第二話 少年ラツェルは傭兵の世界に飛び込んでしまう
給料はいい。
前の生活からしたらよほどいい。
なにせ俺が下っ端として働いていた工房で二十年勤め上げたマイスターと同じ給料をもらえるんだからな。
だがこの金で飲んだり博打打ったり女買ったりするとカツカツなんだよなあ。それ以前に支払われる保証がねえ。
前にいた傭兵団じゃあ三ヶ月間一文無しを強いられたもんだから集会が大揉めで中隊長を変える騒ぎになったのよ。
まあそれにしても命をかけるには安すぎるわなあ。
だからだ、略奪が何より嬉しい。これがなきゃあ傭兵なんかやらないね。
これがなきゃ誰が貴族出の隊長様のご意向一つで死んだり生きたりする仕事なんかするもんか。
――ある下っ端傭兵の酒場での意見
前回の遠征より数ヶ月。
収穫の時期も過ぎ、諸侯の懐が最も潤う頃。
プセヒパーテン傭兵団に仕事が舞い込んだ。
南に国境を越えての遠征だ。
さっそく将校たちは兵を募るため帝国内方々に散っていった。
どんどんどん、太鼓の音が鳴る。
笛が陽気な音色を辺りにまき散らす。
それはさながらサーカス団の興業だった。
「さあさあ! よってらっしゃい! あの酷薄公プセヒパーテン様の傭兵団が兵を募集しているよ! この傭兵団に加われば君も一緒に大金持ちだ!」
募兵はまず見世物興業のように始まる。
将校が雇った楽隊が笛や太鼓を鳴らし、募兵係が人を集める。
見世物だが代金を目的としたものではない。
むしろ金をこれ見よがしに聴衆にちらつかせ、こう選択を迫るのだ。
「我々に加わればこの金が今すぐ君のものだ、さあ、傭兵になるかならぬか?」
バラ色の傭兵生活などという嘘八百を並べ立てながら。
しかし街のあぶれ者、農村の食い詰め者など共同体からつまはじきにされた人間たちは喜び勇んでそれに乗ってしまう。
それくらい、彼らには未来も希望も居場所もなかった。
募兵の受付を済ませると手付金が手渡される。
何日か遊んで暮らせるその金を持って集合のその日まで彼らは遊びまわるのだ。
おっと、ここですでに義務が発生していることを忘れてはいけない。
手付金を受け取った瞬間、彼はその身を傭兵団に売り渡したことになるのだから。
「今回も定員の数倍は集まりそうじゃん。前なんか五百人の募兵枠に千五百人集まったっけ」
係りの者が歌って踊って食い詰め者たちを集める中、この帝国西側の町での募集の任を負ったレナーテが誰に対するでもなくつぶやく。
此度の遠征では、雇い主の皇帝から六千人の兵を募兵するよう委任されている。
中隊長――隊の中間管理職で、プセヒパーテンの傭兵団はそれを十二名抱えていた――の地位にいるレナーテの割り当ては五百人だ。
兵を集めるこの募兵から兵の質を調べる査閲までの成否が遠征の成否を決めると言っても過言ではない。
ほかの傭兵団に経験豊かな古参兵を取られないようにしないと……。
若いレナーテはあまり経験がないので焦りと共に仕事を進める。
果たして、なんとか定数を確保できた。
荒くれ者、流れ者といった風情の典型的傭兵から金欲しさの街の徒弟、農家の次男三男、果ては学費稼ぎ目的の学生や冒険家気取りの貴族までもが例年と同じように集まり、手付金を受け取っては街へと消えて行った。
このうちの何人がちゃんと閲兵の場に現れるのだろう?
