そのろく・ハニトラブルでこともなし!
その少年は常に猛っていた。常に不機嫌だった。常に怒っていた。
その少年は常に理不尽であった。
確かにすさまじい。確かに恐ろしい。だが……それが分かっていて、なぜ彼を敵に回そうとする人間が後を絶たないのだ?
愚か、愚か。実に愚かしい。敵に回すから負けるのだ。敵に回すから堕ちるのだ。であれば。
「……身も心もと融ろかし、己のものにしてしまえば良いだけのこと。簡単なことなのかしらん♪」
その女は妖艶に唇をなめる。美しい女であった。妖艶な女であった。恐ろしい女であった。
かつて傾国と謳われ恐れられた女――その存在は動き出す。天下 太平を己がものとせんため。
勿論うまくいくわけがない。
と、いうわけで2年D組に転校生が来ることとなった。
「どういうわけですか」
「そう言うわけ」
「わかんねえよ」
いつものごとく突如降って湧いた話に顔を顰める望。いつものごとくエロく……えらく楽しそうな成螺。
二人がのぞき込んでいるのは言うまでもなく近々転入してくるという学生の資料。経歴はごく普通なように見えるが……。
「【九尾 玉藻】、ですか……」
じゃかきし!
「よし落ち着いてその13ミリ祝福儀式済み水銀弾頭使用の大口径ハンドガンを仕舞おうか」
無表情でどでかい銃をスライドさせる望に待ったをかける成螺。最近段々とリミッターが緩くなってきているエージェントティーチャーの姿に邪神もちょっと引きぎみだ。
「どうせこいつもまた騒動を起こすことが決定されていて、しかも私は無駄骨になることが決まっているわけです。ですから今のうちに処分しておくのが平穏への最短距離だと思うわけなんですよ。なにこれでも諜報員です。後の処理は慣れてますから」
「その真顔だけど目の中にぐるぐると渦を巻かせる表情はやめてくれないかなあ!?」
邪神もどん引きだ。
おかしいなあボクラスボスとか裏で暗躍する真の元凶とかそういうキャラのはずなんだけどなあと、最近の己の扱いに疑問を覚えつつ取り敢えず望を宥める成螺。
「まあ確かに人間ですらないってのは一目で分かるけど、まだなんにもしていない相手をいきなり抹殺しようとかダメでしょ? せめてしばらく様子を見てからにした方がいいって」
「弾頭だけ、弾頭だけですから!」
「わーいなんだか完全に錯乱してませんかこの人」
メダ●ニ唱えたら逆に戻るかなあと、混乱狂気系の補助魔法しか持たない成螺は後頭部に汗を流して悩んだ。
で、時間は流れて。
九尾 玉藻は待っていた。
美と艶を凝縮したようなその肢体を、やたらと身体の曲線を強調したようなえっちい制服で包み、蜂蜜色の髪をかき上げてその美貌に自信が溢れ出る笑みを浮かべる。
完璧。彼女はそれを信じて疑わない。天下 太平の行動パターンはここ数日で調べ尽くした。確かに彼は理不尽で無茶苦茶ではあるが、そのメンタルは普通の人間と大差ない。であれば己の美貌に傾かずにはいられまい。天下を握った英雄すらも、その鋼の心を融かしたのだ。真っ当な人の心を持つものであればひとたまりもないであろう。
「これまで誰の前にも跪かなかった男が、妾にひれ伏す。……ああ、想像するだけでたまらない光景なのかしらん」
ぞくぞくっと己の背筋を振るわせて、玉藻はパンをくわえた。
曲がり角の向こう側からどどどどどと何者かが駆けてくる音が響く。微かに聞こえる会話から、間違いなく太平とその相棒であることを確認。タイミングを見計らって曲がり角から飛び出す。
これぞ秘技、『曲がり角の先から飛び出したパンくわえてる女の子とぶつかる』である。あまりにもお約束でありあざとい手段であるが、それ故にインパクトも強い。倒れるときにぱんつちらりとか押し倒して胸の一つも揉ませれば次に『この痴漢責任取ってよ』のコンボに繋げやすいという利点もある。
