第十二話 街に生きる
寒い。
手綱を取る指先が震え、息はたちどころに霧になる。
雪を孕んだ冷たい空気特有の臭いが呼吸する度に粘膜を凍てつかせる。
女傭兵と少年兵、いや元女傭兵と元少年兵は行く当てもなく、ただ市内を馬で出歩くだけだ。
レナーテは社会的地位の喪失というショックから回復するためにただ無為に過ごす時間を必要とした。
実際彼女にとって傭兵団の一員という立場は自分で考えていた以上の価値があったようだ。
家を失い、他に行くところもなく、娼館の門を叩くのもはばかられ、行き着いた先が傭兵団だったのだ。
始めに受け入れてくれたのは補給商隊の娼婦たちだったが、剣の腕が古参兵たちの目に留まった。
そして父親代わりになってくれたのがベルンハルトだった。
彼から喧嘩剣をもらって以降、レナーテは彼の価値観を傍に置いて生きた。
すなわち、傭兵の世界観だ。
刹那的に生き、簡単に死ぬ。
喜びは略奪で手に入れ、明日のことなど考えない。
レナーテはそれを間近で見てきて、慣れ親しみ馴染んでいたつもりだった。
しかし馴染み切れてはいなかったようだ。
心の奥底を流れる伏流川のようにそこには父の言葉があった。
誇り高き騎士たれ、と。
だからこそレナーテは自分から積極的に戦場の悪事に手を染めようとはしなかったし、困っている部下がいれば身を切って助けたものだ。
それでも傭兵の世界にいる限り、血と涙にまみれた金で生きていることには違いなかったのだが。
彼女は半歩そこから身を置くことに慣れていた。
そのことで自分の正義を確保したとでもいうように。
そう、正義。久しく忘れていた言葉だった。
忘れなければならなかったのだ。
でないとその言葉は彼女をチクチクと突き刺し続けただろう。
正義を忘れ、日々生きることに忙殺され続けるのは楽な生き方だった。
たとえ生死がかかっていても。
ではこれからはどうやって生きて行けばいいのだろう。
その答えを彼女はまだ持っていなかった。
「これからどうしましょう。レナーテさん」
言いにくい言葉を最初に口にしたのはラツェルだった。
もちろんすぐにでも考えなければならないことだったが、レナーテはまだ心地いい無為の中に傷ついた心を浸していたかった。
しかし甘えていても仕方ない。
レナーテは一人ではないのだ。
この少年に対しても責任を持たねばならない。
まずレナーテがしたのは服の交換だった、自分とラツェルの来ている服を下取ってもらい、代わりに質素な服を買う。
財産のほとんどを身につけていると言ってもいい豪奢な衣服は高く売れた。
巡礼者がよく着る簡素な服とマントと剣を身に付け、差額となった金を胸に今日の宿を探す。
幸い、空いている宿が見つかった。
やっと骨休めができる。
二人は割り当てられた部屋に籠るとベッドに倒れ込む。
しばらく休んだ後、ラツェルは先ほどと同じことを問う。
「これからどうしましょう。レナーテさん」
レナーテにもわからなかった。
ほかの傭兵団で雇ってもらうか?
そんな気になれるはずもない。
冬の間、女と少年が食いつなぐ道。
一つしか思いつかなかった。
「心配しないで。ラツェル。お姉さんに任しときな」
「身体を売るんですか?」
ドキリとした。
子供からそういうセリフが飛び出すとは思っていなかった。
「そんなことはあんたの気にすることじゃないじゃんさ」
「その、ハンナから聞いたんです。向き不向きのある仕事だって。レナーテさんみたいな人は一番向かないって。すぐつぶれちゃうって」
「あの娘、そんな話を……」
レナーテはハンナを想う。
無残に死んだ、かわいそうなハンナを。
それにしても娼婦をするというのは考えれば考える程唯一の方法にしか思えなかった。
「いいかい。あんたが私のこと憎からず思ってるのはよーく分かってる。でもね、嫉妬したって始まらないんだよ。生きるためじゃんさ。仕方がないんだよ」
ラツェルは複雑そうな顔をするとその日はそれ以上何も言わなかった。
金が尽きる前になんとかしなきゃいけない。
手元にあるのは服を売った差額五ゴルテン。
二人が暮らすには一月半といったところだろうか。
それまでにケリをつけなきゃいけない。
なに、同じ境遇の女性なら本来誰しもやっていることだ。
雪の降る中、娼館の前に立つレナーテ。
今マントとフードに包まれているこの身体を他人に抱かせればいいだけのこと。
何も問題はない。
けれども――。
自分の力だけで剣を振るって生きてきたというプライドが足を重くする。
いや、そんなものはちっぽけなプライドに過ぎない。
この世には捨てていいプライドと捨てちゃいけないプライドがあるという。
これは捨ててもいいプライドなのではないか?
