人質立て籠り事件現場で、恋(前編)
遠い、自分自身に捧げるララバイ。
不安や、孤独、劣等感に喪失感。
そんなパンドラの箱から飛び出したような、
言葉とメロディ。
過去の自分はどうするかしら。
未来の自分はどうするかしら。
今の私を、笑うのかしら。
「死ぬなんて、やめるんだ」
私は宥めるように言った。
「うるせぇ!」作業服姿の若い男が叫ぶ。
無精髭に、ボサボサの髪。掛けた眼鏡が傾いている。
「なんで死ななきゃいけないんだ」
「お前になにがわかる!」と男。「俺はもうダメなんだ。自分でおこした会社が倒産して、彼女にも愛想つかされ。もう生きている意味なんてないんだ!死なせてくれ!」
「ばかやろう!!」私は怒鳴った。
「生きている意味ってなんだ!そんなもの誰一人としてあるわけない。ただ、みんな一生懸命に生きている。それだけだ。なぁ、意味なんてなくたっていいじゃないか。死ぬなんてやめて、俺と一緒に生きよう」
私は手を伸ばす。
男は背の高いビルの屋上、あと一歩踏み出せば一目散に落下する場所に立っている。
私は警察官になって二年目、はじめて人の飛び降り自殺をやめるよう、説得していた。
「なぁ、俺と一緒に生きよう」
男が私を見つめたまま、なにも言わない。
説得できた。よし、うまくいった。
「としきくん」と先輩警察官のミキさんの声。私は振り返る。
「意味わかんないわよ」
「えっ?」
刹那、男の叫び声。
「うぉぉぉぉ!なに言ってんだその男ぉぉぉ!頭わりぃんじゃねぇかバカ野郎ぉぉぉ!てめぇと一緒に生きてなにがたのしいんだよぉぉぉ!」
「おい!悪かった!いや、俺と一緒に生きたら楽しいぞぉ!もう毎日朝起きたらサンバ踊って、昼はフラメンコ踊って、夜はギンギンに踊って」
「なに言ってんだてめぇぇぇ!嘘つくなよてめぇぇぇ!」
私は慌てて言葉をかえす。
「いや、まじだよ。ほら」と言って踊ってみせた。
「ほら、ギンギンギン♪ほら、ギンギンギン」
なんだか私が死にたくなってきた。
気がついたら結構危ないとこまで歩いてたのは、その為だったのかもしれない。
「もういい」男が言った。「さようなら」
男がお辞儀をして、私たちに背をむけた。
「待って!」ミキさんが叫んだ。
男がふりかえる。
「あなた、生きている意味がないって言ったわね」ミキさんは腕を組みながら、凛とした表情で歩き出す。
「あなたが考える生きている意味って、どんなことなの?お金をたくさん持って、好きなものを買って、好きなものを食べること?それとも彼女がいること?彼女のために生きていたの?」
男が少し黙りこんだ。そして、おもむろに口を開く。
「金をたくさん稼いで、彼女を幸せにすることが、俺の生きている意味だ」
ミキさんが、長い髪を右手で掻き分けた。
「会社が倒産して、あなたに愛想をつかした彼女を?」
「ミキ」ミキさんの背後に立っている、頭の剥げた上司の松尾が言った。
「言い過ぎだ」
ミキさんはその言葉を無視するように続ける。
「ねぇ、どうなの?」
男は俯いて黙りこみ、やがて顔を上げた。
目に涙をため込んでいる。今にも流れ落ちそうな様子。
「彼女は愛してくれた。いつも傍にいて、俺に優しくしてくれた。俺が落ち込んでるとき、産まれたまんまの姿で、頭を撫でてくれた。」
「松尾さん」とミキ。「脱いでもいいですか?」
「駄目だ」と松尾。
「彼女じゃなきゃ駄目なんだ!病弱で、月に病院代が100万円必要な彼女を俺は放っておけないんだ!でも、彼女は去った。どこにいるか知らないし、どうしてやることもできない!だからこんな気持ちのままに生きてるのは辛いし、彼女がいなきゃ生きてる意味もないんだ!」
「バカ男!」ミキさんが叫んだ。
「あんた気がつかないの?それ、騙されてたのよ。月に病院代が100万円必要な病気ってなんの病気よ。病名聞いたことあるの?」
男はハッとしたような表情で呟いた。
「そういえば・・彼女、なんの病気なんだ?・・」
ミキさんが、溜め息をついた。
「あなた本当にハエ男ね」
「ミキ」と松尾。
「あ、間違えたわ。あなた本当にバカ男ね」
「まさか・・まさか・・」男が混乱し、頭をおさえ、その場にうずくまった。
「そんな・・嘘だ」ミキさんが、私を見た。目で確保を促している。
私は「ほら、ギンギンギン♪ほら、ギンギンギン♪」と呟きながら、そして躍りながら、ゆっくりと男のほうに近寄って行ったといえば面白いかもしれないが、そんなふうに近寄っていったとしたら私は救いようのないくらいに狂っている。
まぁ、普通にソロリソロリと近寄っていった。
そしてゆっくりとうずくまっている男に触れ、「取り敢えず今日は帰るぞ」と言った。
ミキさんが私たちの傍にきて、空をみながら口を開く。
「お金なんて、多くはないかもしれないけど、きっとまた稼げるわ。女だって星の数よ。大丈夫、誰だって何度でも、幸せになるチャンスがあるはずだから」
私は、青い空をバックに立つ、素敵なミキさんの姿にみとれていた。
前だけを見据えて生きてきたような、堂々とした眼差し。少し高い鼻。程好く尖った顎。
薄い唇から発せられる、空気ですら痺れてしまうような、重みと説得力のある刺激的な優しい声。
好きだ。そう、いつか言うことができたなら、あの首筋にあるハート型の小さな痣に、触れることができる日がくるだろうか。
「さぁ、いこうか」松尾がやってきて、男に声をかけた。刹那。
「おれ、おれ、あなたのことを好きになってしまいました!お願いします!付き合ってください」
男がそういって立ち上がり、ミキさんの方に勢いよくむかっていく。
そして抱きつこうとした。瞬間。
ひらりとかわすミキさん。飛び込んでいく男の姿。
そのまま空に飛びだし、落下していった。
ミキさんは、あの日から一ヶ月後、警察官をやめた。咄嗟によけてしまった自分が、どうしても許せないとのことだった。
あれから六年。
私は刑事になり、交渉課に配属され、交渉人になっていた。
「先輩」私が車から降りると、後輩の中村が駆け寄ってきた。
「犯人は三人組。逃走用の車を要求しています。」私は頷き、目の前に集る、群衆の中を歩いていく。
そしてロープを潜り抜け、ついてきた中村から拡声器を受け取った。
銀行の窓にはブラインドが閉められている。
周囲にはパトカーが数台。
私は拡声器のスイッチをオンにし、話しはじめた。
「なにが望みだ」
そういってから思い出した。
逃走用の、車だという事を。
遠い、自分自身に捧げるララバイ。
今の私を歌ったララバイ。
開かれたパンドラの箱。
未来の自分も過去の自分も、
どうか幸せだけにがむしゃらに。
幸せにだけにがむしゃらに。
今の私も頑張るから。
もがいてもがいて、頑張るから。