地下鉄で、恋
今夜も私は恋をする。
それが、グレーとブルーに満ちた、重力だか引力だかに逆らい続けた私への、私自身からの優しいララバイ。
私は地下鉄に乗っている。
別に急いでいるわけではないのに、飛び降りて、走って目的地まで行きたい衝動に駆られている。そんな私がいる。
ふと周囲を見渡す。
向かいの席、右端にひとり、頭の禿げたサラリーマン。
私の横、ずーっと端まで誰もいない。
そして、禿げたサラリーマン以外には、誰もいない。
もしかしたら、運転手さえもいないんじゃないか?そんなふうに思い、別の車両に移るため、私は立ち上がり、歩きだした。
次の車両、誰もいない。次の車両、誰もいない。
そして次の車両に移る途中、ぐらりと電車が揺れた。
私は側にあった吊革に手を伸ばす。
「あぶなかったぁ」そう呟いた瞬間、私の体に、柔らかい何かがしがみついた。
「おっ」と私は声をあげ、掴んだ吊革を離してしまう。
そして、人間大砲からぶっ飛んでいく人間のように、地面に一直線、頭から落下していく。
「いてぇ」
多分頭が割れた。尻のように割れたその割れ目から、ヒマワリが咲いたような妄想を見て、「そんなわけねぇや」と我にかえって目を開けた。
すると、私の体の上に女性が覆い被さっているのを確認した。
肩までの黒髪からは、シャンプーの香り。
「ごめんなさい」
そう言って上げた顔は、ふくよかな頬に、つぶらな瞳。ふくよかと言っても、決して太っているわけではない。
優しい頬。そう形容するのが、きっと正しい。
「大丈夫ですか?」
私は彼女に尋ねた。
「はい、あっ、ごめんなさい」
そう言って彼女は私から離れた。
緑のチュニックに、白のズボン。首には、さりげないくらいのハートのネックレス。
「としき?」
その声に私は、彼女の顔を見つめた。
「あけみ・・」
「私よ!よしこ!」
「よしこじゃないか!」
私は驚いて立ち上がった。
「よしこ、なにやってんだよこんなとこで」
十年前から何も変わっていない。
その無邪気な瞳も、汚れた世界に浮かぶ、たったひとつの浮き輪のような、そんな優しい笑顔も。
「いまから帰るとこ、としきは?」
「あぁ、俺も帰るとこだよ」
そう言って、ふと思い出した。
彼女は、十年前、二十歳の時に、遠くの町に越していった事を。
「このへんに、帰ってきたのか?」
「うん」
「そっか、仕事でか?」
「まぁ、そんなとこ」
私たちは、近くの席に並んで腰を下ろした。
地下鉄が駅で停車する。
サンバのカーニバルが乗り込んできた。
真っ黒に焼けた背の高い女性たちが、笛を吹きながら、また、真っ黒に焼けた男性たちが、太鼓を叩きながら、ぞろぞろと乗車する。
「移動しようか」
私がそう言うと、彼女が頷く。
私たちは車両を移動するため立ち上がり、歩き始めた。
後方で、「アモーレ、アモーレ」と声が聞こえる。
女性が腰をふるたび、鈴の音。
と、突然、前方で男が立ち上がり、なにやら手を伸ばした。
サングラスをかけた、スーツ姿の男。赤いネクタイが印象的だ。
「あぶない!」と声が聞こえた刹那、私はよしこにはね飛ばされた。
『バキューン』という音。
私はよしこを見る。
よしこは胸を押さえ、倒れこんでいく。
「よしこ!」
私は倒れたよしこに近づいていく。
「よしこ」
よしこの命が消えようとしている。確かにそうわかった。
「としき、あのね」
「なにも言うな」
私は男の方を見る。
「誰なんだよ、お前!」
男がうっすらと笑い、拳銃を放り投げた。
「俺はお前だよ、としき」
そう言ってサングラスをとる。
私は唖然とした。そこには紛れもなく私自身が立っていたのだ。
「その女は、泥棒なんだ」
「なに言ってんだよ」
「俺は未来から来たお前だ。としき、その女は泥棒なんだ。」
「馬鹿じゃねぇのか、お前」
「そうだよ、馬鹿だよ。だから盗まれたんだ」
「なにをだよ!」
地下鉄が停車した。扉が開く。ローラースケートの男子が、「バルセロナ~♪ゴーゴーバルセロナ~♪」と言いながら乗車してきて、私の方を見て、よからぬ事を感じ、くるりと方向を変え、下車していった。
「愛を・・」
「なんだって!?」私は聞き返す。
「愛を盗まれたんだよ!!」
「愛!?」
私は混乱した。未来からきた自分。そしてその自分は、「愛を盗まれた」とふざけている。
明日死のう。いや、いま殺してくれ。
「その女、ここで俺、つまりお前に出会って、そして、愛を盗みやがった。お陰で俺は幸せになって・・ずーっと彼女と幸せに暮らしていって」
「それのなにが悪いんだよ!!」
「お前にはわからないのか!!」
「どういうことだ!?」
未来の自分が涙を流している。
「愛を盗まれた事で、お前は自分の夢を諦めてしまった。彼女の為に、やりたくもない仕事を一生懸命にやって、あちこちで頭を下げたり、靴の裏を舐めたり・・」
「靴の裏を・・」
「そうだ!!靴の裏だよ。すべてその女が現れたからいけないんだ。その女さえいなければ」
「ちょっと待てよ」私は立ち上がり、未来の自分を見据えた。
「いいじゃねぇか、靴の裏。それで彼女の笑顔を見れるんだろ?いいじゃねぇか。いいじゃねぇか、幸せだったんだろ?全て、諦めたっていいじゃねぇか。彼女を諦めるよりもマシじゃねぇか!!」
「としき・・」
知らず知らずの内に、私は泣いていた。その涙が一粒、彼女の頬に落ちる。
「俺、間違ってたよ。ごめん、ごめんな、過去の俺。どうしたらいいだろう。なぁ、どうしたらいい?」
私は未来の自分に憐れみの視線を向ける。
「どうもしなくていい」
「えっ」
「お前の体が、消えていってる」
未来の自分が、両手を広げる。消えていく自分の体を見て、こちらに笑みを向けた。
「俺は存在しないんだな」
「そうだ。お前は存在しない」
もう半分以上消えた未来の自分が、こちらを指差した。
「彼女、生きてるぞ」
私はよしこを見た。
「よしこっ、よしこ!」
「とし・・き・・」
「あぁ、あぁ!大丈夫。絶対助かる。よしこ、頑張れ」
「うん。あのね、としき」
「なんだよ!」
「私ね、としき。私、、」
地下鉄が最終駅に着いた。扉がゆっくりと開く。
「私、ずーっとあなたが好きだったのよ」
「ばか」
私は言った。
「俺のほうがずーっと、君の事が好きだったよ」
光が二人を包んだ。
アモーレ、アモーレと声が聞こえた。
それがララバイ。
疲弊しきった私への、私が捧げる優しいララバイ。