レナーテにはわからなかった。
ベルンハルトの顔が浮かぶ。
こういう時こそ彼のことを頼りたい。
導いてほしい。
しかしそれも甘えだ。
今はそんなことを考えてもいられない。
娼館の門を叩こうとしたその時だった。
「レナーテさん!」
ラツェルが息を切らしてこちらに走ってきたのだった。
ぜえぜえと白い息をたくさん吐いた後、困惑するレナーテに事のあらましを話す。
「そこで喧嘩が起こってるんです、どこかの除隊兵士です。あれを止められたら店主の人が報酬をはずむって」
レナーテはあまり期待せずにラツェルにいざなわれるまま現場に向かった。
そこは酒場だった。
他の客が遠巻きに眺める中、ぶかぶかの単色の服を着た男と、カラフルな格好の男が掴み合いになっている。
一目で傭兵と分かった。
押し合い引き合いしながらあちらこちらに体をぶつけて、テーブルも椅子もめちゃめちゃに壊している。
これは骨の折れる仕事だ、とレナーテはため息を吐く。
店主と思しき男性が店の外で怯えている。
ラツェルを見止めると駆け寄ってくる。
約束通り助っ人を呼んでくれたのか? と言うととなりにいるレナーテを見て愕然とする。
女だって?
「あれを止めればいいんだろう? 報酬ははずんでもらうぞ」
レナーテはマントを脱ぎすてると軽い足取りで事の中心に向かっていく。
二人の男はお互い組み合って複雑な力のぶつかり合いの中にいる。
これをレナーテのような女がどうこうできるとは思えなかった。
しかし彼女は怖じ気づくことなく、酒瓶を手に取ると躊躇なく片方の男のこめかみにぶち込む。
ガシャンという音と共にその男はグラッと倒れる。
もう一方の男はそれを呆然と見つめるが、レナーテに組み付かれてはっと我に返ったようだ。
女がなんだと聞き取れないことを叫んでいる。
体格では男の方がはるかに勝っているから、レナーテに抑えきれるとは思えない。
しかしベルンハルト仕込みのレスリング技術をもってこれを制しようというのだ。
だがやはり力の差は歴然、この試みは失敗に終わる。
男はレナーテの身体に手を回し、がっちりと掴み、そして力任せに持ち上げた。
ベアハッグだ。
そのままギリギリと締め上げる。
呼吸が阻害され、苦しそうに顔をゆがめるレナーテ。
ラツェルが固唾を飲んで見守る。
しかし彼女は焦らない。
自由になる腕でもって相手の目を突く。
たまらず手を離す男。
眼を押さえてうずくまるところに蹴りを食らわさんとす、しかし……。
「レナーテさん! 後ろ!」
最初に瓶での一撃を食らった方が起き上がり、レナーテにタックルを食らわせたのだ。
背後からの攻撃に対処しきれず、後ろから抱き着かれるように拘束されてしまう。
もう一方の男が喧嘩剣を取り出し、レナーテにそれを突き刺さんと迫る。
危ない! ラツェルはそう叫ぶと堪らず駆け寄ろうとするが、レナーテの反応は早かった。
自分の右足を背後の男のアウトサイドまでずらすと上体を左にひねりながら男の右足を狩る。
半回転して倒れる男。
拘束が解けたレナーテはすぐさま迫りくる剣に対処する。
訓練を経ていないであろう相手はそれを無用なまでに上に振りかぶってから振り下ろそうとする。
カモだ。
両手をクロスさせて受け止めると相手の右手をつかみ、肘を曲げさせてロックする。
相手の手首を両手でつかむと一気に体重をかけて下に引き下げる。
堪らず膝を屈したところを足を狩って転ばせ、顔面への踵蹴りでもってフィニッシュする。
再度起き上がってきたもう一人の男は怖気づいたらしく、腰が引けている。
それを見逃さず、間合いに飛び込んでいくレナーテ。