心配はいらない。
これは名誉の問題だ。
もちろん金を受け取ってそのまま知らぬ顔で姿を現さない人間もいるにはいたが、非常に少数だ。
一度傭兵になる手続きを済ませたからには傭兵になることを忌避するのは非常に不名誉な事であるという感覚があったのだ。
だからこそ緩い拘束力しかないシステムでも破綻なく人を集めることができたのだった。
数日後の朝、帝国中央のある都市の郊外でいよいよ査閲が行われる。
各地で中隊長たちが募兵した人間はここに集まる手はずになっていたのだ。
レナーテは軍装でこの儀式に臨む。
花びらのように房が幾重にも折り重なって出来た幅広の帽子、そこからは白鳥の羽で作った真っ白な水飛沫のような飾りが吹き出ている。
ダボダボに膨らんだ節目のいくつもある袖を持つ青いシャツ、その上に薄い鉄の胸当てをつけ(大きく実ったバストのために胸部の防具はいつも選ぶのに苦労するのが悩みの種だ)、そこからさらに赤のジャケット――金の装飾がほどこされている――を着ている。
縦縞のある、薄黄色い色の腿までのデザインのズボン、脛はぴっちりした靴下で覆われていて、黒い丈夫そうな靴を履いていた。
左腰から下げるは父の形見の中剣。
右腰には傭兵の標準装備である喧嘩剣という刃渡り五十センチほどの剣が括り付けられている。
死に臨む立場の傭兵にあってはこういった派手ないでたちこそが誉であり、楽しみであった。みなそうだ。これから傭兵にならんとする、査閲に臨むために集まった仮の傭兵達もみな示し合わせたように似たような華美な格好に身を包んでいる。
「よお、古参兵はどのくらい集まったんだ? みんなルーキーばかりか?」
ヨスが無精髭の生えた顎を撫でながらレナーテに話しかける。
彼女と同じく、ヨスも中隊長だ。
その恰好は決して華やかではないがセンスを感じさせるものだった。
黒を基調とした、兵士たちに比べれば落ち着いた色合いの上下に分厚い胸甲を着け、その上から赤いスカーフを巻いている。
帽子はやけに幅広い。
彼はその風貌と洒落たセンスでいつも娼婦たちにきゃあきゃあ言われているのだった。
レナーテは集まった兵たちに目をやったまま振り向かずに答える。
「一割がいいとこかなあ。大分他の傭兵団に取られたよ。この調子だと今回はあんまり頼れる部隊は作れないかもねえ」
遠征がやってくるたびに新たに兵を募り、終われば解散するこの時代の傭兵団に上下の信頼などなかった。
唯一、古参兵だけは毎度同じ傭兵団からの申し出を受けるものだったが、今回は他の傭兵団に行った者も多かったようだ。
つまり新顔が多いということだ。
しかし幾ら何でも本当にルーキーばかりではないだろう。
みなどこかしらかで傭兵を経験しているはずだ。
なぜなら使い古された臭いのする武器を手にしている人間がほとんどだったから。
査閲に臨む際に武器を持ってきませんでしたと申告するであろう人間は随分少ないように見える。
このことからもわかる通り、傭兵たちは武器装備を自分の金で用意するのだ。
要するに手弁当。それは各々好きな武器を持ち寄ることを意味する。
近代軍隊のような取り換え可能な歯車になることなどなく、個性をアピールする冒険者といった風情。
しかしそれでは戦場において重要な役割を持つ槍隊ですら不統一な長さの槍しか用意できないということだ。
長槍(四メートル弱から五メートル強)が主流であり槍兵となるなら必須だったが、全員が持ってくるわけではない。
自前で用意する中で主な武装は三メートル以下の槍か斧槍――突き刺しと切りつけ、叩きつけのできる穂先の形状をした長柄の武器だ――である。
狙いをつけるとき銃身を支えるための異様に長い留鈎杖が添えられた火縄銃も兵士の標準装備と言える。
娑婆では容易に手に入らないそれを持っているなら少なくとも従軍経験のある人間だと判断できた。
力のある男はツヴァイヘンダーやフランベルジュなど、両手で持つ大型の剣を携行した。
農具であるフレイルを使う場合も多かった。
なぜなら生家からくすねてくれば宿営地で商人から武器を買わずに済むからである。
だがそんなモノを持って募兵の列に並ぶと言うことは戦場が初めてですと喧伝して回るようなものだ。
皆が必ず持つ喧嘩剣という小剣は白兵戦や喧嘩で必須のものだった。
こうして少なくとも見た目は武器の統一された長槍隊と、銃隊、そして混沌としか言いようのない種々の武器を持った雑兵部隊が出来上がる。
無論、自前で武器を用意せねばならない都合上、なにも用意できていないものも多かった。
