雪の中へ閉じ込めて、冷たい彼と犯した罪を
夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。
一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。
音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。
男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければ――。
力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。
暗い、暗い世界の中で私は誰かに肩を掴まれ怒鳴られている。「どうして俺では駄目なんだ」と誰かが泣きそうな声で叫んでいた。
私はそれを静かに冷めたように見つめていた。どうせ、その誰かに何の言葉を返そうがここで私は終わりなのだと分かっていたみたいに。
次にくる恐怖を感じ、私はそっと瞳を閉ざした。そうして、私はさっきまでの暗い世界よりも遥かに暗い闇に墜ちていく。
ハッと目を覚ますと見覚えのある天井が見えた。落ち着くいつもの家の匂いに、深く息を吐き出す。
じわりと背中から嫌な汗が吹き出すのを感じながら、さっきまで自分が夢を見ていたのだと気付かされる。こんな寒い日にまで汗をかく夢とは一体何だったのだろう。
しばらくベッドの上で何もせずにボーッとしていると部屋のドアが開く。この寝室に入って来たのは艶やかな漆黒の髪に、黒曜石みたいな瞳。
見た誰もが魅力されそうな男性で、彼から漂うどこか危なげな空気はいっそ女性を惹かれさせるものがある。
「おはよう」
彼はいつも自分のことを多くを語らない。ただ寄り添うように私の側にいた。
私は彼が誰なのか、私にとってどんな人なのか分からない。ただ私が彼を初めて見た時から彼は私のことを妻だという。
こんな美しい男性が私の夫なのか正直不安だ。私は騙されてないのか、これは何かの嫌がらせなのだろうかと思ってしまう。
「心配事?」
ベッドの端に座り、私の顔を覗き込む彼に心が揺れ動く。
心配事はたくさんある。私はこのままでいいのだろうかと思ってしまう。
だって、彼が愛して妻にした私は記憶を失う前の私だ。記憶を失った私は彼と一緒にいていいのだろうか。
「わ、わたしは……」
上手く言葉が出てこない。なんて言ったらいいのだろう。
ジッと彼の瞳を見つめる。彼もまた私の瞳を見つめ返した。彼の瞳の奥にいるのは本当に私なのだろうかと。
「君はいちいち考え過ぎなんだ。俺は君が好きだよ。このまま記憶がなくても、ずっと好きだよ」
だから大丈夫。彼はそう言うように私の頭を優しく撫でる。
あまり自分のことを多く語らない彼だが、私のことを「好き」とか「愛している」とかはよく言う。私を安心させるために言っているのだと分かるが、それが余計に私の心を焦らせた。
彼は私のことを知っているのに、私は彼のことを知らない。
「しら、ない?」
いいや、違う。私は彼のことを知らないのではない忘れているだけなんだ。
だけど何だろうか。急に心臓が激しさを増した。どくんどくんと鼓動する音はすぐ近くにいる彼に聞こえているのだろうか。
「何が知らないの?」
ゾッとするような冷たい声に無意識に体が強張る。それを悟られないように首を振り「なんでもない」と答えた。
彼は基本は優しい。優しく私の近くにいつもいてくれる。記憶がなくても私を好きだと言ってくれる。
だけど、これで本当にいいのだろうか。何かが違うと私の心が訴える。それでも幸せならそれでいいのではないかと訴える私もいた。
「ねぇ、知っている?」
「なにを?」
「人にはね……」
私の頬を冷たい彼の手がそっと触れる。冷たい手なのに、彼自身は微笑んでいた。その微笑みは優しくて素敵なのに、なんだか怖い。
「忘れてた方がいい記憶があるってことを」
冷たい手が頬を撫で、唇に指が触れる。冷たい指は唇の熱でさえも奪っていく。
忘れてた方がいい記憶。それはさっき見た夢のことなのだろうか。私にとって忘れてた方がいい記憶。
小刻みに震える私の体を温めるように抱き締め、彼は優しく頬に唇を落とした。
「大丈夫、俺が君を守ってあげるから」
「……あっ」
「怖がらなくていいよ。君は何も覚えてないままでいいんだ」
私が記憶を失ったのは今日みたいな雪の日だった。窓から見える景色は一面真っ白で、そこに私は倒れていたそうだ。
私の帰りが遅くて彼が外に行き迎えに行ったら倒れていたのだ。
彼はいつだって私を助けてくれる。私のことを大切にしてくれる。
「だって君は俺の妻なのだから。俺にもっと甘えて欲しい」
