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1月1日の朝


 今年もやってきた1月1日。

 

 



 私は、ジャンヌ=ダルク。

 今は転生して、十字 まもりとして日々を生きている。


 皆は、正月は好きだろうか? 私は、好きではない。嫌いな行事の一つだ。

 面倒でけだるい事ばかりでロクな事が無い。そもそも、私はキリスト教に身を委ねてる聖女(ラ・ピュセル)なので仏教及びそれにまつわるにあまり興味は無いし参加する必要が無い。しかし家族が仏教徒である以上なかなかそれに逆らうわけにもいくまい。隠れキリシタンと言うのはいつの時代も肩身の狭いものである。


 1月1日朝。

 食卓に着くと、四角形の連なった黒い箱が置かれていた。

 お馴染みのおせち料理と言うものである。現世の父がそれを丁寧に一段ずつ分けて行くと、結果四つに分かれて。賑やかな海鮮類や野菜、肉等が姿を現した。実に豪華だ。日本の料理と言う物は実に出来が良いと思う。オルレアンの飯もまずまずだったが、このような美しさが伴うのものはなかなかお目にかかれなかった。しかし、これだけ煌びやかであっても、毎年全部食べる事は出来なくて、結局少し残ってしまうのは切ない。ウチは皆少食だし、特に私は昆布とかタコとかイカなど苦手なものが多くて玉子焼とか伊達巻くらいしか食べられない。だから、1月3日には取り残されたお節の残りの寂しげな姿を見る事になってしまうのだ。元々命あったもが食べ物として我々の前に現れてくれたのにも関わらず、それ無碍にしてしまうというのはまことに申し訳が無く辛いものなのだ。おせち料理とは、喜びと悲しみが入り混じった複雑な食べ物だと思う。まあ、ともかく、今日である1月1日の時点ではおせちは、まだ喜びのイメージを放っている。


 私が、お節をつまもうと言う所で、現世の母はお雑煮を持ってきた。

 ふんわりとかつおの出汁の香りが私の鼻に入ってくる。いい匂いだ。私は正直、冷たいお節よりも、この暖かい餅の方が好きだ。不覚にも喉に詰まりそうな時もあったが、汁に使ったこの粘着質な白い塊に鰹節をかけて頂くは、正月全体を通しても、最も幸せな部類のイベントだろう。餅をたいらげた後に残った少し粘りのある汁も実に美味しい。


 食べている私の耳には、TVに移っている「実業団駅伝」のアナウンスが聞こえて来た。

 やれやれ今年もまた面倒な正月が始まったかと、私は心の中でため息をついた。   





  

   




 

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