第十四話 少年ラツェルとレナーテはとある村にたどり着く
レナーテの傷はひどかった。
化膿しかけており、薬が必要だった。
包帯を巻きはしたが出血を止めることしかできなかった。
息も絶え絶えな彼女を馬に乗せたまま北を目指すラツェル。
どうしてこんなことになったのだろう。
自分たちは自分たちの筋を通しただけだ。
そう、ラツェルは思った。
なのにこんな理不尽な目に合うとは。
不条理極まりなかった。
彼女は彼女なりの正義に目覚め、略奪を忌避し、悪辣な傭兵隊長に反抗し、街で用心棒を立派に勤め、その結果がこれか。
納得いかない。
それは青臭い子供の論理だったが、ラツェルには切実な思いだった。
隣町に着く。
宿と医者の手配をする。
化膿止めの薬は……買えなかった。
高熱にうなされるレナーテ。
このまま最悪の事態もあり得る、と医者は言った。
いやだ。ラツェルは強く思った。
結局、彼女の容態がろくに回復しないまま、いたずらに日数だけが経っていく。
金は底を突きつつあった。
風のうわさには聞いていた。
北の地にザンクトゥアリームという村があると。
そこには各地から逃げ出した避難民が集っていて、来るもの拒まずの互助精神で生きているらしいとのことだ。
か細い希望ではある。
路銀が尽きる前にそこに到達することを目指すしかなかった。
道のりは険しかった。雪の中何日もかけて目指すべき場所へ向かう。
レナーテの体力は馬の背に揺られて日に日に低下していく。
時間との勝負だった。
「ラツェル。ちょっとおいで」
寒い夜だった。
ある村のある家の小屋を借りたとき、レナーテは乾草の山の中からラツェルに声をかけた。
「死ぬほど寒いんだ、ちょっと、抱きしめさせて頂戴」
抱き合って眠るのはもう何度目かわからない。
しかしラツェルが乾草の中に潜り込むと、そこは大量の汗でぐっしょりしていてこのままでは朝には凍り付きそうであった。
レナーテはそのことに気づくとうっとうしそうに衣服を脱ぎ始める。
ラツェルの顔が一気に赤くなる。
とうとう足の包帯以外下着すらまとわぬ裸体を晒すと、乾いた干し草をわさっと新しく持ってきて二人の上にかけた。
こうしなければ汗で一層体が冷えてしまうのだ。
「……あんたも脱ぎな。そうしないとあんまり……。大丈夫、変なことしないから。」
ラツェルもおずおずと自分の服を脱ぎとっていく。
さすがに湯浴みまで彼女と共にしたことはないから、お互い一糸まとわぬ姿を見せるのは初めてだ。
ラツェルは裸のレナーテにその身を抱かせて、真っ赤になりながら湯たんぽの役割を提供する。
背中に感じる柔らかな感触のなか、一瞬干草の中に見えたものを思い返す。
レナーテの体の曲線、鍛えられた引き締まった肉体、その存在を強く主張する柔らかなバスト、汗にまみれた肢体……。
目に焼きついたそれらが頭の中をチラついてどうにも寝付けない。
「助けてくれてありがとう。あんたが来てくれなかったら、どうなっていたか」
レナーテがしゃべるたびに喉の震えがうなじに伝わってくる。
ラツェルは心ここにあらずだったが、どうにか答えを返す。
「いえ、そんな……」
「ふふ、あんたのことは絶対守るって、そう言ってたのに……。逆になっちゃったね」
レナーテは熱で、ラツェルは恥じらいで、互いに違う理由で頭をボーっとさせる中、眠りの中に落ちていく。
彼女が寝入ったのを確認するとラツェルはつぶやく。
「ザンクトゥアリームに着いたら、一生一緒に暮らそっか。戦いのことはもう、忘れて……」
その日、レナーテは久々に安らかに眠れたのだった。
しかし薬がないことには回復しない。
ザンクトゥアリームに着いた頃には、彼女は青い顔をしていて、もう食べ物も受け付けなくなっていた。
「どなたかいませんか? 誰か! お助け下さい!」
吹雪の中、急峻な谷あいの村にラツェルの悲しく蒼い声が木霊する。
