よくぞ聞いてくれた! わしはここでしか生きられんからだ。傭兵としてのその日の銭を稼ぎ、その日をただ生き延び、死ぬ時はあっさり死ぬ。後には何も残らん。そういう晴れわたる青空のような生き方が好きなんだよ。ははっ、子供にはわからん話だったな。お前は簡単に死ぬんじゃないぞ。レナーテ殿が悲しむ」


 そう言ってがははと豪快に笑うベルンハルトだった。レナーテは言い返す気にもならず、馬の上で退屈そうに伸びをする。

 ゲオルグは何度も何度も聞かされたセリフにうんざりしているようだ。しかしラツェルだけは違った感情を抱いていた。


「楽しそうですね。傭兵生活って」

「ああ、もちろんだとも。こんな楽しい稼業はないわい。だからこそ一度傭兵の世界に飛び込んだ人間は決して元の世界には戻れんのじゃ」

「略奪も楽しいですか?」


 ぴたり、と時間が止まったような気がした。

 馬の足もみんなの足も止まっていないのに、沈黙が場を支配したことで皆の心の谷間を流れる時間の小川だけが凍ったのだ。

 数舜それが続いた後、口を開いたのはベルンハルトだった。


「坊主よ。そりゃあみんなそれを目的に集っているようなもの。楽しいに決まっている。わしもそういう一人だ。それがどうかしたか?」


 ゲオルグは既に興味をなくしている。

 じっとこの古参兵の顔を見て真剣に耳を傾けているのはラツェルと、レナーテだった。

 ベルンハルトは努めて陽気に答えてはいたが、空気が凍ったことは事実だ。

 ベルンハルトの言葉には、今述べたこと以外の含みがあるのは確かだった。ラツェルはそれを探ろうとしていた。


「罪もない農民や町人からモノや命を奪うんですか?」

「坊主、戦争は嫌いか?」


 ベルンハルトは問いかけには答えずに逆に訊き返す。


「当たり前です」

「ほほう。まあなぜかは聞かん。大方相場は決まっておるからな。じゃがな、坊主。今の時代、仕方がないことじゃろう? 周りを見てみろ。食い詰めてこの世界へ入ってくる傭兵はみなお前の仲間じゃ。元はほかに生きる道をなくした農民、まあ何不自由のない貴族の癖に飛び込んでくる変わり者もいるが……。戦争で焼け出され致し方なく傭兵になった者が多いのじゃ。金で釣られた阿呆もおろう。しかしほとんどは他に何者にもなりようがないから傭兵になったんじゃ。坊主。これがこの世の理じゃ。傭兵が民を追いやり、追いやられた民はまた傭兵か娼婦になる。それがこの時代のおおきな連環なのじゃ。これを憎んでも始まらん。戦争を憎むことは、人間の生と死の営みを侮蔑することなんじゃよ」

「そんなの、わかりません。でも僕は……」

「そんなに戦争が嫌いならなぜ今ここにこうして銃なんぞ背負って列に加わっておるんじゃ。なぜ服務規定に宣誓した? 半端な覚悟で傭兵の世界に染まり、どことも知らぬ戦場で誰にも知られず死ぬつもりか?」


 ラツェルは答えられない。自分が傭兵になった複雑な経緯を話すのも面倒だった。ただ純粋にベルンハルトの言葉に怒りを感じた。

 

(僕だってやりたくてやるわけじゃないんだ。ただ、この世界の本質を知りたくて……)


