魑魅
近づくと、黒猫は威嚇の声をあげて僕をにらみつけた。
病的に濁った瞳。骨張った身体。逆立つ黒毛には艶がなく、ところどころ禿げあがっている。
さらに一歩近づく。猫は身体を震わせるだけで、逃げようとしない。
ノラ猫。
僕は飼い猫でないことに安堵し、それから、安堵した自分に舌打ちする。
ノラ猫でも飼い猫でも、失われるものに変わりはない。
同じ命だ。
また一歩、近づく。
黒猫は一段と鋭い唸り声をあげる。
でも、それだけ。逃げることはない。
逃げたくても逃げられないのだ。
極度の栄養失調と、病に冒された身体。
けれど、何よりも大きな枷となっているのは――
僕は嫌悪と怒りを込めて、それを見る。
痩せこけた黒猫の背中に埋まり込んだ、白い塊。
それは蠢く度に猫の背に埋まっていき、既にほとんどの部分を溶け込ませていた。
ああ、駄目だ。
僕はやるせないため息をつき、距離のなくなった猫の前にかがみこむ。
こうなったら、もう助けられない。
※
始まりは、僕が十三歳のとき。
父は猫の背に埋まろうとする白い塊をつかんで、僕に見せた。
「これが魑魅だよ」
「…魑魅」
魑魅と呼ばれた塊は何が起こったのかわからず―― まさか掴まれるとは思わなかったのだろう―― 奇妙な声をあげ、枯れ枝のような手足をばたつかせてもがいていた。
「こいつは宿主の候補を見つけると、まず背中に貼りつく。それから何らかの選定をして――何によって決まるのかは忘れたが―― 取り憑くことに決めると、少しずつ身体を埋めていくんだ」
逃げ出せないと悟った魑魅が、枯れ枝のような手を伸ばして父の腕に突き刺す。
「お父さんっ」
僕は思わず声をあげてしまったけれど、父は気にすることなく話を続ける。
「取り憑いた状態は三段階にわかれて、それぞれ初期・中期・末期と呼ぶ。このうち宿主を助けられるのは、初期―― 背中に貼りついたばかりの段階―― と、中期――背中に埋まり始めた段階――だ。この段階なら、まだ宿主を助けることができる」
「この猫は?」
「中期だな」
「じゃあ、助けられる?」
「ああ。…痛みは伴うが」
言って、父は猫の背から魑魅を引き剥がした。
次に鋭い悲鳴をあげたのは猫のほうだった。相当に痛かったのだろう。反射的に父の手を引っ掻いて後ずさった。見ると、猫の背中は毛をむしり取られたかのように禿げ上がっていた。
「魑魅は宿主に取り憑くことによって成長していく。成長した魑魅は、やがて人に取り憑くようになる」
腕から血を流しながらも、父は魑魅を放さない。魑魅はもう、抵抗する力もないようだった。
「そうなる前に駆除をするのが我々の役目だ」
言って、その手を僕に伸ばす。
「持ってみなさい」
「え?」
「お前の浄化力は母の血のせいで貧弱だが、増幅剤によって一時的に底上げされている。持てるはずだ」
「………」
おそるおそる手を伸ばす。本来なら見えることも触れることもできないモノに、僕は触れて……つかんだ。
ブヨブヨとした奇妙な感触。枯れ枝のような手足が皮膚に触れてくすぐったい。
「これを」
父ポケットから錐のようなものを取り出し、僕に渡した。
「魑魅の腹に刺しなさい。それで浄化は終わる」
言われるままに錐を握り、僕は鋭く尖った先端を左手の中でうごめく魑魅の腹に埋め込んだ。
魑魅は悲鳴を上げることもなく、ただ、砂のように消えた。
「初仕事は、無事成功だな」
父は淡々と告げながらも、安堵の表情を浮かべていた。ひょっとしたら僕以上に不安だったのかもしれない。
「しばらくは一緒に行動するが、すぐに一人で動いてもらうことになるぞ」
その日から僕の生活は一変した。
一日の始まりは早朝の訓練から。
僕は一族のなかでも才能のなさが秀でているらしく(これは父の談。ようするに嫌味だ)、ラムネのような増幅剤を噛まないとまともな浄化力を発揮できない。それどころか、魑魅を見ることさえままならないのだ。
修行というのは、ようするにその浄化力を少しでも強めるためのものだった。
今のところ何の実感もないけれど……。
日中は学校で普通に授業を受ける。
ただし役目が免除されたわけではなく、休み時間と放課後は校内の見回りを命じられていた。魑魅の浄化は捗ったけれど、その代償として僕は友だちを作ることができず、クラスから孤立し、気がつけば 『徘徊クン』 などと、イジメのようなあだ名で呼ばれようになっていた。
夜は父と町を見回る。
魑魅の活動はこの時間が最も多いため、僕がそれなりに――増幅剤は必須だけど―― 浄化できるようになってからは、二手に分かれるようになっていた。
道を這い回る魑魅は簡単に浄化できるけれど、生物に(ほとんどがノラ猫だった)取り憑いた魑魅を浄化するのは細心の注意が必要だった。なかには同化が進みすぎて助けられないときもある。ちょうど、この前の黒猫のように。