コツンと私の額に彼の額が当たる。近すぎる距離に胸が苦しくてどうしようも出来ない。
彼に甘えることも身を委ねることも簡単だ。簡単で私も幸せになれると分かっている。
まぶたを閉じると瞳には暗闇しか見えない。まるで彼みたいだと微笑むと、目を閉じているからはっきりとは分からないが彼も微笑んだ気がした。
「君は……もう俺のモノだよ」
唇に触れる冷たくて柔らかい感触に、なぜか涙が一雫だけ零れ落ちた。
私は今日も夢を見る。それは昨日の夢とは違う。心が温かくなる夢だ。
私は温かいぬくもりに包まれ、笑顔で彼に身を任せていた。彼は優しくて格好いい。素直じゃない私も思う存分甘やかしてくれる彼だ。
彼は頭を撫でる。壊れ物を扱うような優しい手付きではない、ガシガシと乱暴に私の頭を撫でた。
頭を彼から撫でられるのは好きだった。子ども扱いしないでよ、と反抗するのも好きだった。
『ねぇ、もしも私が記憶を失って貴方の元を離れたらどうする?』
『本の読み過ぎ』
『でも、聞きたいのっ』
駄々を捏ねる私に彼は苦笑しながら言葉を紡いだ。その言葉を忘れないように私は胸にそっと仕舞い込んだはずだったのに。
目を覚ますと涙で視界がぼやけていた。近くにあった手鏡で自分の顔を見るが酷いものだ。目は赤くなり、いかにも泣きましたって感じがする。
彼がいない間にどうにかしないといけないと思い、急いで雪が降る外へと出た。家の中でも目を冷やすことは可能性だが、なんとなくあの家にはいたくなかったんだ。
どこか冷たいところに行きたくて、服は寝具のままで裸足で外へと出たんだ。
一瞬で足が凍った気がするが、そんなこと気にしている余裕はない。ただ、私はどこかもっと冷たいところに行きたい。
それはまるであの時のようだ。
「あの時って、いつなの」
歩みを止め、そっと息を吐く。白い息が空気に溶けた。
周りを見渡すと真っ白な雪。どこにもさっきまでいた家なんて見えない。帰る道さえも分からない。
本来なら不安に思うところだが、逆に安心してくる。やけに温かい家に帰らなくていいことが安心出来た。
彼は私が家にいないとなったら探しに来るだろうか。それともお荷物がいなくなったといって喜ぶだろうか。
「冷たいね、あなたは」
地面に積もっている冷たくて柔らかい雪を手で掴み、そのまま唇に当てた。雪の感触は彼を思い出させる。冷たくて柔らかくて優しい彼を思い出させた。
ここに来てかなりの時間が経った気がした。いや、もしかしたら少ししか経ってないのかもしれないが私には長く感じた。
そんな時に誰かに見られているような視線を感じる。今日だけではない。この雪が降る季節になってから一人の時に視線を感じていた。
もしかしたら、一人の時だけではないのかもしれない。冷たい彼が視線を感じないように寄り添ってくれていたから大丈夫だったのかもしれない。
だけど、何を思おうと今は私一人だ。しかも家の場所が分からないところにいる。誰も私を助けに来ない。
「たす……けて」
私だけの空間だった場所に私以外の足音が聞こえる。少しずつ近付く足音に冷や汗が止まらない。
小さく助けを呼んだところで冷たい彼は助けに来ない。だって、私は冷たい彼から逃げるように雪の中を走ったのだから。
「リサッ!」
ガシッと肩を掴まれ、ハッと意識が現実にと戻る。初めて聞いた私の名前を呼ぶ人に。いや、これが本当に私の名前なのかは分からないがなんとなく自分の名前だと思った。
決して冷たい彼が呼ばない名前だった。
「やっと、やっと会えた。リサ……」
目の前にいる男性は冷たい彼とは違う。光のような温かい金色の髪に透き通る空の蒼の瞳。初めて会う男性だった。
男性の体は冷たい私の体にとって温かいものだった。
「あなたはだれ?」
私はこの目の前にいる男性のことは覚えてない。初めて会うのだから当然かもしれないが、男性は私のことを知っているように話す。
知らない、知らない。私は覚えてないのに。
「触らないでっ!」
思いっきり男性の体を押したつもりだが、力が入らずに逆に男性の体に倒れ込んでしまう。彼よりも大きな手で支えられ、彼よりも温かい手で頬を撫でられる。
嫌だ嫌だと思うのに体が言うことを聞かない。男性から離れたいのに離れられない。
「リサ……」
そんな声で私を呼ばないで欲しい。だって、私は男性を覚えてないんだ。そんな声で呼ばれる筋合いはない。
少しだけ男性のことが気になり始めた時、後ろから思いっきり腕を引っ張られる。冷たい、今は私はその冷たさと同じくらいだが冷たい手にすぐ誰と分かる。冷たい彼は彼しかいない。
「俺の妻に何か用かな?」
「妻?」
「妻だよ。彼女は俺のモノだ」