しかし少年は村の前の表札にこんな文言を見ていたのだ。
曰く――傭兵お断りと。
この村は戦争の被害者の集まりらしかった。
幾度か呼んだ後、一軒の、羊の群れを背に抱えた家が扉を開けた。
老婆が現れる。
入ってもいいとのことだった。
ラツェルはお礼を言いつつレナーテを運び入れる。
「薬が必要なんです、なんとか都合がつきませんか」
ダメ元で訊ねるラツェルは幸運に感謝することになる。
家畜の怪我への対処のための用意があったのだ。
好意に全面的に甘えて施しに感謝する。
「で? 君らも焼きだされてきたんだろう? まったく、今年は相当ひどかったからね」
ラツェルは一瞬返答に困るが、はいと答える。
ラツェル自身はそういう過去を持つわけだし、百パーセントの嘘ではなかった。
「プセヒパーテンという傭兵隊長を知ってるかい? 前にあいつがひどいことをしたのさ。はるか南の村を皆殺しにした。私は偶然そこから逃れることができたけど、それで故郷を追われたんだよ」
ドキリとした。
自分たちの運命にどれだけあの男が関わってくるのだろう。
だが子供と女という取り合わせだ。
まさにそのプセヒパーテン配下の傭兵だったとばれることはあるまい、ラツェルはそう思った。
夜になり、薬の効果かようやくレナーテの熱が下がり始めたころ、家の住人が姿を消していることにラツェルは気づいた。
嫌な予感を感じて外に出る。
ゾッとした。そこには民家を円弧状に取り囲むように群衆が集結していた。
みな一様に憎しみの視線をラツェルに投げかけている。
この家の住人だった老婆が大声で言った。
「よくも我々の村を訪ねられたものだね! その顔は知ってるよ! 悪魔プセヒパーテンの隊にいた! この目で見たんだ! よくもたばかってくれたね! 薬なんかやるんじゃなかった。今すぐこの手で殺してやる! 私の家族はこいつらに殺されたんだ!」
ラツェルは絶句する。
治療の最中にレナーテや自分があの時の惨劇の場にいた傭兵だと気づかれたのだ。
なんとも不運なことだったが……これも因果応報というのだろうか。
老女が言いたいことをすべて言い終えると、槍や剣など村人らしからぬ武具を構えた村人たちがジリジリと近づいてくる。
みな殺気立っている。
がたっという音にラツェルが家の中を振り返る。
レナーテが起き出し足を引きずりながらだがこちらに向かってくる。
ラツェルは寝ていなきゃだめだと言うがレナーテは聞かない。
暖炉のおかげで暖かい空気のあった屋内から出るとそこは極寒の冬の夜空だった。
村長は誰か。
レナーテは問う。
集団の真ん中にいた人物が杖を掲げる。
その老人は片足が義足だった。
積もった雪に杖と義足を突き刺しながらよぼよぼとこちらに向かい、十歩の距離で止まった。
相当こちらを警戒しているようだ。
その老人はアルヌルフと名乗った。
アルヌルフは確認する。
「嘘偽りなく答えよ。お主らは傭兵か? 否か?」
「そうだ。傭兵だった。ついこの間まで、プセヒパーテンの傭兵団にいた」
レナーテは言われたとおり正直に答えた。
どよめきが起きる。曰く、殺せ、殺せ、と。
「なるほどそうか。女傭兵よ。お前を許すことは出来ぬ。普通の農村なら傭兵を仕方なく受け入れるのかもしれない。だが我々は違う。絶対に受け入れない。ここから去ることも許さん。死んでもらおう」
手負いの女一人など赤子の手をひねる様なものだとばかりに距離を詰めてくる。
実際その通りだ。
今のレナーテに戦う力も逃げる元気も全くなかった。
万事休すと言ったところだ。
ラツェルは思う。
かつての僕と同じだ。
盲目的に傭兵を憎んでいる。
いやかつて、というのは間違っている。
今も確かに憎んでいる。
レナーテだ。
彼女の存在が傭兵への憎しみを一面かき消していた。