そして、もっともやっかいなのが人に取り憑いた場合なのだけど…… そのことは、思い出したくない。
以上が、異常な僕の一日の流れだ。
自由のない日々に不満がなかったわけじゃないけれど、僕はそれよりもずっと大きな満足感を覚えていた。
自分が特別な人間であるということ。
それは、現実離れした世界を夢みる―― おそらく、それが許される最後の時間を過ごせる――高校生にとって、何よりも甘美な響きを持っていた。
僕の毎日は孤独だった。
僕の毎日は充実していた。
それで、均衡はとれていた。
崩れければ、よかったのに。
※
その日の昼休みも、僕はいつものように手早く食事をすませて席を立った。
「お、徘徊クンが動いたぞ」
「徘徊クン、出動!」
「道をあけてください。徘徊クンが通過します。道をあけてください」
「やめなさいよ」
いつものように変わり映えのしない茶々を無視して、教室の外へ向かう。
ドア近くの席では、色とりどりの頭髪をしたグループがトランプをしている。
茶髪が津田涼子。金髪が坂井由希。銀髪が遠藤広也で、黒髪ポニーが須藤正樹。
何かを賭けているのか、彼らの表情は真剣そのものだ。
これも、いつのものこと。
「ああ、ちくしょう!」
突然、品のない言葉を叫んで茶髪の涼子が天を仰いだ。どうやら彼女が負けたらしい。
「はい、涼子に決定!」
「罰ゲーム。ばっつゲーム」
金髪の由希と銀髪の勇治が調子を合わせて手をたたき、
「ストーカー、がんばれよ」
黒髪ポニーの正樹は、涼子の肩に手を置いて意地の悪い笑みを浮かべる。
「え、まじでやんの?」
「当たり前だろ。ていうか、言い出しっぺはお前じゃん」
「そうだけどさあ」
「ばっつゲーム、ばっつゲーム」
「ヒロ、うっさい!」
「ちゃんとやんなきゃ駄目だからね」
「あとで報告聞くからな」
「あんたらねえ」
忌々しげに涼子が舌打ちをする。
罰ゲームは何をするのだろう。
大いに興味をそそられたけれど、それを知るために見回りをサボるわけにもいかない。
「ほら、早く。行っちゃうよ」
「…ああ、もうっ」
少し心残りを覚えつつ、僕はドアをあけて外に出た。
昼休みは魑魅の居場所を確認するだけにしている。
見つけたからといって、いきなり教室に飛び込んで浄化を始めたりしたら騒ぎになってしまうからだ。普通の人には、僕が何もない場所を錐で突き刺しているようにしか見えるだろう。それは、おそろしく異常な行動に映るはずだ。
もちろん、人に取り憑こうとしている場合は例外だ。そのときは、なりふりかまわず浄化する。手遅れになってしまう前に。
……それにしても。
僕は立ち止まって、うしろを振り返った。
三歩ほど離れた距離で、同じように立ち止まった茶髪の女子と目があう。
確認するまでもなく、涼子だ。
「あ、やべっ」
そのセリフを吐いた時点でおしまいなのに、目をそらして通りすがりを装おうとする。わざとらしい鼻歌までおまけつきだ。
「……なにか用?」
「なにが?」
僕が聞くと、彼女は即座に聞き返してきた。反応が早すぎる。とぼけるつもりなら、もっと間をおかないと。
「なんでついてくるの?」
「は? べつについていってないし。何いってんの?」
あくまでもしらを切るつもりらしい。
僕は少しイライラして涼子を見る。何がしたいのか、まるで意図がわからない。
そもそも、彼女はトランプに負けて罰ゲームを受けることになっていたはずだ。それはどうなったのか。
逃げ出してきたのか。それとも――
「ああ、なるほど」
そこで、僕はようやく理解した。
「……ひょっとして、僕をつけるのが罰ゲーム?」
ようするに、そういうことだろう。
「え? あ、うん」
涼子は素直に頷いてから、
「あっ、ちがうちがう!」
慌てて否定した。どうにも嘘がつけない性格らしい。トランプに弱いのもうなずける。
「どっちだよ」
「……ていうか、なに? ついて来られたらヤバイようなことしてるわけ?」
さすがに観念するだろうなと思ったら、今度は開き直ってきた。すごい神経だ。
「ヤバイというか、やばくなる前の対処をしてるんだよ」
逆に僕のほうが観念して答えてしまう。
「へえ。超わけわかんね」
「うん。ついてきても意味不明だと思う。僕がしていることを見ても、理解できないだろうから」
「あたしがバカだってこと?」
「うん」
「…あ、そ」
「いや、今のは冗談」
思いのほか傷ついた顔をされてしまい、慌てて訂正する。
「誰が見たって、僕のしていることは意味不明なんだよ。説明しても信じてもらえないし、信じてもらう必要もない。信じてもらおうとも思わない。…ようするに」