つかみはOK。玉藻は勝利を確信した。
ごっ。
衝撃と共に世界が回転した。
容赦なく吹っ飛ばされたのだと気付いたときには、すでにその身は天高く舞い上がっている。
「なんか轢いたかああ!?」
「大丈夫多分死んでないから!」
せめて確認して。その思考を最後に、玉藻は顔面から地面に叩き付けられた。
「妖怪じゃなかったら確実に死んでいたのかしらん……」
「そのまま死んでくれりゃあ面倒無くてすんだのに……」
「はいそこ本音だだ漏れにするのはやめようね」
廊下を歩きながら、赤くなった鼻の頭を押さえつつ涙目になってる玉藻。忌々しげな表情を隠そうともしない望。まあまあと宥める成螺。
這々の体で何とか遅刻せずに学校へとたどり着いた玉藻を混沌の釜たる2-Dに放り込むため、望と成螺は彼女を伴って教室へと向かう。
しかしこいつと、望は不機嫌さの裏で冷静な諜報員としての自身を保ち、玉藻を観察する。何の目的は知らない。が、確かに知らないものであれば一目で見惚れるような美貌と存在感だ。もし何かを命じられれば、容易く従ってしまうであろう魔性。並の人間相手であればその目的は叶えられること間違いない。
しかし相手はほぼ間違いなく天下 太平。難しいというよりは徒労に終わるのではないかと言わざるを得ないが。
「(今までは色仕掛けの類を歯牙にもかけなかったらしいけど……この女はその筋にかけては年季の入ったプロ。今までの相手とは桁が違う。……どうなるかしらね?)」
今度こそ、状況が動くかも知れない。多分面倒な方向に。であれば。
「(その前に……殺っちまうかあ?)」
内心にくけけけとイカれた嗤いを浮かべ、望はいつでも銃を抜き撃ちできるよう心構える。なんか色々と精神が汚染されてるっぽい。
「な、なんか寒気がするのかしらん?」
「ああ気にしないで、よくあることだから」
悪寒に身を震わせる玉藻はちょっと不安げに周囲を見回すが、勿論誰も気遣ってはくれなかった。 そうこうしているうちに教室へとたどり着き。
「さあて諸君、お待ちかねの転校生だよ。盛大な拍手でお迎えしようじゃないか」
先に教室へと入った成螺がわざとらしいオーバーアクションで宣い、「さ、入っておいで」と玉藻を招く。
まばらな拍手の中、からりと戸を開け、トップモデルも顔負けの完璧な歩法で教壇まで進み、万年氷も融かすような妖艶さと可憐さを兼ね備えた美しい笑みを浮かべ、優雅に一礼する。
「九尾 玉藻と申します。皆様どうかよろしくお願いしますのかしらん♪」
少々の茶目っ気も込めての挨拶。並の人間が使えばただあざといだけであるが、玉藻のそれは最早魅了の呪いと言って過言ではない。即座に抵抗しても心に楔を打ち込むには十分。超室内は男女問わず己に見惚れる。
……はずなんだけど。
「(? な、なんか反応が悪いのかしらん?)」
普通に転校生を迎えているだけ的な教室内の空気に戸惑う玉藻。この傾国傾城の権化たる自分が結構気合いを込めて挨拶したのだ、並の人間であればまず間違いなく見惚れるし、そうでなくとも関心を引くはずだ。だというのにこの反応の薄さ、一体全体どうなっているのか。
実の所原因の一つは明確で。
「そう言う訳なので、みんなよろしくしてちょうだい」
などと宣う這い寄ったりする混沌っぽい担任が存在するおかげで、クラス全体の精神抵抗値が桁違いに上昇してたりするからだ。
かてて加えて。
「「「「「(どうせこいつの関係者なんだろ?)」」」」」
「(こっち見んな)」
転校生を差し置いてこっそり教室中の注目を集めている逸般人のおかげで、ある種の悟りに至ったこのクラスの人間に、生半可な精神汚染など通用するはずもなかった。
生半可どころの騒ぎじゃないような気がしないでもないが、ともかく玉藻の基本能力である魅了は、この教室ではまったくもって意味がないということである。