冷たい彼は微笑んでいる。でもその微笑みは冷たい。
『人にはね、忘れてた方がいい記憶があるってことを』
ふと思い出すのは彼が呟いた言葉。彼はこの男性のことを言っているのだろうか。
この男性は私にとってなんだったのだろう。彼が私の夫ならば、男性はなんなのだ。
「リサがお前の妻?」
「そうだよ、俺達は結ばれたんだ。だから、もう君は彼女に付き纏うのは辞めて貰えないかな?」
「付き纏う……?」
私を隠すように彼が男性の前に立つ。前に立つ前に見た彼は大丈夫と言いたげに微笑んでいた。
彼の側だと安心する。前は私は彼の側にいることが、記憶がないのに愛されるのが苦痛だったのに可笑しい。
だって、その時から私の心は決まっていた。私は彼が好きなのだ。好きだから苦痛で、記憶を失う前の私を愛した彼が嫌いだった。記憶を失う前の自分に嫉妬したんだ。
「あっ……」
「大丈夫だよ、君は俺が守るから」
無意識に彼の袖を掴んだ私に彼は優しく言葉を紡ぐ。
違う、私は男性に怖がってないんだ。私が怖いのは自分の記憶が戻り、私が私じゃなくなることが怖いんだ。
「わたしは、あなたが好き」
「……っ」
「リサッ!」
冷たくて柔らかい雪みたいな彼の唇に自身の唇を当てると、彼が息を飲む音と男性が私の名前を呼ぶ声が重なった。
冷たくて柔らかい唇は気持ちが良かった。なのに、すぐ彼の唇は離れていく。いいや、男性が彼を私から離したのだ。
「お前、リサに何したんだ」
「何って、ただ俺達は紛れもなく結ばれただけだよ」
今にも彼を殺しそうな男性の殺意を感じ、体が震える。彼を助けないと一生会えないと思ってしまう。
一生会えないなんて考えられない。なのに、私は雪の上でただ突っ立ってるだけだ。
『君が俺を信じられなくなった時に使って。君に殺されるなら、俺は本望だよ』
そう言って、渡されたのはシンプルだが上等な小剣。服に隠せて、人一人くらいなら簡単に殺せそうな小剣だった。
それが今の私に残る最初の記憶だ。今、思えば彼は可笑しかったのかもしらない。そんな彼を愛した私も相当なモノ好きなのだろう。
「リサ?」
私は微笑んだ。微笑みながら男性の前に立ち、隠していたナイフで男性の心臓付近を刺した。
私の行動に驚いたのは男性だけで、彼はただ綺麗に微笑んだ。醜い私の微笑みより綺麗に微笑んでみせたのだ。
「やっぱり君は馬鹿だった」
「えっ?」
雪の上に男性は倒れ、真っ白な雪は赤黒く染まる。こんな寒い中だともう助からないであろう。
そんな男性を足で踏み付け、彼は私に優しい口調で言葉を囁いた。
「でも、そのお陰で君を手に入れることが出来た。君は本当に馬鹿だったよ」
クスクスと笑う彼はどこか違う人に見えた。
赤黒く染まる雪の上で彼は笑う。真っ白が似合わない彼なのに、どこか雪に似ているのはなぜなのだろうか。
冷たくて、こっちが捕まえようとするとすぐ溶けてしまうのに、こっちをすぐ捕まえてくる雪に似ている。
『お前が記憶を失ってどこかに行っても、俺はお前を探し出すから。なにせ、お前は俺の大切な奥さんなんだからな?』
夢の中の温かい人は彼じゃない。夢の中で私が愛した人は冷たくて雪のような人ではない。私が愛したのは温かくて優しい人だったはずなのに。
ふと忘れていた言葉を今更思い出す私は馬鹿だ。忘れないように心に刻み込んだのに、忘れていたなんて馬鹿だった。
「ごめん、なさい……」
誰に対しての謝罪なのか私自身も分からなかった。赤黒く染まる雪の上に立つ彼なのか。それとも、雪を赤黒く染めている男性なのか。
「ねぇ、俺は言ったよね?」
触れる彼の手は冷たいはずなのに、温かく感じた。それはきっと私がかなりの時間、外にいたからであっても彼のぬくもりを温かく感じた。
「忘れてた方がいい記憶があるって」
冷たい彼に肩を抱かれ、私はどこかに向かう。きっとそこは温かい家が待っているんだ。
雪の上に倒れている温かい男性を永遠に思い出さないように、雪の中に閉じ込めて。
『どうして俺では駄目なんだ』
夢の中のもう一人の彼は冷たく微笑んでいた。私は温かい人を愛しているから、と彼の告白を断った。
『知ってる、ずっと君のことを見てたから。でもね、君は馬鹿だからすぐ忘れて俺のモノになるんだよ』
夢の中の彼は冷たく残酷に笑った。
それが夢の結末だ。後は暗い中をひたすらと彷徨って、光を見つけて目を覚ますと彼がいたんだ。
冷たくて優しい彼がいたんだ。
「君は俺のモノになったんだよね?」
「うん」
雪の中に全てを閉じ込め、私は微笑む。何もなかったように、何も思い出さないように私は笑った。
「俺は君を愛しているよ、ずっとね」
冷たい彼に全てを任されるように、そっと瞳を閉じた。雪の中に全てを閉じ込めて。