「ようするに、知りたきゃついてこいってわけだ。わかった」
とんでもない要約に、僕は目を見開く。
「それ、全然ようしてないだろ! 僕はついてきても無駄だって言ってんの」
「わかったわかった。じゃあ、出発だ。レッツ徘徊!」
「…………」
僕の説明などまるで聞いていない。どうあっても、ついてくる気だ。
「どした? 早くしないと貴重な休み時間が終わんよ」
誰のせいだ、と言いたい気持ちをこらえる。言い争っていたら、ますます時間がなくなってしまう。
僕は涼子を無視して見回りをすることに決めた。魑魅の見えない彼女にとって、僕の行動は奇怪でしかないだろう。すぐに飽きるか気持ち悪くなるかして、教室に戻っていくはずだ。
ポケットから増幅剤を取り出し、口に放り込む。僕の浄化力は相変わらず向上する気配がなく、増幅剤の助けを借りなければまともに魑魅を見ることもできない。「浄化力のない母の血を強く受け継ぎすぎたな」と、父は苦笑していた。
伊佐木一族は浄化力を維持するために近親婚を続けてきたけれど、父はその習わしを破って普通の女性と結婚をし、一族から追放されたのだと言う。
僕たちはだから、伊佐木を名乗りながら伊佐木ではなく、行動を共にすることはない。それでも、こうしてほそぼそと魑魅の浄化をしているのは、父と僕なりの使命感だ。
増幅剤をかみ砕いて、わずかな苦みを感じながら飲み込んでいく。
「何それ」
涼子の声は聞こえないことになっているから、答えない。
変化は劇的だった。
周りの音が遮断されて、静寂が僕を包み込む。五感が覚醒し、一段深い世界を把捉する。
見えないものが見え、聞こえない音が聞こえ、触れられないものが触れられるようになる。
この域になって、ようやく魑魅を知覚することができ、浄化することが可能になるのだ。
感覚を研ぎ澄ませたまま、僕は静かに歩き始める。
「お、いよいよ徘徊スタート?」
誰かの声。どうでもいい。
魑魅の気配は独特だ。かなり離れた場所からでも特定できるので、教室をひとつひとつのぞく必要はない。
ひたすら廊下を歩いて行く。
昼休みは魑魅の居場所を確認することが主で、浄化は人の少なくなった放課後に行うことにしている。もちろん、例外もあるけれど。
「…なんか、来た来た言われてるけど。あんた、ひょっとして有名人?」
父の話では、魑魅は生物の負から生じるため、感情をもつ存在がいる限り絶滅することはないのだそうだ。僕の役目はだから、魑魅を殲滅することではなく、ヒトに取り憑けるほど成長をさせないこと。
「…まあ、毎日これしてたら有名人にもなるか」
そう。毎日コツコツと見回るのは、魑魅が成長する前に浄化するためだ。
取り憑いて同化してしまったら、もうその生物は助けられない。
それはネコでもヒトでも同じ。
嫌なことを思い出しそうになり、首をふる。
音楽室では、少し成長を始めた魑魅を見つけた。これは始末しておいたほうが良い。
僕はかがみこんで、ポケットから父から譲り受けた浄化針を取り出す。針といっても裁縫針のような小さなものではなく、どちらかと言えば錐やアイスピックに近い形をしている。
「それ、なに?」
ノイズ。無視。
嫌な気配を感じ取った魑魅がのっそりと逃げ始めた。もう遅い。
「何してんの?」
また、ノイズが入ってくる。
「ねえ、何してんのってば。おーい」
「…浄化だよ。静かにして」
僕はノイズ《凉子》を黙らせてから、白い、幾本もの横筋が入った魑魅の背中に浄化針を突き立てた。
何の手応えもなく、悲鳴をあげることもせず、魑魅は跡形もなく消えた。
これで、浄化は終わり。何かに取り憑いていない限り、そう難しい仕事じゃない。
ただ、ひたすら地道で面倒なだけだ。
立ち上がる僕と入れ替わるように、凉子がかがみこんだ。
彼女は床をなで回し、首をかしげ、僕を見上げる。
「もう、いないよ」
「…いや、最初っからなんもいなかったじゃん」
「………」
「え、なに。どゆこと?」
さて、どうしたものだろう。
中学のとき、同じような場面で同じようなことを言われたことがある。相手はもっとおしとやかだったけれど。
まだ純粋だった僕は、その子に自分のしていることを丁寧に教えてあげた。少しばかりプライドを持って。
次の日。僕は周りから気持ち悪がられるようになっていた。
彼らの蔑んだ笑い声は、今でも耳に残っている。
人と話さなくなったのは、その頃からだ。
「…説明しても無駄だから」
僕はそれだけ言って、涼子に背を向けた。
「いやいや、ちょっと」
彼女は慌てて立ち上がって追いかけくる。
「説明しろよ。してくんないと、わけわかんないじゃん」
「しても、わかんないよ」
「何それ。あたしがバカだってこと?」
「いや、そうじゃなくて」