血のように赤い魚群に一匹だけ純白の魚が混じっているように、彼女は全くの別の存在だった。
一目会った時の美しさに始まり、その精神の高貴さに終わる彼女の在り方がラツェルの憎しみを癒していたのだ。
「私を殺すのか?」
レナーテは傷と熱にあえいでいる点を除けば平静そのものと言った様子で答えた。
無言の肯定があった。
「いいだろう。私も罪深い身。だがこの子だけは……」
ラツェルを指さす。
「私は確かに血にまみれている。部下が無辜の民を殺すのを平気で見ていた。今更許されようとも思わない。だがこの子は、この子だけは潔白なんだ。許してやってはくれないか」
じっとその言葉に聞き入るアルヌルフだった。
「その言葉は本心かね?」
震える首が首肯する。
「ではその意思を改めさせていただこう」
アルヌルフがそういうと槍を持った屈強な大男が現れる。
レナーテはすぐに彼らのやらんとすることがわかった。
決闘裁判だ。
この男と一対一の勝負をやらせて、勝てばレナーテが認められ、負ければ殺される。
それだけの話だった。
至極単純、だが農民というよりは傭兵流の問題の解決方法だ。
しかしそれはレナーテにとって最悪の状況だった。こんな体調で戦えるはずもない。
「僕が相手になります」
村人たちに動揺が広がる。
子供が村一番の豪傑と死合おうというのだ。
正気の沙汰ではない。
それは村人の本意でもなかった。
「小僧、除け。そしてその女傭兵を前に引きずり出せ」
「そうだ、言うとおりにするんだよ、ラツェル」
そんな言葉も絞り出すように吐くレナーテにはどう考えてもこの場は任せられそうになかった。
ラツェルは意を決してレナーテの下へ行き、剣を借りることを申し出る。
レナーテはそんな馬鹿な、という顔をする。
――あんた、私が教えたのは短剣術ばかりで剣はほとんど振ってないじゃないか。
彼女のそんな思いは脇に置いて、それでもやるしかなかった。
ラツエルは自分には手に余る重さの剣を受け取ると、男の十歩前に歩み出て、レナーテから唯一教わった、「鍵の構え」に構える。
腕を交差させ胸まで剣を引きつけ、切っ先を正面に向け刀身を水平に保つ構えだ。
腕力に優れぬラツェルはこれで全身を使って剣を制御しつつ突進せよと教わった。
少年の好戦的姿勢に当然、どよめきが起きる。
「この女はこんなガキに自分の命を預けるのか!?」
大男は叫ぶ。しかしラツェルはひるまなかった。
「僕だって戦えます! 戦って自分たちの正しさを証明します!」
大男はいまだ納得できない様子だったが。
村長アルヌルフの促しもあり、ついに決闘を始める。
始まりはしたが、お互い間合いを測ってなかなか懐に飛び込まない。
男の方も流石に子供相手であるがゆえに、そうそう本気など出せないのだ。
距離を測るかのように槍が飛ぶ。
それを剣で叩き落とすラツェル。
それで精いっぱいだ。
とても槍の穂先を自分の身体に刺さる軌道から払いのけて、その間合いに入って行くなどできそうにない。
しかし男の方も手加減ゆえに攻めきれない。人間を殺した経験のない彼は子供に槍を向けているこの状況に極度の緊張感すら持っていた。
そんな始末であるから、ここに付け入るスキがあった。
男が下段の突きを放った瞬間、ラツェルは穂先を踏みつけ一気に踏み込む。
槍の間合いが殺され、二人の距離が詰められていく。
剣の鋭い切っ先が迫りくる。
まずい、そう思った瞬間、男は咄嗟に蹴りを繰り出していた。
ラツェルの腹にまともに入る男のつま先。
少年の軽い体は槍の間合いの外まで吹っ飛んだ。
――惜しい。レナーテは臍を噛む。あと少しだったというのに。あと少し? 何のことだ?
あと少しでラツェルがあの男を殺せた? それが正義に適うとは到底思えなかった。
「ラツェル! 殺すんじゃないよ!」
再度村人がどよめく。勝てるつもりでいるのみならず手心まで加えるというのか?