 老いた古参兵の言葉にはラツェルが知りたかったことの本質が詰まっている気がしたが、受け入れられないものは受け入れられないのだった。


「やめてください、先生。私のせいなんです」


 レナーテはそう言うと感情を爆発させそうになっているラツェルの首根っこをつかみ、女らしからぬ力で馬の上に引き上げる。

 レナーテの前にちょこんとまたがったその姿は人形か子ネコのようにかわいらしいものだった。

 途端に赤くなるラツェル。

 ベルンハルトはがははと豪快に笑う。


「まあ精いっぱい生きることじゃ。坊主はまだ若すぎる程に若い。いや、幼いと言うべきか。いろいろなものをその目で見ることじゃ。善きにつけ、悪しきにつけ……」

「なに難しい話してんの?」


 全員が振り向く。

 そこにはいつの間にこんなに列の前までやってきていたのか、娼婦を乗せた馬車があった。

 兵団の列の後ろをくっついてまわる補給商隊の集団には娼婦もたくさん付き従ってビジネスの機会をうかがっているのだ。

 今夜の仕事の営業だろう。

 そこから顔をのぞかせてこちらに声をかけたのはみんなの人気者ハンナ。

 少しおつむが弱いのが玉に瑕だが、その愛くるしさを男たちは独占したがった。

 馬車の幌の影から何人もの娼婦が身を乗り出すと、レナーテに抱えられるかのようにして馬に乗るラツェルをまじまじと見てはきゃあきゃあと囃したてた。

 かわいいね、こんな子が傭兵なの? 夜は私のところに来なよ、男にしてあげるから。

 黄色い歓声が響く響く。


「騒々しいったらありゃしない。坊や、ああいうのに捕まっちゃだめだからね。女に貢ぎすぎて武器の修理もできなくなる男が山ほどいるんだから」

「えー? 私たちはこんなかわいい子にそんなことしないよぉ。ねえねえ、ボクぅ? お姉さんたちの馬車に乗りな」

「ええい、うっとうしい! この子は除隊まで私が責任もって五体満足で生き残らせるって決めてあるんだ! こんな早くからおもちゃにされてたら先が思いやられるじゃんか」


 レナーテはそういうと手綱を取る手を閉じてぎゅっとラツェルを抱きしめる。

 美女に密着されてラツェルの顔がりんごの様に真っ赤に染まる。

 それを見てにやにやと気色の悪い笑みを浮かべるゲオルグとベルンハルトだった。



 行軍が始まってから何度目かの夕方が来る。

 今日は出発地の南、目的地である国境までの道のりの四半分ほど来たとある村のそばで野営することになった。

 円形に貼られた陣幕の中、無数のテントが群れ成す軍隊特有の風景。

 日が沈むころはいつもどんちゃん騒ぎだ。

 閲兵直後にもらった支度金を使い切らんばかりに補給商隊で食い物とビールと女を買いあさる男たち。

 支度金は寝食代、医療費、武器道具代も込みだったが、お構いなしに皆蕩尽していた。

 そして装備の取り合いにまで発展する兵隊同士の賭け事。

 それらを回避してつつましやかに戦場を生きれば、月の給料の半分を残せて、三ヶ月の任期が終われば手元に六ゴルテンを残せる計算だったが(しかもここに略奪で手に入れた大金が加わる)、そう上手くいくはずもない。

 武器装備購入の投資、傭兵隊長や中隊長からの天引き、悪徳商人からの水増し請求。

 自らの欲を律したとしても、算数のできない彼らにとって敵は多かった。

 そして給料はいつも払われるとは限らないのだ。

 下手をすれば支払いの滞りを原因とする飢えにすら苦しめられる。

 儲けるために傭兵になったとかいう人間はやっと現実に気づき始めるのである。

 彼らは金のためではなくただ生きるためにしか戦えないのだと。


「稽古つけてあげる。あんた今のままじゃ戦場じゃ一瞬で死んじゃうかも知れないからね」


 レナーテは夕日の下、ラツェルを自らのテントのそばに招いて言う。

 男たちの宴の喧噪の中心からは離れた将校用の区画だ。


「あんたは短剣術が向いてるだろう。ていうかまともに持てる武器は銃を除けばそれくらいだし。前に渡したのと同じような喧嘩剣カッツバルゲルを用意しておいたよ。坊や用に少し小ぶりだけど」


 レナーテはこのためだけにわざわざ補給商隊のなじみの武器商から買った短めの喧嘩剣カッツバルゲルをテントから取り出す。

 それは刃渡り三十センチほどで、レナーテの持つものをそのまま短くしたような形状だ。

 その剣こそ傭兵の証。雇われて戦場に立つ者なら必ず携行する武器だった。

 渡されたそれをラツェルはじっと見つめる。

 こんな高価そうなものをくれるというのか。


「ありがとうございます、きっとお金は返します」

「そんなこと気にするなって」


 少年の遠慮がちな言葉がレナーテにはこそばゆかった。

 ふと、ラツェルが彼女の左腰の剣を見ているのに気が付く。


「ああ、これかい? こういうのがいいのかな? でもちょっとこれはねえ。ハンド・アンド・ア・ハーフっていって、両手でも使える剣の中では短い方だけど、坊やの身長じゃ長すぎて刀身を返した時に地面を擦っちゃうよ。たっぱに合わせた武器が一番いいの。とりあえず銃と短剣の使い方だけ覚えておけばいいんじゃないかな」


 そう言ってもラツェルは剣から目を離さない。

 レナーテは小さくため息をつくと話し始める。


「そりゃあ確かに魅力的に映るのもわかるよ。剣こそ騎士の誉れさ」


 ――騎士? 