涼子と目が合う。そこにはバカにしている色はなく、純粋に僕の行動を不思議がっているようだった。
ひょっとしたら彼女は真剣に聞いてくれるかもしれない。
そんな、淡い期待をもってしまう。
「説明すると、長くなるから」
「べつにいいよ」
「………」
「あ、じゃあ次の授業サボろっか。数学だし」
「それは駄目。………もし、ほんとに聞く気があるなら――」
僕は何を言いだすのだろう。
自分の口から出た言葉に唖然とする。
「放課後の見回りのときに、話すよ」
「そりゃ、聞く気はあるよ。超ある。っていうか、放課後もこんなことやってんの? いつも速攻で帰るから知らんかった」
ずっと。
「ま、いいや。じゃあ、放課後のこれ―― 見回りだっけ? のときに聞くから」
ずっと、聞いてほしかったのかもしれない。
理解されなくてもいいから、自分のしていることを認めてほしかった。
「うん」
「よし。決まりっ」
それから僕たちは、見回りを終えるまで無言だった。
「魑魅の説明から始めようか」
「スダマ?」
涼子は仲間の誘いを断って、約束通り放課後の見回りについてきた。
僕もだから、約束通り話をすることにした。
魑魅の存在について。発生と成長について。取り憑くということ。伊佐木の浄化能力と、その使命について。
といっても、魑魅に関する知識は父から聞かされた話だけしか情報源がないので、僕自身も完全に把握できていない。理解を深めたくても、一族から追放されている身ではどうにもならないのだ。
そう。僕たちが一族から追放されていることも彼女に話した。
父が能力を持たない母を妻として迎えた結果、一族から追放されたこと。以来、全ての関係が絶たれていること。
そして、僕の受け継がれた能力と、その欠陥についても話した。
「僕は母の血を強く受け継ぎ過ぎて、ほとんど浄化力が発揮できないんだ。普通にしていると魑魅も見えない」
「それ、一般人じゃん」
「そう、一般人なんだ。だから、増幅剤で力を引き出してやる必要がある」
僕は涼子に小指の爪ほどの塊を見せた。
「それが……その、なんて?」
「増幅剤。僕の浄化力を一時的に高めてくれるんだ。というか、これがないと何もできない。一応、浄化力をあげるトレーニングはしてるんだけどね」
「それ、あたしが飲んでも効果あんの? スダマとかジョウカできる?」
「無理。一の力を五や十にすることはできるけど、ゼロはゼロのまま。むしろマイナスになるんだって」
「マイナス」
「身体に悪影響を与えるってこと」
「死ぬやつ?」
「それは、わかんない。試してみる?」
「……ちょっと考えとく」
人気の少なくなった校舎を見回りながら、淡々と放課後の浄化を進めていく。
涼子は僕が魑魅を浄化をするたびに、痕跡を探ろうと床をさすったりしている。
何となく、その光景が面白かった。
その日の浄化は、凉子と話をしていたせいでいつもよりずっと時間がかかってしまった。
それなのに、いつもよりずっと短く感じた。
「おわり?」
「うん。成長しそうなやつは浄化したよ」
「そっか」
僕たちは何となく一緒に校門を出た。
「…気持ち悪かったでしょ」
「なにが?」
「僕のしてること。意味不明でさ」
「ああ。……まあ、話を聞いてなかったら気持ち悪かったかもね。いきなり床に針を刺してたし」
言って、凉子はクックと笑う。
「話、信じるの?」
僕は驚いて彼女を見る。こんな反応は予想していなかった。
「え、嘘なん?」
「いや。ほんと。だけど」
「ほんとなら、信じるもなにもないじゃん」
「………」
あっさりとそんなことを言う。
純粋だ。
見た目は不良で、口も不良っぽくて、授業態度も不良そのものだけど。
彼女は純粋だった。
「明日もやんでしょ?」
「え?」
ふいに聞かれて、涼子に見とれていた僕は慌ててしまう。
「え、なにを?」
「なにって。だから、徘徊だよ。徘徊」
徘徊。
「……ああ、うん」
その言葉に、思わず苦笑する。
「見回りね」
「やんでしょ?」
「やるよ。僕の役割だから」
「…ん。わかった」
「うん」
何がわかったのか僕にはわからなかったけれど、とりあえず頷いておいた。
「なんかさ」
「うん?」
「良くわかんなかったけど、なんか楽しかったよ」
「――――」
僕も。と言いかけそうになって、言葉を飲み込む。
なぜ飲み込んだのか、自分でもわからなかった。
「んじゃね」
涼子が背を向けて歩き出す。
リズムにあわせて揺れる髪。
茶髪は好きでないけれど、夕焼けには良く映える。
そんなことを思った。
翌日。
僕がいつもと同じように昼の見回りへ行こうとすると、
「じゃ、行こっか」
まるでいつも同じことをしているような口ぶりで涼子がついてきた。
