6-1.Poisson 平目のポワレ 海の恵みをふんだんに添えて
ガタガタガタ、と。
車輪が回るたび、木組みの車体に小刻みな揺れが伝わってくる。
学術都市ムルソーから王都へ向かう街道の石畳を走っているまではまだ良かったが、ソフィーの実家であるヴァロワ伯爵領に入ってからは、揺れが激しくなり、大きな石に車輪が乗り上げるたびに車体が大きく跳ねた。
ソフィーは、青いドレスと防寒用のコートを身に纏い、俺の隣に座って辺境伯家の馬車に揺られている。
あのパーティーの騒動の後、宣言通りソフィーはムルソーにある辺境伯家の俺の屋敷で暮らすことになった。
そうして俺は、毎日ソフィーに食事を作って——いなかった。
「お嬢様が厨房に入るなど、言語道断でございます!」
屋敷の厨房に足を踏み入れようとするたび、有能執事のアルフォンスと、鉄壁のメイド長・マルグリットに全力で阻止されるのだ。
学園の厨房でソフィーにポタージュを作ったと主張しても、「またご冗談を」と一笑に付されて終わる。タイミングが悪いことに、アルフォンスが学園の厨房に駆けつけたのは、俺が料理を終えて食べているときだった。
結局、腕を振るう機会はお預けのままだ。
学園はパーティーの翌日から冬休みに入った。
ソフィーとは屋敷で一緒に専属料理人の食事を摂り(悪くない腕だ)、温かいお茶を飲み、書物室で一緒に本を読んだ。
セリーヌとしての記憶は完璧に引き継いでいるが、この世界の食材の流通や料理の歴史など、深窓の令嬢が知る由もない専門知識については、俺自身で一から調べる必要があったのだ。
そうして穏やかに、笑い合いながら過ごす三日間のうちに——ソフィーは少しずつ、俺の隣で肩の力を抜いてくれるようになった。
目の下にうっすらと落ちていたクマは消え、青白かった頬には健康的な血色が戻りつつある。良質な睡眠と安心感が、彼女の心身を確かに癒やしているようだ。
(……うん。いい表情になってきた)
目の前で、少しだけ跳ねた馬車に「きゃっ」と小さく声を上げるソフィーを見つめながら、俺は密かに目を細めた。
そうして今、俺たちはソフィーの実家であるヴァロワ家へと向かっている。
本来ならば、冬休みに入ると同時にソフィーは実家へ帰る予定だった。だが、ただでさえ体力が落ちていた彼女にとって、すぐに長旅に出るのは危険だと俺が判断し、三日間を静養に当てさせたのだ。
一方、セリーヌの実家であるヴァン=ルージュ家は、学園のあるムルソーから馬車で十日もかかる遥か遠方の地にある。冬休みの短い期間で帰郷することは物理的に不可能なため、俺は一緒にヴァロワ家へとお邪魔することになったのだ。辺境伯からの連絡に備えてアルフォンスはムルソーの屋敷に居残りさせた。
そうして馬車に揺られること四日。ようやく、目的の伯爵領へと辿り着いた。
ヴァロワ伯爵領は王都から程近く、二日も馬車を走らせれば王都へと辿り着く好立地にある。だと言うのに、窓から見えるこの地は、お世辞にも「発展している」とは言い難い、うらぶれた景色が広がっていた。
それにしても。
——この揺れは、なんとかならないのか。
現代日本の滑らかなアスファルトと、車の優秀なサスペンションに慣れきった俺の三半規管は、もはや限界だった。
本来、セリーヌの体は貴族としてこの馬車の揺れに慣れているはずなのだが、中身の俺の感覚がそれを全力で拒絶している。荒れた舗装の道を車輪が跳ねるたび、胃袋の中身がシェイカーで振られたカクテルのようにシェイクされていた。
(うぷ……)
だめだ。吐きそう。
無理。これ以上は体面とか言ってられない。横に、とにかく横になろう。
俺はふらりと姿勢を崩し、纏っていた深緑のドレスごと座席に倒れ込んだ。
バフッ。
(……うん?)
なんだこれ。すごく柔らかい。
クッション? いや、それにしては絶妙な弾力と温もりがある。頭の高さも丁度いい。
薄く目を開けると、すぐ目の前に、驚いて目を丸くしているソフィーの顔があった。また真っ赤になっている。パプリカのような艶のある赤だ。
(あー、これ……膝枕だ)
俺の頭が乗っているのは、彼女の太ももの上。
甘い花の香りがする。温かい。気持ちいいなぁ〜!
最悪だった車酔いが、一瞬で癒やしへと変わっていくのを堪能していた——その時だ。
「お嬢様!!」
向かいの席に座る三十代半ばのメイド長マルグリットが、怒りで肩が震えるのを抑え込むように、ピシッと指でメガネを押し上げた。
隙なく結い上げられた金の髪が、馬車の揺れとは別の怒気で揺れている。
「しゃんとなさいませ! 仮にも辺境伯令嬢たるお方が、はしたない! みっともないにも程がございます!!」
(うん、ごめんなさい。めっちゃ怖い)
俺は心の中で平謝りしながらも、車酔いとソフィーの膝の心地よさからどうしても頭を離すことができなかった。
「セリーヌ様! 海が見えましたよ!」
顔を赤らめたままのソフィーが、慌てて話題を変えるように窓の外を指さした。
言われてのろのろと起き上がり、窓の外へ視線を向ける。
そこには、鈍色に広がる冬の海があった。
「領は海に面してるんです。と言っても、大きな船は入れないので寂れた漁村しかありませんが……」
俺はソフィーの申し訳なさそうな説明を聞き流し、その海原から目を背けることができなかった。
「ヴァン=ルージュ辺境伯本領には海がありませんから、お嬢様も海を直接ご覧になるのは初めてかもしれませんね」
マルグリットも、感慨深げに海へと視線を向けていた。
窓の隙間から、冷たい風が吹き込んでくる。
微かに、潮の香りが鼻をくすぐった。
——その瞬間、俺の頭の中で、壮大なファンファーレ、いや、セリの開始を告げる鐘が鳴り響いた。
「魚……ッ!! 新鮮な魚は手に入るのかしら!?」
思わず身を乗り出した俺の異様なまでの食いつきに、ソフィーとマルグリットは目を丸くして顔を見合わせた。
俺の車酔いなど、海の幸を前にして完全に吹き飛んでいた。