「(んぬぎぎぎぎぎ)」
微かに引きつる笑顔の下で、血の涙を流さんばかりに悔しがる玉藻。一歩目からのつまずきは、彼女のプライドを酷く傷つけたようである。
もちろんこの程度で終わるはずもなかった。
正面からがダメならば、搦め手で。玉藻は真っ向からの攻略が難しいと見切りをつけ、直接的なアプローチを諦めた。
この切り替えの早さが並の妖怪などにない、百戦錬磨の悪婦として彼女を成り立たせている要因が一つであるが、実の所ちょっと心が折れかかていることも否定しきれない。なにしろ2-Dの連中と来たら魅了されるどころか至極ふつーに相対してくる。こっそりと様々な技能を発動させているのも関わらずだ。その中にはまかり間違えば一発で廃人になってしまうようなかなりシャレにならないものも含まれていたりしたのだが……無論というべきか、一切合切が通じなかったのである。これは凹む。
要はこんなところにいられるかーわたしはほかのところへいくぞーとばかりに逃げ出し……一時撤退したわけだが。
「「「「「玉藻様ラヴー!」」」」」
「「「「「玉藻様好きじゃああ!」」」」」
「……効いてる……妾の力効いてる……」
さくっと魅了された他のクラスの野郎ども。その姿を見て玉藻は感極まって涙をこぼした。
当たり前であったことが、これほどうれしい。玉藻は今なにか新たな領域に目覚めかけているやもしれなかった。やってることはえげつなかったが。
ともかくだ。力がちゃんと使えると言うことが確認できれば次のステップだ。講堂に集まった有象無象を前に、玉藻はアイドルさながらの媚びを売りながら元気よく語りかける。
「みんなー! 今日は集まってきてくれてありがとうなのかしらーん!」
「「「「「おおー!」」」」」
反応がいい。それに気をよくしつつ調子に乗る玉藻。
「玉藻とってもとおっても嬉しいのかしらん!」
「「「「「おおー!」」」」」
「それでェ、玉藻皆さんにちょおっとお願いがあるのだけれど、聞くだけ聞いてくれないかしらん?」
「「「「「おおー!」」」」」
「わあい♪ 玉藻とってもとっても嬉しいのかしらん♪ それじゃあ、早速お願いなんだけど……2年D組の天下君と玉藻仲良くなりたいの。みんな協力してくれないかしらん?」
「「「「おお……お?」」」」」
振り上げられていた拳がぴたりと止まった。そしてそれまでぶっちぎりで高揚していた場のテンションが、冷水をぶっかけられたかのように一気に下がっていく。
あ、あれ? と戸惑う玉藻。ここまで来たら大概無茶なお願いでも聞くようになるほど判断力が低下しているはずだ。ましてや正気を取り戻すなんていう事自体がありえない。
だがしかし、玉藻がどう思おうが状況は動く。冷静さを取り戻した野郎どもは、互いに視線を交わしひそひそと囁きあう。
「2-Dの天下って、アレだろ?」
「アレ以外のアレがいるかよ」
「いやあの、裏番って噂の?」
「おま、それ本人の前で言うなよ!?」
「あんだけ騒ぎ起こしててなんで退学になってないんだよ……」
「そりゃ変に問題になって世間騒がすより三年間我慢して出て行ってくれた方が波風立たないからじゃね?」
「関わるの!? アレと!?」
「死ねる。いや死んだ方がいい目に遭う」
ひそひそごにょごにょ。野郎どもは審議に審議を重ね、そしてさくっと結論を出した。
「「「「「ぢゃ、今回はご縁がなかったということで」」」」」
一斉にしゅったっと片手を軽く上げて、野郎どもは波が引くようにさあっと講堂を去っていく。それまでのテンションなどまるでなかったかのような、後ろ髪引かれぬ潔い去り際であった。
空っぽの講堂に、ひゅう、と冷たい風が吹き抜ける。しばらくの間呆然としていた玉藻は、やっとのことでぽつんと言葉を零した。
「……なにゆえ?」
勿論答えはない。