目を細める僕。目を丸くする彼女。
「…仲間と遊ばなくていいの?」
「遊んでるじゃん。これ、罰ゲームだし」
「また?」
「うん。二日連続」
「……二日連続で、僕をつける罰ゲーム?」
「そうそう」
「………」
ゲームで連敗はあるだろうけど、僕の尾行が連続して罰ゲームの対象になるのはおかしいだろう。そこまで魅力のある内容ではない。
いったい何を考えているのだろう。
とりあえず、彼女が罰ゲームの提案をして、わざとゲームに負けたらしいことはわかる。もしかしたら、昨日もそうだったのかもしれない。
ただ、その理由がわからなかった。
僕と一緒にいようとする理由。
「おーい。早くしないと時間なくなんよ?」
ほんとに何を考えているのだろう。
「……まあ、いいけど。邪魔さえしなければ」
それでも、僕は彼女がついてくることを受け入れた。
こちらの理由は、はっきりしている。
「しないしない」
こうなることを、僕はどこかで望んでいたからだ。
※
涼子と見回りをするのが当たり前のようになってから、二つの変化があった。
一つは、周囲の目。
これまでは見回りの際にちょっかいをだされることが度々あったけれど、涼子の存在がそれをさせなくなった。僕とは別の意味で有名だったからだろう。
もう一つの変化は、一人でいるときには絶対に起こらず、二人になるとほぼ必然的に起こること。
ようするに、会話だ。
といっても僕は魑魅に集中しているため、まともに話せるのは見回りが終わったあとのわずかな時間だった。
それでも会話を重ねていけば、少しずつ深くなっていく。
僕たちは、ずいぶんと色々なことを教えあった。
たとえば、僕自身のこと。
血液型。誕生日。無趣味なこと。一人っ子で兄弟はいないこと。父は二年前までごく普通のサラリーマンで、朝と夜の時間を魑魅の浄化にあてていたこと。けれど、母の事件をきっかけに職を辞して以来、全ての時間を魑魅の浄化に費やすようになっていること。
「事件ってなに?」
「……魑魅に取り憑かれたんだ」
それ以上の話はしたくなかったし、彼女も聞いてこなかった。
凉子もまた、同じだけのことを僕に教えてくれた。
血液型。誕生日。趣味。兄弟が二人いること。弟は真面目で、兄はくそ真面目ということ。父はエリートと呼ばれる警察官で、仲がとても悪いこと。グレたのもそのせいらしい。母親の話はしたがらなかったけど、会話の断片を合わせていくうちに実の母でないことを知った。もちろん、話題にしたりはしない。
「ちょっと、ヤバイ雰囲気だったんだよ」
それから、仲間を外れて僕の見回りについてくることになった理由を渋い顔で教えてくれた。
「なんか悪ノリでやってることが、ノリじゃすまされないレベルになってきてさ。あたしはそこまでしたくないから、抜けることにしたんだ」
「それで、なんで僕が出てくるの」
「別の奴とつるむのも難しいし、下手なことして迷惑かけたくないし……って考えたら、孤立してる『徘徊クン』を利用するしか思いつかなかった」
「利用」
「そ。あたしが 『罰ゲームは徘徊クンのあとをつけること』 って言って、みんなも面白がってノってきたわけ。……で、あたしはわざと負けた」
「………」
「次の日も同じ罰ゲームにして、やっぱりあたしが負けた。次の日もそう。その次の日もそう。ここまでやれば、さすがにわざと負けてることに気づいてさ」
それはそうだろう。
「どうなったの?」
「『おまえ、あいつに惚れてんの』ってなった」
「………なんて答えたの」
「そりゃ、YESだよ。抜け出すためなんだから。ちなみに告白は成功して、宗一とつきあってることになってる」
「えっ」
「べつにいいじゃん。もう、つきあってるみたいなもんだし」
「…あ、うん」
思わず頷いてしまう。
ひょっとして、今まさに僕たちはつきあい始めたのではないだろうか。
凉子は僕の顔を見て一瞬だけ口元を綻ばせた。
「で、それから毎日ノロケを聞かせたり、宗一とデートとか言って遊びをブッチしてたら、みんなもだんだん引いてきてさ。今じゃ、ほとんど話もしなくなったよ」
めでたしめでたしと手をたたく。彼女の表情は少し淋しげだったけれど、それでも痼りを残さず抜け出せたことに満足しているようだった。
ひとつ気になったのは、涼子が彼らから抜けようと思った 『ヤバイこと』 が何なのかということ。
「不良のする悪さといえば?」
「えっと… かつあげとか、タバコとか、盗みとか」
「ありがちだ。まあ、それがセーフだとしたら」
「いや、アウトだよ。どう考えても」
「…そだね。じゃあ、アウト以上にアウトのことを始めそうだったってこと」
「なにそれ」
「なんだろ」
結局、内容は教えてくれなかった。
「そう言えばさ」
「ん?」