しかしそれにしても武器よりも服装の方がみな気合が入っている。
町には傭兵服専門の仕立て屋すらいるのだ。
みな思い思いの服装をして個性を主張してはいるが、傭兵最新のモードを追っているのは確かだった。
それらの衣装はみんな武器と同じように事前の自己負担だから、貧乏人は貧乏人なりに一部しか揃わない出で立ちだし、金持ちはさらに着飾ることを良しとした。
共通してみられる特徴は、ひだひだがついていたり膨らんでいたり、袖の長い方に沿って沢山切れ込みが入っていて下の生地が見えていたり、ズボンが左右で色やデザインが違っていたり、どでかい羽根飾りのついた帽子だったり、とにかくその派手さだ。
そして皆一様にヒゲを蓄え、股間を強調する前当てや膨らみが据え付けられていた。
金のある者が身に付ける鎧は様々で、ぺらぺらの肩から吊り下げて腰で縛るタイプの金属の胸当てしかつけない者もあれば、肩から腰までを白銀の鎧に包む者もいた。
一般の兵士は革製の防具か、何もつけないのが一般的だった。
防具に関しては裕福な者以外さすがに手が回らないのだ。
甲冑・兜を用意しているものはわずかだ。
だいたいそういうものは戦場での戦利品を得た者か、懐に相当余裕のある者(そんな人間でも傭兵をするのだ)の特権だ。
鎖帷子のような安物から簡素な胸当て、鍔の広い鉄兜などの防具……。
彼らはとにかく精一杯華美な服装を楽しんだ。
兵たちが衣服を好きにできたことは自由の象徴だったのだ。
それこそ自由人としてのアイデンティティ。
なにせ当時は衣服こそ身分を表す社会標識だったから。
農民は農民の、貴族は貴族の格好しかできなかったのだ。
そこへきて傭兵たるや、どの階級出身だろうが好き勝手に着飾れたのだからその開放感はいかばかりだっただろう。
軍人の階級を示す特別のアイコンもなかった。階級章がないのだ。
上官の認識については、閲兵式でこいつが指揮官だと紹介されれば十分だった。
彼ら上官の服はただ兵士より豪華であるというだけだった。
レナーテやヨスはその例にもれず兵たちより数段質のいいモノを用意できていた。
「でもまあ装備は案外ちゃんとしてるじゃん。甲冑を身に着けた人間が随分いる。貴族出身かな。こういうやつらがみんな私んところに来てくれればいいんだけどねえ。どこかの誰かさんがみぃんな獲っちゃうから」
レナーテは憎々しげな視線をヨスの髭面に向ける。
「そりゃお互い様だろ。古参兵の間ではお前の方が人気なんだぜ」
彼らが言うのは閲兵の時の中隊同士の兵の取り合いのことだ。
人数規定があるから数に差は生じないのだが問題は質だ。
誰しも「稼げる」中隊長のもとに付きたがる。
つまりは略奪の機会をどれだけ作ってくれるかどうか……。
しかしレナーテの信用は別のところにあるのだ。
それにしても、査閲は順調に進んでいるようだった。
手順はこうだ。
所狭しと列を成す志願者たちの列の間に細い道を作る。
その入り口に斧槍を二本立て、斧刃の上に長槍を引っ掛けて渡す。
槍門と呼ばれた。
これこそが傭兵の世界と他の世界の境界でもあった。
ここをくぐればもう後戻りはできない。
傭兵としての生活しか残されない。
共同体はたとえ戻っても受け入れてくれないだろう(まあそもそも共同体で生活できなくなったからこんなところにいるのだから戻りなどすまいが)。
そこを通るものは居並ぶ荒くれ男たちの視線にさらされるのだ。
そして存分にその洗礼を受けた後、査閲官の前まで来る。
ここで装備や経歴を改められ、給金が決定することになる。
兵団お抱えの学生出身の書記官がそれを担当した。
その一人がゲオルグだった。
ボブカットの髪型と普通の市民服の上に兵団の紋章の付いた青と白のサーコートを着ているだけという出で立ちは、傭兵の世界にあってなおそれに染まることを拒否する反骨性を感じさせた。
屋外に据えられた机の奥に座るゲオルグの前に、服の一部、具体的には二の腕と右太ももが異様に膨らんだ、赤と黄色と黒の布地が重なった服を着た男が立つ。そしてこう言うのだ。
「私はかの有名な獅子公に仕えていた騎士……に仕えていたものである。戦場経験は豊富、討ち取った敵の数は数知れぬ。此度はかの有名な酷薄公の下で働けると知り、馳せ参じた次第。どうか私の来歴に見合った見返りを求める」
彼の斜め後ろに分かれて並んで道をこさえている男たちが今の口上を聞いて互いにあれこれ言葉を交わす。
あの獅子公の? 嘘だろう、あの方は随分前に没落している。
だいたいあの品のなさはどうだ。
貴族様に仕えていたにしてはどうかと思うぞ?