つまり有象無象であったのが悪かったのだ。ある程度能力があり天下 太平に挑む気概があり適度にお馬鹿な人材。そういったものを選りすぐり魅了し操れば。
あきらめの悪い玉藻であるが、目の付け所は悪くなかった。
「ふはははははは! 力が、力がみなぎってくるぞ! 勝てる、これなら天下 太平に勝てる!!」
「最高ですぜ親分!」
「すげえっすよ兄貴!」
「あ、あれ? なんでこんな効果が出てるのかしらん?」
目をつけた人材が悪かったが。
太平に幾度も挑み、その都度倒されてきた漢。不屈の闘志は英雄級であるが理性とか知能とか色々と足りていない。術にはかかりやすいだろうと思ってはいたが。
なぜに異常なまでのパワーアップを果たし髪の毛が金色になって逆立ち爆発的な闘気が溢れ出ているのか。
「穏やかなる心を持ちながら激しい怒りによって目覚めた伝説の戦士……それが俺様、超番田 長治! 今こそ、今こそ逆襲の時! 敗北を強いられてきた俺たちの、新たなる伝説の幕開け!」
「光ってますぜ輝いてますぜ親分!」
「イケてるっす最先端っす兄貴!」
「よっしゃ逝くぜ野郎ども!!」
「「おおー!!」」
そして馬鹿三人は脇目もふらずに走り出して、あっという間に姿を消した。
ややあって、彼方から大気を振るわすどがんという音が響いた。そして断続的にビルに鉄球をぶつけるような音が衝撃と共に伝わってくる。
唖然としたままだった玉藻は、そのままぽつりと呟いた。
「……あれは効いていたのかしらん? 効いてなかったのかしらん?」
教訓。お馬鹿に術はかけやすいが、馬鹿すぎると予想外の効果が起こることもある。
この程度で諦めるようなら傾国傾城はやってられない。玉藻にだってプライドはある。
校内がダメなら校外で。彼女は昼休みと授業間の休憩を利用し近隣を駆けめぐった。
結果。
「な、なんとか放課後までに準備が整ったのかしらん……」
ぜーはーぜーはーと汗だくになり肩で息をしながら、玉藻は凄絶な笑みを浮かべた。
太平の通学路上、その至る所に偶然を装った罠を仕掛けたのだ。絡んでくる不良、横暴なヤクザ、目つきの悪い酔っぱらい、その他諸々と玉藻が、様々なシチュエーションの元で太平を狙いくる。さすがに全てをスルーする事など不可能。必ずどこかで引っかかるという算段であった。
……場合によっては太平がぶち切れ全てがご破算になる可能性があるのだが、勿論玉藻はそれに気付いていない。
気付かないままにほくそ笑む。細工は隆々、後は仕上げをご覧じろ。ともかく直接絡み接触さえすれば何とかする自信はある。さあ、早く出てきて蜘蛛の巣のごとき魅惑の罠に足を踏み入れるのかしらんと、彼女は隠すことを忘れたふさふさのしっぽふりふりしつつ物陰から校門を伺う。
やがて目標、太平の姿がついに現れた。よっしゃあと心の中で雄叫びを上げ、先回りしようとする玉藻の目の前で。
太平はいつもの帰り道と逆方向に向かって歩き出す。
「…………え?」
駆け出そうとしたポーズのまま固まる玉藻。勿論太平の向かう方向には何の用意もしていない。
えなに、なんで? どうして? 硬直したまま混乱する玉藻の目の前を、数人の学生が会話しながら通り過ぎる。
「……ふ~ん、天下君バイトしてたんだ」
「ああ、喫茶店だか飲み屋だか、そんな感じの店。基本夏休みとか長期休暇の間なんだけど、たまにヘルプ頼まれるんだと」
「アレが接客するんすか……想像できねー」
「冷やかしで行ったら……怒られるよね、多分」
「関わり合いにならないのが~、無難だと思いますよ~」
「無事これ名馬ということね。……ふふふまた名前でないわ……」
「「「「「そりゃ全員だ」」」」」
去っていく学生たち。硬直したままの玉藻。
通学路には、ただ冷たい風が吹き抜けるのみであった。
「……と、いうわけで見事なまでに空回りをしているわけですが」
