『愛されていた』
俺は、ずっと妻に愛されていないと思っていた。
結婚して何年か経った頃から、妻は俺に素直な言葉をかけなくなった。
「おかえり」
その一言さえ、どこかよそよそしかった。
何かを頼まれても、
「普通、それくらいやるでしょ」
と返される。
俺が仕事で疲れて帰ってきても、
「遅かったんだね」
「連絡くらいできるでしょ?」
そんな言葉ばかりだった。
俺は、妻から嫌われていると思った。
それなら俺も、妻に優しくする理由なんてない。
帰宅も遅かった俺は、寝室には行かず、
リビングのソファーで寝るようになった。
そうやって、少しずつ夫婦の間に壁を作った。
そして俺は、外に女を作った。
一時的なものだった。
そう思っていた。
けれど、その女といる時間が徐々に増えた。
家に帰る回数が減っていった。
帰っても、妻と同じ寝室に入ることはなくなっていた。
いつしか俺の寝場所は、リビングのソファーに。
妻は何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
だから俺は、
「もう俺たちは終わっている」
そう思っていた。
妻も同じ気持ちなのだと思っていた。
でも、あのとき妻は、何を考えていたのだろうか?
俺がソファーで寝る夜。
妻は、隣の寝室で一人だった。
俺は自分が拒絶されていると思っていた。
もしかしたら、妻のほうがずっと寂しかったのかもしれない。
それでも俺は、外の女との関係を何年も続けた。
妻にバレたあとも、すぐには終わらなかった。
妻は離婚したくないと言った。
俺は、それが理解できなかった。
「どうして?」
何度もそう思った。
俺のことを愛しているようには見えなかった。
愛しているなら、もっと違う言葉をくれればよかった。
もっと俺を必要としてくれればよかった。
もっと素直になってくれればよかった。
でも、妻は最後まで何も言わなかった。
結局、俺は離婚を選んだ。
妻は泣いた。
けれど、それでも妻は俺に言わなかった。
「愛してる」
その一言を。
離婚して、俺は家を出た。
妻がその後、俺が昔、
「ここには絶対に住みたくない」
と言っていた地域へ引っ越したことを後から知った。
俺には、それが少し不思議だった。
俺との思い出から逃げたかったのかもしれない。
あるいは、俺のいない場所で新しい人生を始めたかったのかもしれない。
俺はもう、自分の人生をゆっくりと進めていた。
愛し愛されたい人に出会って、
再婚することになった。
俺は新しい家庭を作った。
その話が、元妻の耳にも入ったらしい。
彼女にも、今は彼氏がいると聞いた。
俺は、
「それならよかった」
と思った。
俺だけが前に進んだわけじゃない。
彼女にも、新しい人生がある。
そう思っていた。
けれど彼女は、俺の再婚を知ってから、ひどく落ち込んだらしく、
彼氏の家の近所に引っ越していった。
新しい恋をしていたのに。
それでも俺を忘れられていなかったのか?
その話を聞いたとき、俺はしばらく何も言えなかった。
あの人は、まだ俺を好きだったのか。
じゃあ、どうして何も言わなかったんだろう。
どうして、あの頃に言ってくれなかったんだろう。
「あなたが好き」
「離れたくない」
「愛してる」
たったそれだけでよかったのに。
いや。
今になって、そんなことを言う資格は俺にはない。
何年も浮気をしていたのは俺。
家に帰らなかったのも俺。
ソファーで寝る生活を選んだのも俺。
妻を傷つけ続けたのも俺。
だから、彼女が言えなかったことを責めることなんてできない。
俺だって、彼女に向き合うことを、とっくの昔にやめていた。
妻が強がっていたことにも全く気づかなかった。
不満の言葉の裏側にあった寂しさにも。
彼女が本当は、
「もっと私を見て」
と言っていたのかもしれないことも。
俺たちは、二人とも不器用だった。
俺は愛されていないと思い込み、
彼女は愛していると言えなかった。
そして、そのすれ違いの隙間に、別の女が入った。
それだけだった。
今、俺には新しく選んだ人との新しい人生がある。
もう戻ることはできない。
それでも、ときどき思う。
もしあの頃、
妻が俺の袖をつかんで、
「愛してる、行かないで」
と言っていたら。
もし俺が、
「お前は俺のこと、どう思ってるの?」
と聞いていたら。
何かが変わっていたのだろうか。
答えは、もう分からない。
ただ一つだけ分かることがある。
あの人は、俺を愛していなかったのではなかった。
俺には、それが分からなかっただけだ。
そして彼女もまた、
俺に愛していると伝えることができなかった。
だから俺たちの結婚生活は終わった。
愛がなかったからではなく、
愛があったことを、二人とも最後まで確かめられないまま。
今でも、ときどき思い出す。
あの家の寝室。
妻が一人で眠っていた部屋。
俺が背を向けて眠っていたソファー。
あの頃の俺は、
「俺たちはもう終わっている」
と思っていた。
けれど本当は、
終わっていたのではなく、
終わらせるしかないところまで、
二人で何年もかけて歩いてしまったのかもしれない。
そして今、
俺の隣には別の女がいる。
彼女の隣にも、別の男がいる。
もう、互いの人生に戻ることはない。
俺の浮気がわかり、やり直すことを決めた後、
彼女が、
俺に言った言葉。
「やっぱり私たち、あわないよね」
俺にとっては離婚を決めた言葉だったが、
不器用な彼女にとって、
それは、
それでも私はあなたを選ぶ、という決意表明だったのかもしれない。