「僕のこと宗一って呼ぶようになったの、いつからだっけ」
「……ばーか」
こっちも、教えてくれなかった。
※
僕は間違いなく浮かれていた。
いるはずのない理解者がいたのだから、当然だろう。
同じ世界を共有できなくても、僕の見ている世界を肯定してくれる。
それで十分だった。
それで十分だったのに、さらに先を望んでしまった。
僕の勘違いは、彼女が僕の見ている世界を 『全て』 肯定してくれると思ってしまったことだ。
放課後の見回りのあと、夜時間の見回りにもついて行きたいという涼子を、僕はさして抵抗もなく受け入れた。
彼女としてはデートのつもりだったのだろう。僕としても、一緒にいられる時間が増えるのは嬉しかった。
「なんか、人気のないとこばかり行ってない?」
「今日はそういうルートなんだ」
町の見回りとなると学校よりもずっと広範囲になるけれど、大抵のエリアは父が見回るため、僕の担当はほんの一部でよかった。
増幅剤で浄化力を覚醒させて魑魅の居場所を探り、見つけるたびに浄化針を突き刺して消していく。
浄化に集中しているため会話はできないけれど、それでも彼女は不満も言わずについてきてくれる。沈黙の中の、不思議な充足感。
「あ、ネコ」
それを見つけたのは、ほぼ同時だった。
細い小路の行き止まり。散乱するゴミに埋もれるようにして、黒猫がうずくまっていた。
やせ細って、毛並みも悪い。
「病気かな」
それもあるだろう。でも――
「まって」
僕は、近づこうとする涼子の腕をつかんで引き止めた。
「近づいちゃ駄目だ」
「え?」
「……魑魅に取り憑かれている」
涼子は何を言われたのか理解できなかったらしく、もう一度、え? とつぶやいた。
僕は彼女にかまわず、黒猫に取り憑いた魑魅を観察する。
ああ、駄目だ。
魑魅は取り憑いているだけでなく、すでに身体の大部分を同化させてしまっている。
僕はやるせないため息をついて、浄化針を取り出す。
こうなったら、もう助けられない。
近づくと、黒猫は威嚇の声をあげて僕をにらみつけた。
さらに一歩近づく。
「ちょっと、何する気だよ?」
距離のなくなった猫の前にかがみこむ。
魑魅の頭が、黒猫の首から飛びだしている。狙えるのはここしかない。
僕は浄化針をかまえた。
「宗一!」
その腕を、涼子がつかむ。見上げると、ひどく歪んだ顔があった。
「ネコを殺す気?」
「こうなったら、もう助けられないんだ」
「……何、言ってんの?」
――ああ。そうか。
魑魅が見えなければ、そう見えるのか。
僕がしていることが、ネコの虐殺に。
だけど、魑魅に取り憑かれたネコをこのままにしておくわけにはいかない。
どうすれば、わかってもらえるだろう。
「…母さんの話、覚えてる?」
「え?」
「僕の母さんの話。いつだったか、話したでしょ」
「……ああ、うん」
涼子は思い出したらしく、小さく頷いた。
「たしか、魑魅に取り憑かれたって」
「正確には、完全に乗っ取られてしまったんだ」
「乗っ取る?」
「半狂乱になった母は意味不明なことを喚きちらしながら、僕の首をしめて殺そうとした」
「え?」
「ほら、これ」
そのときにつけられた、決して消えることのない爪痕をみせる。
涼子が息をのむのがわかった。
「生物に取り憑いた魑魅は、その身体に同化して乗っ取ろうとする。完全に乗っ取られると、その生物は理性を失ってあらゆるものに襲いかかるようになるんだ。僕の母のように」
「………お母さんは?」
「父さんが浄化したよ。僕が気づいた時には、もう骨ひとつ残っていなかった。完全に乗っ取られると、肉体も残らないんだ」
「………」
「父さんも僕も、あんなことがもう起こらないようにしたい。見回りをしているのも、そのためだよ。それでも、こういうことは起きてしまう」
「……でも」
「信じてくれないだろうけど、これは事実なんだ」
「信じないわけじゃないよ。でもっ」
「ごめん。時間がない。完全に同化する前に浄化をしないと、大変なことになる」
僕は涼子の横をすり抜けて、もう一度ネコの前にかがみこんだ。
「僕のことをどう思っても良いし、嫌ってもいい。でも、これはやらないといけないことなんだ」
浄化針をかまえる。
「でも」を繰り返していた涼子は、とうとう絶えきれなくなって駆けだした。
それで良い。
また一人になってしまったけれど、仕方のないことだ。
僕は小さくため息をつくと、
「ごめんな」
ネコの首に浄化針を埋め込んだ。
家に帰って、僕はこれまでのことを父に話した。なぜだか後ろめたくて、涼子のことをずっと内緒にしていたのだ。
父は僕の頭に手をおくと 「仕方のないことだ」と、淋しく笑った。
※
その日から、僕はまた一人で見回りをするようになった。