「どこ見て言ってるんだい?」
あらぬ方向を向いてずびしと人差し指を立てる望と小首をかしげる成螺。近隣の防犯カメラ……の名目で備え付けられた諜報機関のスパイカメラの映像を映すスマホで玉藻の行動を監視していた彼女らは、やれやれとため息を吐いた。
「運が悪いというかなんというか。まあこちらとしては取り越し苦労ということでありがたいのですが今のところ」
「うんそんなこと言いながら口径30ミリはありそうなライフル砲の手入れをするのはやめない?」
どっからちょぱってきたんだろうと後頭部に汗を流しながら思う成螺だが、深くツッコミ入れると怖いことになりそうなので話をそらす。
「ま、この様子じゃそれほど心配することもないと思うよ。どうせすぐに2-Dの愉快な仲間たち入りさ」
「などと油断しているとろくでもないことが起こると相場は決まっています。勝って兜の緒を締めろという言葉もありますしいつでも鉛玉ぶち込めるようにしておかないと」
「そこはかとなく狂気が滲んでるような気がするけどボクまだなにもしてないよね? ってか監視だよね仕事」
「そろそろ見ているだけで正気度が下がってくることに気がついた今日この頃です」
「カウンセリング行ってきなさい一度。それはそれとして、この騒ぎもそう長く続かないと思うよ?」
その言葉に、望は眉をひそめた。
「随分と確信していますけれど、何か根拠でも?」
成螺はにい、と嗤う。
「なに、そろそろ重い腰を上げる人がいるってことさ。多分明日の朝にでもケリつくんじゃない?」
「ふ、ふふふふふ……よくも妾をここまでコケにしてくれたのかしらん……」
失意のうちに全ての罠を撤収し、肉体的にも精神的にもへろへろになった玉藻。
しかし、その目にはいまだぎらぎらとした闘志というか怨念が宿っている。
時刻はすっかり真夜中。多くの人間が眠りについている、そんな時刻。だが玉藻にとっては本領が発揮できる時間帯と言ってもいい。
そう、妖物ととしての己の本領。その全てを用いて今度こそ天下太平を堕とす。搦め手などという生っちょろいことをやっていたからダメなのだ。直接乗り込んで正々堂々と――
夜這う。
夜這いが正々堂々かどうかは置いておくとして、直接対峙すれば堕とせる。堕として見せる。……堕ちたらいいなあと、微妙に自信を失いつつも、玉藻は夜の住宅街をこそこそと進む。
やがて見えてくるのは一軒の建て売り住宅。三階建てで小さいながらも庭付きの、結構なお値段だった物件だ。傾城というにはいささか手狭に過ぎるが。
「堕とす。丸ごと突き崩してみせるのかしらん」
最早獣の気配を隠すことなく、縦長の瞳孔で天下家を見据える。そして彼女は意を決して一歩踏みだし――
「そこから先は、やめておいた方がいいよ?」
突如響いた鈴の音をならすような声に、動きを止める。
ただの声だ。殺気もない、闘志も感じられない。狂気を振りまくわけでも莫大な気配を伴っているわけでもない。
だというのに、玉藻は背中から吹き出す汗を止められなかった。
ゆっくりと、最大限に警戒しながら振り返る。人気のない路地、その傍らの塀の上に腰掛ける人影。
小柄な身体を三高の女子制服で包んだその人物は、くすりと笑って軽く挨拶した。
「はぁい。こうやって言葉を交わすのは、多分初めてだよね?」
「汝は……天下 太平の、相棒?」
「皇 まひと。そう呼ばれるのはまあ……光栄の至り、かな」
まるで玉藻のお株を奪ったかのように、妖艶でいたずらげな笑みを浮かべるまひと。その姿、その気配、存在全てが太平の傍らにいた時となんら変わりはない。だが何だこれは。身体が、心が、魂の底から玉藻という存在全てが怯えている。己とて神に匹敵すると謳われ恐れられ自負する存在、神でも悪魔でもない、ただの人ごときになぜここまで気圧される!?