経験豊富などと言っているが具合的な数字を示さないではないか……。
などなど勝手なことを言いたい放題だ。
査閲を受ける者は自分の来歴をとうとうと語り始めたり武功を自慢したり挙げ句の果てには査閲書記官にひざまづいたりして給金アップの要求を通そうとする。
しかし査閲官は冷静に用意された武具と装備から給料を算出する。
この男の獲物は腰に差した喧嘩剣と、わずかな白兵戦用装備のみだ。
これではなあ。ゲオルグは男が募兵の時に申告されていた男の名の横に歩兵と書き込む。
「給金は月四ゴルテンだから。納得してね」
ゲオルグの前でいまだに自分をほめたたえる言葉を演説し続けていた男にぴしゃりと言ってのける。
男は自分の意にそぐわない決定に口をあんぐりと開けたまま固まってしまうが、致し方のないこと。
精いっぱいの不満の視線をゲオルグに投げかけながら査閲の終わったものの列へと下がった。
四ゴルテン……一ゴルテンを大雑把に十万円としてしまおうか。
すると月給四十万円。
この世界では下級職人や農夫の倍、徒弟制度の親方ほどの給金だ。
昨日まで食い詰め者だった人間がこれだけもらえるのだから大したものだが、これは兵士としては最低賃金だ。
次の男がゲオルグの前に立つ。
今度は甲冑を着こみ、飾り付きの兜を被った立派な兵士だ。
どこから見ても経験と懐豊かな古参兵だとわかる。
男は名を名乗る。ゲオルグはそれが書類にあることを確認し隣にこう書く。
倍給歩兵、と。
「はい、じゃああんたは月八ゴルテンだ。毎度来てくれてありがとうね」
男はさも当然と言った面持ちで列に並ぶ。
周りからは羨望のまなざしがむけられる。
レナーテは満足げにそれを見ている。
ヨスが話しかける。
「さて、そろそろ俺らの『ビジネス』を始めないとな。お前、あんまりいい子ちゃんな用途にばかり金を使ってると、そのうち自分のおまんま食い上げだぜ」
そう言って何処かへと去っていく。
何をしに行ったのかレナーテにはわかっている。
彼女もこれから同じことをするのだから。
兵卒から中隊長までみんなごまかしに手を染めていた。
査閲担当の前に中隊長は丸腰で現れる。
武具は兵たちに貸し与えてあり、その兵卒は倍給歩兵にランクアップというわけだ。
兵士は装備を誤魔化したり多重登録をしようとし、中隊長は兵員を水増ししようと女子供にまで甲冑を着せた。
女子供。
レナーテの今回の狙いはそれだった。
募兵に応じていない無関係な女子供にそれらしい格好をさせて査閲の列に並ばせ、偽名登録した名を自分の部隊の兵員として計上するのだ。
そして経費として幽霊兵士の給金を受け取る。
それはそのまま彼女の懐に入るのだ。
しかしそうした経費の水増しにて雇い主からくすねられ得られた金は決して中隊長たちの私腹を肥やすためだけに使われるのではなかった。
給料が支払われなかった時に兵士たちに還元されるためにもあったのだ。
レナーテの場合はなおさら他人のためというのが大きかった。それこそが彼女が古参兵から信用される訳である。
「また、どこかを略奪しに行くのかな」
そんな査閲式を眺める少年が一人。
名をラツェルと言った。
歳は十二。
栄養状態のためか背は少し小さめだ。
彼は戦災孤児だった。
傭兵の魔手によって故郷を焼け出された被害者だ。
無論、傭兵に対する憎しみはいかばかりか……。
「ねえ君ぃ、ちょっとバイトしない? お小遣いはずむからさ」
レナーテは査閲の儀式を眺めていた、こきたない格好の少年に声をかける。
それがラツェルだった。
おそらく孤児だろう、と、レナーテは少年の身の上を正確に推理する。
少年は困惑よりも驚愕と言った表情で、目の前に立つ絵巻の中から出てきたようなブロンドの美女の顔を見上げる。
少年の目にはかつて戦場に立ったという聖女にすら見えたことだろう。
きらびやかな服装、秀麗なる眉目、赤い唇、白い肌、ぶかぶかの上着やズボンからでもわかるそのプロポーションの良さ。
少年には縁遠い女神の姿がそこにはあった。
レナーテはしゃがみ込んで少年に目線を合わせる。