舐められている。
その感覚が群衆をヒートアップさせた。やれ、やってしまえ、ガキを殺せ、村人たちの声がこだまする。
ラツェルは痛む腹部を抱えながらも素早く体勢を立て直すと剣を再度「鍵の構え」に構える。
今度はさっきのようには行きそうにない。
相手はさっきの戦法を警戒するだろうし、もう本気になっていることだろう。
ラツェルは気を引き締める。
「小僧、やるな。一瞬ヒヤッとしたぞ」
槍の穂先をゆらゆら揺らしながら男が言う。
もう先ほどの固い感じがない。
戦闘の緊張がほぐれ、程よいリラックスが到来している。
ラツェルは苦戦を予想した。
槍の連続突きが来る。
全身で剣を振るってそれに対抗するラツェル。
しかしどうしても手数が追いつかない。
幾たびか槍の先端がラツェルの肌をかすめる。
死線を幾度もくぐる少年。
これはいけると判断した男がついに勝負を決めようと捩じり込むように大きな突きを放った。
ラツェルは稲妻のようにそれに反応する。
狙ったわけではない。
純粋な反射神経だ。
槍の穂先を文字通り鍵の様にこじ開けると、前に倒れる勢いを利用し一瞬でトップスピードに達して相手の懐に飛びこんだ。
男は後ろに下がって距離を取ろうとする。
槍を振るって叩かんとするが接触を続けるラツェルの剣がそれを阻んだ。
遂に刃が男の身体に到達する。
「殺すな!」
レナーテの大声がラツェルの耳に届く。
少年の剣は男の肩口に突き刺さった。
大きな体が崩れ落ちる。
村人たちは言葉もなく、勝利を手にした少年を見つめていた。
その一件以来、レナーテとラツェルは村への逗留を許されることとなる。
何の対価も要求されることなく、食事を提供され、レナーテの傷が癒えるのを待つことができた。
「あの人たちは僕たちをどうする気でしょうか」
泊まらせてもらっている民家で提供された食事をいただきながらラツェルは訊く。
レナーテはそうだねえ、といいつつ思案顔だ。
今自分たちがここにいることを許可されているのは決闘裁判の結果故か。
いや、いくらそれがあったとしても村人全員を納得させることなどできないはずだ。
ほかに理由があるとしか考えられなかった。
レナーテが動くのに支障がなくなった頃、村長のアルヌルフが彼らを訪ねた。
「具合はどうですかな?」
「ええ、お陰様で……」
すっかりよくなった、と伝える。それは結構だ、とアルヌルフ。
「実は、折り入ってお話があるのです」
来たか……。レナーテには半ば予想の範疇であった。
ラツェルも興味深げに彼の話に耳を傾ける。
アルヌルフはその前に、と言って一つの質問を投げかけた。
「何故我々の村の戦士を殺そうとしなかったのです?」
レナーテは予想外の問いかけに面食らう。だが考えてみれば当然の疑問だろう。
あの状況で子供に相手を死に至らしめない立ち回りを要求するなど凶気の沙汰だ。
いぶかしがられても不思議はない。
レナーテは正直に答えることとする。
「あの状況での殺しは正義に悖る、と思ったからです。それだけ……それだけです」
アルヌルフはなるほど、と言って深く息を吸って吐き出す。
目を閉じながら何事か思案した後、意を決して、と言う風で話を切り出す。
「近頃農民反乱が頻発しているのはご存じですな?」
「ええ、それが何か?」
「我々も反乱に加わっているのです」
これは意外でもなかった。
そうでなければ村人たちが武具を持っていた理由がわからないというもの。
もう話は見えていた。
手を貸せと言うのだ。
農民反乱……長引く戦乱、嵩む戦費、それが重税となって民を圧迫し……ついには煮詰まった鍋のふたが弾けるように反乱となって噴出する。
――ここだ。レナーテは思った。こここそが正義の在処だ、と。
「話は見えました、いいでしょう。手を貸します」
老いた村長の顔がほころぶ。
「あなたの様な傭兵を待っていた」
そう言うと深々と頭を下げて感謝の意を示した。
「レナーテ殿、ありがとうございます、ありがとうございます。どうかよろしくお願いします。もちろん報酬は弾みます」
ことの成り行きを見守っていたラツェルは突然のことにぽかんと口を開けるしかなかった。レナーテは老人の手を握って熱く語りかける。
「金など要りません。もう私たちは傭兵じゃないから。そうですね……敢えて名乗るなら騎士と言っておきましょうか。私は、いえ、我々二人は民のために振るわれる剣です。私がどれだけお力になれるかわかりませんが、持てる策をすべて提供しましょう」
歓声が聞こえた。
立ち上がって窓から外をうかがう。
そこには大勢の村人が集まって、喝采を叫んでいたのだ。
どうやら中の会話はすべて聞かれていたらしい。
レナーテはここにこそ探し求めた正義があると確信した。
しかしこんなにうまくいっていいのだろうか。
彼女は何か大きなうねりに巻き込まれたかのような感覚を得ていた。