戦慄を覚える玉藻を見るまひとは変わらず、ただ緩やかに静かに語る。
「おや、今名乗ったじゃないか。まだ気付かないのかい?」
玉藻は目を見開く。
「汝……いえ、貴方様は!」
そう、例えば玉藻は『妖狐』――死に損ない、力を得て、長い月日をかけて妖物へと変化した存在だ。元々はただの狐である。
彼女だけではない。妖物、魔物という存在はそもそもはただの動物であったり思いのこもった物であったりする、そういう存在だ。最強の幻想たる龍属ですらそもそもただの蜥蜴であった。
であるならばただの人であれば、それが死に損ない力を得れば。
多くは例えば仙人とも呼ばれよう。聖人にも至ろう。人の域を過ぎた超人にも、道を踏み外した魔神にも成るだろう。
それを突き詰め至って至って至って至って至った先。そこに立つ存在は。
人外の皇とも呼べる存在なのではないだろうか。
緩やかに静かに、だが謳うように芝居がかって、それは今一度名乗りを上げる。
「我が名は【魔人】。 【皇 魔人】。三千世界を渡り百鬼夜行の頂点に立つ、魔人の皇たるモノなり」
ごくりと唾を飲み、玉藻は我知らずその名を口にしていた。
「……【魔人皇】……」
それは人が忘れ去った遙かなる伝説の先にある存在。天使の羽を引きちぎり、悪魔を地獄から引きずり出す、神すらその座から蹴落とすであろう魔王を越えた魔皇。その存在を知るのは最早玉藻のようないにしえから存在する大妖か、神々や天使、あるいは悪魔や精霊のような世界の維持管理システムくらいしかないだろう。それが、目の前にいる。玉藻は戦慄を隠せなかった。
これほどの存在が天下 太平に加護を与えているのか。であればなるほど、理不尽なまでに暴君となるのも致し方ないことかも知れない。しかしなぜ? 玉藻のその疑問は。
「あ、勘違いしてるかも知れないけれど、僕太平ちゃんに一切合切毛ほども力貸してないからね?」
いつも通りの態度に戻った当の本人にさくっと否定された。
「……っていうか僕の加護とかいらないしー。全力の僕でも三十秒くらいで倒すだろうしー」
「(なんか勝手に落ち込んでる!?)」
実にとんでもないことを口にしながら沈むまひとの姿に、別の意味で戦慄を隠せない玉藻。彼女も大妖の中では戦闘能力が低めとは言え、その気になれば一つの国を一夜にして滅ぼすことも可能だ。そんな彼女と比べても目の前の存在はミジンコと鯨以上にレベルが違う。この美少年の姿をした怪物は、比喩抜きで数多の世界そのものを討ち滅ぼす事すら可能なのだ。それをして倒されるのが確実と言わしめる!? アレは、天下 太平とは、一体何なのか。
もしかしてとんでもないことに足突っこんじゃったのかしらんと、今更ながら腰が引き気味になる玉藻。と、いつのまにやら落ち込んでる状態から立ち直ったまひとが、ま、それはおいといてと話を強引に元へと戻す。
「そう構えないでも、本当にただ忠告しに来ただけだって。色々な意味で先達として、ね」
「……天下 太平に関わるなと、そう言いたいのかしらん?」
「んにゃ、その辺は好きにしたら?」
意外な言葉に、「は?」と目を丸くする玉藻。てっきり自分の獲物だから余計な手出しをするなとか言ってくると思っていたのだが。
戸惑う玉藻に、まひとは優しい声で語りかける。
「権力、力。最高のものに惹かれそれを得ようとするのは君の本能、存在意義そのものと言っても過言ではない欲だ。それぞれが独自に持つ欲望。それは人外となりはてた者たちの根幹、生きる意志、生きる価値、諸々全て。その皇たる僕がそれを否定できるはずもないよ。……要はどっかの誰かが言っていたように、汝の為したいことを為すがよい、ってことさ」
ただねと、まひとの顔が少しだけ真面目なものになる。
「ここから先、踏み込むのであれば覚悟しなきゃならない。この先はもう、戻れなくなる。力が失われる訳じゃない、けれども確実に変わる。劇的に、どうしようもなく、無慈悲に。……もう一度言おう、そこから先は、やめておいた方がいいよ?」
その言葉は多分真実なのだろう。それは本当にただの忠告で、そしてどうしようもない真実が含まれている。
やめておくべきなのだろう、引き返すべきなのだろう。だが玉藻は――
踏み込むことを選んだ。
なぜその道を選んだのか、玉藻自身も上手く説明することはできない。あるいは彼女も変化を求めていたのかも知れなかった。長きに渡る時間、権力にすがり、贅を極め、そして追われる。その繰り返し。そんな存在のあり方に、我知らず疲れを覚えていた。そうともとれる。