 ラツェルはその言葉が気になる。

 この人たちは傭兵ではないのか。

 つまり流れ者だ。

 領地を懸命に守る騎士とは違うはずだ。

 それなのにこの人は騎士の矜持を持っているとでもいうのか。

 思い切ってそのことを訊いてみる。


「ああ、それが気になるの? まったく、過去を詮索するなと言ったじゃん。……いーよ。教えたげる。そのかわりも自分坊やのことちゃんと話しな」


 少年は頷いて応答する。


「この剣は父の形見なんだ。頭のてっぺんからつま先まで騎士って人でね。まあ、没落しちゃったけど。だから私がここにいる。娼婦になるかどうかってところまで落ちぶれたんだよ。そうでなきゃこんなところにいないじゃんか。女だてらに傭兵なんて。それにしても御父様からは色々なことを教わったなあ。騎士としてのふるまい、心構え、それから……」


 レナーテは言い淀んでしまう。 

 気づいてしまったのだ。

 そんな教えから今の自分が如何に遠ざかってしまっているか。

 そう、最近思い出すこともなかった、貴族だったころの思い。

 騎士の誇り、傭兵としての生活。

 それらが如何に今と乖離しているか。


「だからレナーテさんはそんなに気品に溢れているんですね」


 ラツェルの言葉が花に留まった蝶を追い払うかのようにレナーテの思考を吹き消した。


「そうかい? まあ元貴族じゃなきゃ将校はできないし、そういうものだよ。全く、なんでこんなこと話しちゃったかな。出会ったばかりの十も年の離れた子供にさ。……さて、坊やの事情を教えてもらおーね」