「これを腰に下げて並んでくれるだけでいいんだ。名前を聞かれたらハンスって答えてね。その名で計上するつもりだから……。ああ、難しいことは気にしないでいいよ? ただあの槍の下をくぐってあの陰気そうな兄ちゃんにハンスって名乗ればいいだけだから」
槍門の向こう、兵士たちの列の間、はるか奥に座り書類を整理することに忙殺されているゲオルグを指さして言う。
「あ、あの、僕は……」
どぎまぎしてしまう少年だった。
レナーテのことは一目で傭兵とわかった。
傭兵なんかとは口もききたくなかったが、きれいな女性に話しかけられたことなどなかった彼には抗いがたい引力が感じられたのだ。
そしてのっぴきならぬ別の事情もあった。
「い……いいですよ。お金、ないし。ちょっと行ってくるだけなら」
幾ら傭兵を憎み、その世話にはならないと思っていても背に腹は代えられない。
ここ数日ろくにものも食べられていなかったのだ。
少年は「バイト」をすることにする。
ただ行って帰ってくるだけでいいのなら、と。
よかった、とレナーテは安堵する。
続けて二言三言気を付けるべきことを言い、少年の小さな手に銀貨を握らせると腰の喧嘩剣を渡した。
傭兵の象徴ともいえるそれは刃渡りがおよそ大人の肘から指先までの長さの剣で、持ち手は柄頭に向けて円錐形に広がっている。
細い金具が、つぶれたS字に湾曲して鍔を構成していた。
少年は言われたとおりにそれを身に付ける。
そしてレナーテは彼を槍門の方へと促した。
この「バイト」こそが槍門を入りつつ傭兵にならない唯一の方法だった。
だったのだが……。
少年は歩く。
恐ろし気な尖った槍の下をくぐると両脇には自分の三倍はあろうかという屈強な大男たちが並んでいる。
ジロジロと数十もの目玉がみすぼらしい格好をした少年に向けられる。
傭兵に対しトラウマからくる恐怖心を持つ少年はこれだけで萎縮してしまい、物事がきちんと考えられなくなってしまった。
なんていえばいいんだっけ……。
少年は先ほどの麗人の言葉も半ば忘れてしまっていた。
ついに列の最前まで歩き切った少年はやや疲れ気味の表情のゲオルグの前まで来る。
「名前は?」
少年は問いかけに答える。
「ラツェルです」
本名を。
「ラツェルラツェル……うん、リストにあるな。まったく最近はこんなガキまで募兵しやがって」
ゲオルグはブツブツと文句を言う。
順に説明しよう。
まず少年が本名を答えてしまったのは何の意図もない、ただ単に緊張したが故のミスだ。
だがその名がリストにあった理由は面白い。
募兵の時に名前を書き金を受け取っただけでトンズラこいた不届き者がいたのである。
無論それは偽名だったのだが、偶然少年の本名と被ってしまったのだ。
少年ラツェルは自分のミスすら自覚することなく査閲済みの男たちの列に並ぶ。
一人だけチョコンとしていて、そこだけ頭の位置が数段低い。
滑稽な風景である。
すべての兵士の査閲が済んだことを見て取ると、レナーテが槍門をくぐって堂々とゲオルグの前まで来る。
「やあ、ゲオルグ。数千人分の査閲、キミら数人で捌くなんてご苦労さん」
ゲオルグとほかの査閲官たちにねぎらいの言葉をかける。
「ああ、大変だったよ。毎度のことだけどね。大の男の嫌味な視線や泣き落としを食らう身にもなってみろよ。戦場に出るより数段精神的鍛錬になるよ」
レナーテは笑ってその言葉に応じる。
さて、本題だ。
それまで書類に目を落として話に応えていたゲオルグはレナーテの様子をチラッとうかがう。
「レナーテ。喧嘩剣はどうしたの? 形見だっていう大事な剣は身に付けているみたいだけど、傭兵が喧嘩剣を持たないなんて珍らしいじゃないか?」
「ああ、あれかい? うっかりしてたよ。テントにおいて来ちゃった。ははは」
彼女はごまかしが下手だ。
かつて忠良な騎士として教育を施されたときに育まれた実直な性格がそうさせるのだろう。
そこもまた彼女の魅力ではあったのだが、こういう時には具合が悪かった。
しかしゲオルグも慣れたもので、あえて追及はしない。小言を言うまでだ。
「誰かに貸したりしてないだろうね?」
「まさか! 大事な武具を子どもなんかに貸したりしないさ」
まったくどこまで迂闊なんだが。
ゲオルグはため息をつきつつ彼女の装備を実検し、中隊長レナーテの名を決まり通りに確認した。