どちらにしろ、彼女は未知の世界へと進まんとする。その背中に向かって、まひとは再び芝居がかった声で語りかけた。
「先に言っておこう。……Welcome to the world!」
玉藻はもう、振り返らなかった。
そして。
「のきゃあ! な、なんで熊罠が!? ちょ、なんでにじりよってくんのこれ!? に、逃げ……お、檻ー!? 何が一体どうなって……吊り天井!? と、とげとげ出てきた!? あ、開けて出して死んじゃう妾死んじゃう!」
「……いわんこっちゃない」
「って分かってやってるやろアンタ」
微かに聞こえてくる騒ぎにやれやれと肩をすくめるまひと。その傍らにふわりと降り立つ影が二つ。
白き翼と漆黒の翼。機嫌悪そうな顔でぶんむくれた美佳と、苦笑を浮かべるルーシー。二人はそれぞれまひとの左右に立った。
くつくつと苦笑いし、ルーシーが言う。
「色仕掛けとか、ウチらがとうの昔に通ってきた道なんやけどなあ」
「姉様と一緒にしないでほしいのです。私は普通に勧誘してただけなのですから」
「制服に収まりきらん乳見せつけながらやっといてよく言うわこのど天然が」
先も言ったとおり彼女らの本質はこの世界を管理するただのシステムであり、本来正邪善悪などの属性はない。人間の認識にあわせているだけで、実際は同じものの別の側面が見えているだけにすぎない。人と同じく感情を持っているように見えるのも見せかけだけ、ただの形態模写である……はずだった。
しかし彼女らは、いつのまにやらシステムから独立している。システムに属している事には変わりがないが、確たる自我を持った一個の存在としてここにある。
能力を失ったわけではない。存在に関わる何かの介入があったわけでもない。しかし彼女らは変わった。劇的に、どうしようもなく、無慈悲に。
そもそもかつて聖人と呼ばれたものや神に祭り上げられたもの同様、システムとして取り込むはずだった太平から逆に影響を受けてしまったから。そうとしか考えられないのだが、そのメカニズムは一切合切が不明。未だその謎は解明されていない。
当然といえば当然だろう。世界の理を管轄する精霊王も、この世界を創造した存在も、三千世界を手玉に取る己にすらどうにもできなかったのだ。システムの端末ごときにどうこうできるはずもない。ましてやたかだか大妖程度が彼を手中に収めようなど片腹痛い。いつものごとくいつものように、引きずり込まれるのだ、このどうしようもない世界に。
くすりと、まひとは嗤う。彼に関わる全てを、そして自身を。
「十年。彼と出会い屈服し、そして敗因と強さの源を探るために子供に化け、眷属を家族と偽り彼の傍で過ごしてそれだけ経った。僕が存在し続けてきた時間に比べれば瞬きほどにもならない刹那。けれど随分と長い時間に思えるよ。……それだけの時間を経て、僕は何一つ理解することができなかった。多分みんながみんなそうで、そしてこれからも誰にも何一つ理解できない。そんな気がするよ」
「……私はそう思えないのです。いえ、思いたくないのです」
まひとの言葉に、美佳が憂いの表情で割り込む。
「そんなの、そんなの悲しすぎるのです。誰からも何も理解されない、こんなに傍にいるのに分かってあげられないなんて。そんなことがあっていいはずはないないのです」
「ふん、お優しいこっちゃのお。そもそも人が他人を完全に理解できるわけないやん」
茶々を入れるルーシーの表情にも、どこか苦みが混ざっている。
「理解する必要なんてないんや。あの災厄を凌ぐ最小の犠牲にして最大の効率、うちらはそれを探ればいい。そのためなら貞操でも何でもくれたるし、存在そのものを犠牲にしたって構わん。感情も感傷もうざったいだけや、うちらはただアイツが世界そのもの食いつぶすような真似をせんか、万が一の時にはどう食い止めるか、それだけ考えとけばいいねん」
自身にも言い聞かせるような言葉。まひとはふっと、呼気を漏らすように嗤った。
「そういう割には無駄に取り込もうとかしてたね先輩」
「そういえばそうだったです抜け駆けしてたです」
「シリアス保たせろやお前ら」
台無しだった色々と。
すっかりいつもの調子に戻ったまひとは、唇をとがらして言い訳する。
「えー、だってさあ……このBGMでシリアス続けようとか無理でしょ?」