「僕ですか? 僕は……」


 レナーテはしゃがむとラツェルの顔を覗き込む。

 彼女の目に暗い表情をした少年の顔が映る。

 そりゃあ話しにくいだろう。

 それでもレナーテには聞く責務があるように思えた。

 命を預かるのだから。


「僕の家は軍隊の、傭兵と思しき軍隊の略奪で焼かれました。両親もその時に……」

「それで戦争や傭兵を憎んでいるんだね。ごめんね、辛いこと思い出させて」


 元貴族の女傭兵は新たに傭兵となった少年の肩に手を置く。

 小さなその肩は震えていた。

 長い間そうしていた気がする。

 少年の震えが治まったのを確認すると、すっくと立ちあがり、言った。


「さ、甘ったれてもいられないよ、これから戦場にたどり着くまでの期間、晩飯から寝るまでの間になんとか一人前にならなきゃね。稽古の間は優しくないから、覚悟しなよ」

「はい!」


 トレーニング用の安全な道具を使うという発想のない彼らは短剣を抜くと、へとへとになるまで訓練に精を出した。

 ラツェルは何度も突きを繰り出し、斬撃を試し、その度にレナーテに捕まり時に組み伏せられ時に投げ飛ばされた。

 背の小さいのを生かし、低空を縫うようにして接近し、足に取りつくのがベストだと学んだ。

 ラツェルは後方で待機する配置になるだろうからこんな訓練を活かす機会に遭遇する心配はいらないとしても、やはりあればあったで安心なのだった。

 今日はこんなもんだろう、とのレナーテの言葉でラツェルはその場に倒れ込み、ぜえぜえと乱れた息を整えようとする。

 もうすっかり夜になっていた。レナーテは地面に寝転がった少年の顔を覗き込む。


「全く、こんな程度で伸びてちゃどうしようもないぞ。まあいい。最初だからね。共和国に着くころにはいっぱしになってるさ」


 そう言うと膝をついてラツェルに顔を近づける。

 長い金髪が垂れて少年の頬や額に触れた。

 つつ、っと髪の先がくすぐったい感触を与える。

 急に綺麗な女性が近づくもんだから顔を赤らめてしまう。

 しかしかがり火のオレンジの明かりの下ではレナーテはラツェルのそんな反応には気づかなかった。


「あんたは私が守るからね。いざとなったら。だから安心していいよ」


 そういうと額にキスをして去っていくのだった。

 ラツェルはボーっとした気持ちで寝転がったまま星空と散々にらめっこした後、立ち上がって自分や他の兵たちが共同で使うテントに向かうのだった。

 一番年下のラツェルは水汲みなど雑用を押し付けられることがままあった。

 早く帰らないと同じテントのおじさんたちにどやされるな。



 そう思いつつ歩いていると、嬌声や淫靡な声の響く一角に来る。

 娼婦のテントのある区画に入り込んでしまったのだ。

 まだまだ男女の秘め事に興味はあっても引いてしまう年頃のラツェルは、足早に通り過ぎようとする。

 偶然、ハンナとばったり出会った。

 暗がりでよく見えなかったが、その顔は今しがた恋人と永の別れをしましたとでもいうように涙で濡れていた。

 ラツェルに気づいているのかいないのか、何も言わずにどこかへ行こうとするのを追いかける。

 つい、そうしたくなったのだ。

 ハンナは野営地の隅、テントの群れの端っこまで来ると切り株に座った。

 静かに、静かに泣いているようだった。

 時折スカートを持ち上げてそれで顔をぬぐっている。

 ラツェルはここまで追ってきて、今更見てはいけないものを見たような気になり、踵を返して帰りたくなったが、それでは変な人だ。

 しかしかける言葉もなく、ただハンナがしゃべり始めるまで待つのだった。

 どのくらい経っただろうか。ハンナは口を開き始める。


「どうしてついてきたの?」


 震えているが全体的に抑揚のない声だった。

 泣き腫らした後特有の話し方。

 なにがあったの? と聞けずに少年はやはりただ突っ立っている。

 子供を相手にする気安さからか、ハンナ自身の性格ゆえか、そんな煮え切らない態度でもハンナは気を許して話し始める。

 乱暴な人に会ったの。

 そう言った。


「ひどいんだよ、その人。すごく痛くしたし、最後には娼婦なんか魔女だ、悪魔の手先だって唾吐かれちゃった。そうなのかなあ」


 ラツェルはハンナの隣まで来ると同じく切り株に腰かける。

 とても狭いもんだからお尻とお尻がくっついた。

 ハンナはそれがおかしいのか泣き顔を崩して笑顔を浮かべる。


「へへ、君、なんだか優しいんだね。何も言わずにいてくれてる。そういう人好きだなあ。好きになっちゃうかも」

「い、いや、僕は……」


 ラツェルは口ごもる。


「えへへ。大丈夫。ちゃんとわかってるから。はい、ちゅー」


 ハンナは先ほどレナーテがしてくれたのと同じ場所にキスをする。

 ラツェルは図らずも赤くなってしまう。ハンナには赤面したことがばれたようだ。


「かわいいー。……ねえ、お話ししよっか」


 急にシリアスなトーンになったことに驚くとラツェルは隣に座るハンナの顔を見上げる。

 その目は夜空のかなたに沈んでしまった光を探そうとしているかのように遠い遠い場所を向いていた。


「キミならわかってくれると思うんだ。他の大人の男の人が忘れてしまったものを君は持ってるから。あのね、私も孤児だったんだ。まあ、わかるよね。でなきゃこういう仕事してないもんね。でもね。私はこの仕事好きだよ。みんなに愛情をあげられる仕事だもん。たまに今日みたいにひどい人もいるけどそれはどんな仕事してても同じでしょう? だからいいんだ。そんなことよりたくさんの人と出会えるのが楽しい。お話しするとね、みんな本当にいろんな人生があるの。でもやっぱり同じ。貴族の人や裕福な人以外はみんな孤児や要らない子だったんだって。そんな人たちが傭兵になるんだよ。私たちとおんなじだね」


 ハンナはラツェルの方を見る。

 彼女の目には運命を受け入れる絶望と諦念と覚悟があった。

 彼女は自分の境遇に過度に順応してしまった哀れな人間なのだ。

 ラツェルは子供ながらにそれを察し、同情を感じる。


「レナちゃんも似たようなものだったんだって。貴族だったのにね。残念だよね。せっかくの帰る家がなくなっちゃうなんて」


 ラツェルはレナーテの話を思い出す。


「レナちゃん、絶対娼婦には向かないよ。向き不向きってあるんだ、この仕事。だから剣を振るう才能があって本当によかったと思うなあ。そうしなきゃ多分あの娘は生きていけないんだと思う。誰が何と言おうと、それは確かだよ」


 レナーテの生きざまに思いをはせる。

 いくら貴族として剣の稽古を積んできたからって、はい御家が没落しました、傭兵になりましょう、とは普通はならないはずだ。

 レナーテの性質が普通じゃないのか、覚悟が普通じゃないのか、その両方なのか……ラツェルの心にレナーテの深い部分を理解したいという衝動が沸き起こってきた。


「ありがとう、ハンナさん。なんだかいい話ができた気がするよ」

「君とお話しできてよかったよ、はい、ぎゅーっ」


 ハンナは少年を目一杯抱きしめる。

 オロオロするラツェルだった。

 じゃあもう遅いから早く寝なよ、とだけ言い残し去っていくハンナ。

 その後ろ姿はもう元気そうで、ただ話を聞いていただけでも力になれたのかな、とうれしい気持ちになった。

 ラツェルは額に残る二つの接吻の感触の残り香を感じながらテントへ向かうのだった。

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