しかしそのタックルはつぶされてしまう。
そしてそれだけでなく、脇に手を回され、再度拘束されるのだった。
しかし、これがレナーテの狙いだった。
レナーテは自分の身体に回された男の両手をつかむと一気に腰を下ろす。
すると男の身体はレナーテの背の方に一回転し、受身も取れないまま脳天からどすんと着地し、失神した。
レナーテは二人の男の無力化に成功したのだ。
ギャラリーからどよめきが起こる。
まさか女がこれほどの結果をもたらすとは。
最も驚いたのが店主であった。
「さ、これでいいですか。今日の宿代くらいはくださいよ。これ以上店が壊れすに済んだんですから」
レナーテはたかりをするような気分のわるさを感じたが、これで今日は黒字になったのだった。
それから二人は似たような用心棒業を繰り返し、生活費を稼いだ。
除隊期間中の傭兵達というものはどいつもこいつも荒んでいて、けんか騒ぎや強盗事件には事欠かなかった。
傭兵団を去って以降のそんな生活の中で、レナーテは自分の中の正義を追い求めていた。
幼き頃に父から受け継いだ騎士道。
それに適うのならどんな仕事でも請け負うことにしていたのだ。
酒場の喧嘩を取り締まることから強盗を捕まえることまで、社会正義に分類されそうな仕事はいくらでもやった。
こうして困っている民の盾になることは彼女の正義の道に沿うものに思えた。
二人がとある宿に泊まり、その食堂で会話している時のことだ。
「テント以外の場所で寝られるなんて、傭兵時代には考えられないことですね」
「バカ! しっ!」
レナーテは慌ててラツェルの失言をたしなめる。
ラツェルは自分が何を言ってしまったか数舜遅れて気づいたようで、青くなる。
自分達が元傭兵だと知られればどんな目に合うか……。
目の前で無残に死んでいった農民たちの顔が浮かぶ。
辺りを見回すとちょうど料理を運んできていた店主と目が合った。
不味い。
レナーテは即座に席を立とうとするが、どっかと皿を置いてくれる店主の放つ雰囲気はとても想像とは程遠いものだった。
「あんた、元傭兵さんかい? だったら歓迎だ」
驚きの言葉だった。
レナーテもラツェルも間抜けな驚き顔で店主の顔を見つめる。
「傭兵を歓迎するの? 傭兵は略奪をする悪魔なんじゃないの? どうして歓迎なんか……」
店主はその言葉を聞くとわっはっはと笑い、こう答える。
「こんな内地で傭兵が略奪をしたなんて話は聞かないからねえ。地方はどうか知らんがここでは傭兵は略奪品を下ろしてくれるお得意様さあ」
なるほど。
とレナーテは思う。
確かに普通、傭兵は都市に寄れば補給商隊と共に略奪した物品を適正かそれ以下の値段で売る行商人に過ぎない。
プセヒパーテンがあらゆる都市で無法を働くものだから感覚がマヒしていた。
「そりゃあ暴れ者も多いというのは確かだけど、しかしこの町はなにせ傭兵のおかげで食えてるようなもんだからねえ。彼らの略奪品は重要な産業の一環だし、町の荒くれ者どもを根こそぎ兵隊として取っていくのもいい」
そういう考え方もあるのか……。
レナーテは自分の世間知らずを実感する。
考えてみれば自分は貴族に生まれ、傭兵となり、その世界だけで生きてきた。
民の心など知る由もないのだ。
――これからはそうはいかない。
レナーテは認識を新たにする。
民の盾となる、そのためには民の心根も知らないといけない。
それは彼女の課題として心に残った。
民が何を考えているか……。
となりの席で夢中で食事をしているラツェルを見る。
レナーテにとってはそのカギとなるのがこの少年なのだった。