そう、未だに微かに響いてくるのは。
「槍ー! 四方八方からの槍ぶすまー! ちょ、の、はっ、たりゃあこれでどうなのかしら……ってワイヤートラップ!? いつのまにうきゃあ!? 服ー! なんで服が重点的に切られるのー!? これ考えた人間えっちいのかしらん絶対狙ってたのかしゅぶれっ! 目が、目がああああああ! 唐辛子スプレーは反則ー!」
「……まだやっとんたんかい」
どよーんと、暗い雰囲気で肩を落とす三人。なんかもう色々と無駄な気がしてきたと、何度目になるか分からない諦観を覚える。
「……なんであんなにトラップばかりなんですあの家」
「……おじさまが最近日曜大工にハマっててさ……」
「……日曜大工いうレベルちゃうやん……」
「今度は落とし穴かあああ! くの、なめるなって油! 油注ぐのはやめて! 滑る落ちるきゃあああああ! ぬるぬる! ぬるぬるってちょ、これなに!? やあちょっとなになに来ないで触手陵辱産卵腹ポテアヘ顔はいやあああああああ!」
もうなんかダメだ色々と。三人は何度目になるか分からない乾いた笑い声を上げ、その後がっくりとうなだれた。
「……やっぱさ、たいへーちゃん本人だけじゃなく周りの環境も大概だと思うんだ」
「……卵が先か鶏が先か、ちゅうレベルやと思う」
「……我々とかが平気で居座れる時点でもうアレでナニだと思うです」
「…………」
「「…………」」
「…………ところで、僕居候だから帰らないといけないんだよね、あの家に」
「「………………」」
「………………」
「「…………………………がんばれ」」
「…………………………がんばる」
こうして、また一つの悲劇が幕を下ろした。
他人から見たら喜劇だが、本人は必死なのである。そこら辺は酌んでやって欲しい。
で、翌朝。
ずたぼろになった玉藻は、そこら辺で拾った棒きれを杖代わりによろよろと進む。
「生きてる……妾生きてる……」
生への渇望とか尻尾を泣いて逃げ出した屈辱とか命とか貞操とか色々大ピンチだった恐怖とか、様々なものが入り交じった涙をほろりとこぼす。
命からがら逃げ出し精も根も尽きた彼女。最早他のことをする気力も考える根性もなく、ただおうち帰って寝たいという本能に従って必死で身体を引きずっていた。
しかし、彼女をずんどこにたたき落とす(間違いではない)イベントは、この後に待ちかまえていた。
「……なにやってんの転校生」
「へは?」
突如かけられた声に顔を上げてみれば、そこには私服姿でボストンバック下げた太平の姿が。
玉藻の思考が停止する。え? なんで? 確かに妾彼の家から出てきたのになんで進行方向から来るの? 疑問がぐるぐると頭の中を巡り思考が定まらない。ぽかんとした表情のまま、彼女はなんとか疑問を口にした。
「え、あの……夕べはどちらに?」
「ん? バイトがちょっと遅くなったから泊まらせてもらったんだが、それが?」
つまり、太平はあの家にいなかったわけである。
そうなると、玉藻のやってきたことは骨折り損のくたびれもうけだったということで。
ゆっくりと理解。そして彼女は俯いてぷるぷる震えだした。
何事かと訝しむ太平の目の前で、彼女はがばりと面を上げ大泣きしながら指を突きつける。
「こ、これで勝ったと思うなよかしらん! うわああああん!!」
そして彼女は泣き叫びながら駆け出し、あっという間に消えていった。
当然残された太平には何のことかさっぱり分からず、首をひねるばかりである。
教訓。目的地に目的のものがあるか、ちゃんと確かめてから行動しましょう。
「からくり屋敷とか、男のロマンだとは思わんかね!?」(ドヤァ)
「はいはい分かりましたからちゃんと片づけてくださいねおとーさん」
まったりと更新。最低でも速度は諦めて欲しい。
というわけでハニトラ話に見せかけたまひと君正体バラしの回。多分皆さんそこそこ分かってたんじゃないかなと思いますがいかがだったでしょうか。親友が実はラスボスと見せかけていますが出会って早々にぶち倒されてます。覇威流挽渦で。しかも当時小学一年かそこら。それでも未だにくっついてるまひと君はMなのかもしれない。
これで『未だに人物紹介がない理由の一つ』がクリアされました。人物紹介は『もう一つの理由』がクリアされた後に解禁されます。さて一体なんなのでしょうかね?
とまあしょうもない謎を残しつつ、今回はこの辺で。