昼休みと放課後には、いつものように校舎を見回って、這い回る魑魅を浄化していく。
涼子につきまとわれる以前の日常へと戻っただけなのに、自分のしていることがずいぶん虚しい事のように感じられた。
一度だけ、不良仲間と一緒にいる涼子を見かけた。
もとの関係に戻ったのだなと淋しい気持ちになったけれど、彼らと一緒だったのは本当にその一度だけで、それからはずっと一人でいるようだった。
その日の放課後。
「あたしも一緒に行って良い?」
教室を出ようとする僕を呼び止めたのは、涼子だった。
「……えっと」
「だめ?」
「あ、いや。良いよ。もちろん、良いけど」
信じられないような気持ちで涼子を見る。
あの日から僕に近づかなくなっていた彼女が、今になってどうして。
「あのネコは?」
「……浄化したよ」
「そう」
「ごめん」
「どうして謝るの?」
「嫌な思いをさせたから」
会話がぎこちない。沈んだ声は、快活だった涼子とは思えなかった。
「………行こっか。見回り」
「うん」
「はい、これでしょ」
増幅剤をポケットから取り出そうとした僕をさえぎって、涼子がそれを見せた。
「…なんで、持ってるの?」
彼女の手に乗っていたのは、紛れもなく増幅剤だった。
「ずっと前に宗一からくすねたやつ。これを飲めば宗一と同じ力が出れば理解できるって思って。…でも、怖くて飲めなかった」
浄化力を持たない者が飲んだ場合の作用は、僕にもわからない。おそらく良い結果にはならないだろう。
「飲まなくて良かったよ」
言って、僕が増幅剤を取ろうとした寸前。涼子は手を握り拳にかえた。
「やっぱさ、もらっておいていい? 飲まないけど、持っていたいんだ」
何のために?
多分、僕を信じるために。
だったら、答えはひとつしかなかった。
「いいよ」
※
「うわあ、昭和な家だ」
「ただのボロ借家だよ」
放課後の見回りのあと、僕は初めて涼子を家に招待した。というより、彼女が強引について来たのだけど。
いつもの調子が少し戻ったみたいで、何だか嬉しくなる。
「宗一のお父さんは? 見回り?」
「いや。今日はいるみたいだ」
「そっか。…残念?」
「なんで?」
「……あがっていい?」
「どうぞ」
僕が玄関を開けたところで、涼子のケイタイが鳴った。
「うわ、タイミング最悪。ちょっと、ごめん」
「うん」
彼女はケイタイを手に取り、不機嫌そうに一言二言話してすぐに切った。
「だれ?」
「親父」
「あの、仲の悪い?」
「家にはその親父しかいないから。…じゃ、お邪魔しまーす」
「どうぞどうぞ」
何となく出鼻をくじかれる形になったけれど、僕は気を取り直して涼子を招き入れた。
※
「一度、来たかったんだよね。なのに、宗一はまったく誘おうとしないし」
「いや、このボロ借家で家に誘いたいなんて思えなでしょ」
「で?」
「ん?」
「エロ本はどこにあるの?」
「……ないよ」
「そっか。捜索して良いってことか」
「いや、だから」
さほど緊張感なく話せるのは、完全に二人きりではないからだろう。
奥の部屋には父がいる。見回りに行かないときは、浄化力を強める訓練をしているはずだった。
小さな罪悪感を、僕は涼子の笑顔で忘れる。
お菓子を食べて、ジュースを飲んで、下らない話をする。
ずっと孤独だった僕にとって、この時間は奇跡のようだった。
幸福。
一番近い言葉は、多分これだろう。
キスをしたのは、涼子のほうからだった。
唇を触れ合わせるだけの口づけだったけれど、僕は感動で泣いてしまいそうだった。
「……そろそろだね」
二度目のキスのあとで、涼子はポツリとつぶやいた。
「なにが?」
「あたしが前に話したこと、覚えてる? 宗一の言う『不良グループ』から抜け出そうとした理由」
「……ああ、うん」
唐突な話題に目を丸くしながらも、僕は頷く。
「ヤバイこと始めそうだったから、でしょ」
「そう」
かつあげや万引きがセーフに思えるくらい、アウトなこと。
アウト以上の、アウト。
「あいつら結局、そのヤバイことに手を突っ込んだんだよ」
「………」
「あたしも誘われた」
「えっ!」
僕の声が家中に響く。
「え、いつ?」
「この前、勇治たちに呼び出されてさ」
この前。
「――あ」
知っている。
僕はその光景を見ている。
不良仲間と一緒にいて、もとの居場所へ戻ったのだと勘違いをした、あの時だ。
「あいつらしつこくてさ。一度でいいからやってみろって。嫌だって言ってんのに」
「まさか、やったの?」
凉子は首を振る。
「そっか」
「でも、無理矢理おしつけられた。…今でも持ってる」
「なにを?」
「それを見たときさ。あたし、ちょっと信じられなくて」
信じられない? 信じられない物をおしつけられた? 何を?
「だってさ。だって――」
凉子が僕を見て目を見開いた。いや―― 見たのは、僕のうしろ。
振り返った僕の視界に入ったのは、すさまじい勢いで廊下を駆けていく父の背中だった。
※
「おとなしくしろ!」
「離せ! 離さんか! お前ら全員浄化するぞ! 魑魅どもが!」
目の前に広がる光景を、僕は呆然と見ていた。
わめきたて、暴れる父。
その振りかざす拳をさけて押さえつけているのは。
警察官。
いったい、何が起きてるのだろう。
「伊佐木源道。あんたに薬物乱用、および販売の容疑がでてる。一緒に来てもらうぞ」
「ふざけるな!」
薬物乱用? 販売?
何だ。これは。
父のむき出した目が僕をとらえた。
「宗一、魑魅だ! こいつら全員、魑魅に取り憑かれている! 浄化しろ! 浄化だ!」
浄化。魑魅。
魑魅?
僕には見えない。
だって、まだ増幅剤を飲んでいないから。
僕はポケットからケースを取り出し―― そのケースが奪われた。
奪ったのは、彫りの深い顔をした警察官だった。
誰かに似ている。
誰に?
「宗一君。これは増幅剤なんかじゃない。――幻覚剤だ」
「え?」
幻覚剤。
何をいってるんだ。この人は。
「うちの親父だよ」
声に振り返る。
「…凉子。…親父?」
「サツだって言ったろ。こういう犯罪が専門なんだ」
犯罪? なんの犯罪?
僕はもう、わけがわからなかった。
「だまされるな宗一! 増幅罪を飲め! 浄化をしろ!」
父はその叫び声を最後に、警察官に引きずられて車の中へと押し込まれた。
サイレン。
野次馬。
増幅剤。
幻覚剤。
魑魅。
言葉が脳をつぶしていく。
「親父。宗一も連行するの?」
「…ああ」
遠くで凉子の声がする。
「ちょっとだけ話をさせてよ。あとで、あたしが連れて行くから。…絶対」
やるせない、ため息。
僕が、猫の喉に浄化針を埋め込んだときと同じ。
「力になってやれ」
「当たり前でしょ。…宗一、家の中に入ろ? 全部、説明するからさ」
凉子が僕の腕を引く。
引かれる度に、前へ進む。
魑魅がいると父はいった。
だったら、浄化をしないと。
僕は、そんなことを思っていた。
※
「これ」
涼子がテーブルの上に置いたのは、僕からくすねたと言っていた増幅剤だった。
「くすねたって言うのは、ウソなんだ」
「……え?」
「言ったでしょ。勇治に無理矢理おしつけられたって。……これが、それ」
「………」
「ヤバイことってクスリのことなんだ。あいつらの話だとこれは幻覚剤の一種で、自分の見たいものが見れるんだって。それから、相手に見せたい物を見せられる」
見たいものが見える?
そんなことは一度も無かった。
でも、見せたいものを見せられるのなら――
「ほら、白い塊が見えるだろう。それが魑魅だ」
父の声が頭に響く。
涼子は目を伏せて言った。
「宗一の言うこと、信じてなかったわけじゃないんだ。始めて見回りをしたときだって真剣な顔をしてたから、本当だって思った。魑魅がいるって」
凉子の声は震えていた。
「でもさ、宗一が飲んでる増幅剤と、勇治に押しつけられたクスリが全く同じ形でさ……」
涙が落ちる。
僕はもう、わからない。
何が正しいのだろう。何がウソで、何が本当なのだろう。
だって、父はいつでも僕を導いてくれた。
伊佐木一族の話だって、してくれた。
そうだ、僕たちは追放されたんだ。
浄化力をもたない母と恋に落ちて。
その母は、魑魅に取り憑かれて。
狂った母は叫びながら僕の首を絞めた。
なんと言って?
「吐きき出しなさい! 早く吐き出しなさい!」
ああ。
父が母を浄化したのだ。
僕はそれを見てる。
幻覚剤?
これが?
……違う。
これは―― 増幅剤だ。
「でも、大丈夫だよ。宗一は知らなかったんだ。あいつに騙されて飲まされていたんだから。罪だってそんなに重くないはずだよ」
僕は目をこらして、彼女を見る。
「ちょっとだけ大変かもしれないけどさ。大丈夫。あたしがそばにいるし」
ああ、なんてことだろう。
「…やっぱり、言うとおりだった」
「え?」
「正しいのは、父さんだ」
「宗一?」
凉子は戸惑ったように視線をさまよわせ、テーブルの上で固まった。
「クスリ、どうしたの?」
凉子の目が見開く。
「宗一! あんた、何を――」
「ごめん、凉子」
僕はやるせないため息をつく。
増幅剤によって覚醒した僕には、よく見える。
魑魅の白い頭が。
涼子の喉から顔を出している。
ああ、駄目だ。
こんなに同化してしまっては。
もう、助けられない。
僕にできることは、魑魅から解放してやることだけ。
「宗一?」
「凉子、今」
僕はポケットから、ゆっくりと浄化針を取り出した。
「今、魑魅から解放してあげるから」
了