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6-7.Poisson 平目のポワレ 海の幸をふんだんに添えて

 マルグリットがまだ寝ていることを幸いと、俺は伯爵家の厨房を完全に占拠していた。


 ドスゥンッ!


 伯爵邸の厨房の巨大なまな板に、市場で仕入れたあの巨大な寒平目を置く。


「お、大きい……! こんな立派なお魚、私捌いたことありませんよぉ!」


 ミュジニが目を丸くして身をすくませた。

 伯爵家の料理番である彼女が、今日は俺を手伝ってくれる。二十代前半くらいの、小柄で元気な女性だ。使い慣れない他家の厨房での料理において、どこに何があるかを熟知している彼女の存在は非常に助かる。


 聞けば、特別な料理修行はしたことがなかったものの、彼女は結婚したばかりの十代後半の頃から伯爵家の募集に応じ、以来ずっとこの厨房と菜園をたった一人で預かっているのだという。


「セリーヌ様と私が、市場で買ってきたんですよ!」


 ソフィーも隣で誇らしげに胸を張っている。


 今日はソフィーも手伝いを申し出てくれた。学園に入る前、伯爵家で暮らしていた時は、よくこうして厨房に入り浸ってミュジニを手伝っていたそうだ。


「二人とも、今日はよろしく頼むわね。……さて、と」


 俺は持参した細長い木箱をテーブルに置き、静かに蓋を開けた。


「わぁ……っ!」


 ソフィーとミュジニから、同時に感嘆の声が漏れる。


 箱の中に綺麗に並べられていたのは、鈍い光を放つ大小数本の包丁――。


 実はこれ、学園の料理長が俺の旅行の間にと、こっそり貸してくれたものだ。

 

 旅行前、所用で訪れた学園でたまたま会った時に『自分の屋敷の厨房にも入れてもらえない』と愚痴っていたら、『旅先で厨房に入るチャンスもあるかもしれません。よければこれをお使いください』と、綺麗に研ぎ上げられた予備の包丁セットを丸ごと渡してくれたのだ。


(持つべきは頼りになる仲間(戦友)だな)


 俺は箱の中から、細身で刃渡りの長い一本を手に取る。


 すでに鱗は掻いて、エラと内臓は取ってある。俺は刃先を平目の背の中央、中骨に沿ってスッと滑らせた。


 ――ツーーーーッ。


 抵抗を感じさせない、絹を裂くような滑らかな音。そこから包丁を寝かせ、骨に沿って刃を入れていく。


 チリチリチリッ、と、刃先が骨に当たる微かな音だけが厨房に響き渡る。身が包丁に吸い付いてくる。身が活きている証拠だ。やがて巨大な平目は美しい純白の四つの身と、綺麗に身を剥がされた骨とに分解されていた。


「す、すごい。セリーヌ様。とても綺麗です」


 ソフィーが感嘆の声を上げ、ミュジニがうんうんと力強く頷く。


「ありがとう。さぁ、これからが本番ですわ」


 適当にぶつ切りにした平目のアラと、クズ野菜、そして水を入れた鍋を火にかける。この伯爵邸の水も軟水だった。山が近いからだろうか。パン作りには不向きだが、出汁を取るには向いている。


 くつくつと煮込んで漉せば、淡い黄金色の魚の出汁(フュメ・ド・ポワソン)の完成だ。


 出汁用に取っておいたオマール海老の殻と香味野菜を炒め、香ばしい匂いが立ち上ったところで白ワインを注ぐ。アルコールが飛んだら、先ほどの魚の出汁と合わせ、ハーブ(エストラゴン)と一緒に煮詰めていく。トマトが欲しいところだが、無いものは仕方ない。


 煮終わったものを、漉し器(シノワ)でぎゅっと絞り出す。一滴、また一滴と滴り落ちるそれは、海老の旨味が凝縮された淡いオレンジ色の液体になる。ワイン蒸しにしたムール貝の濃厚な出汁も合わせ、そこにバターと生クリームを加え、塩胡椒で味を調える。これでソースの完成だ。


 横ではソフィーが蒸した海老の殻を丁寧に剥いてくれ、ミュジニは付け合わせに菜園で採れたばかりの野菜を焼いてくれている。


 俺はフライパンに油を引いて火をつけ、熱くなりすぎないうちに、軽く塩をした平目の切り身を皮目から入れた。


 温度が上がり、やがてジューッ! という小気味良い音が鳴る。身が反り返ろうとするので、上からヘラでそっと押さえる。強く押さえすぎると旨味の水分が流れ出てしまうため、あくまでも優しく。そしてじっくりと焼く。


 皮と、皮の付近の身がこんがりと黄金色に焼ければ火を消してひっくり返し、あとは余熱だけでふっくらと火を通す。


 温めておいた皿の中央にオレンジ色のソースを敷き、オマール海老の身とムール貝、付け合わせの野菜をのせる。その上に、立てかけるようにして皮目を上にした平目を配置する。ここに鮮やかな緑のセルフィユを飾れば完成――。


 という、まさに盛り付けの佳境の時だった。


 ふと視線を感じて振り向くと、厨房の入り口に、ひどく不安そうな顔をしたマルグリットが立っていた。


「あっ、マルグリット。もう大丈夫なのですか?」


 今忙しいんだが……と思ったのに俺はサッと手を洗い彼女の元に駆け寄った。


「はい、お嬢様。お見苦しいところをお見せして、申し訳ございませんでした」


「本当に大丈夫? 熱とかはない?」


 俺は手をマルグリットの額につけた。


「だ、大丈夫でございます! それよりセリーヌ様、ほ、本当にご自身で料理を……?」


「ええ、本当よ。マルグリットも楽しみにしておいてちょうだい」


「い、いえ、私もすぐにお手伝いを……」


(よし、じゃあ盛り付けと配膳を手伝ってもらおうか)


「ダメよ。今日は一日ゆっくりしていなさい。もうすぐできるから」


 両手でマルグリットの背中を押し出し、入り口に控えていたメイドの一人に声をかける。


「彼女を、食堂の席に案内しておいてもらえるかしら?」


「かしこまりました」


 メイドに案内され、戸惑いながらも食堂へと向かうマルグリットの背中を見つめながら俺は胸に違和感を覚えていた。


(俺、マルグリットに何か頼もうとしていなかったっけ……?)




 ◇




 騎士以外全員が着席した食堂のテーブルを、俺は見渡してから咳を一つ払う。


「では皆さま。本日の一皿は『平目のポワレ、海の恵みをふんだんに添えて』でございます。平目のアラとオマール海老の殻、ムール貝の出汁を贅沢に煮詰めたソース・アメリケーヌを、たっぷりと絡めてお召し上がりくださいませ」


 俺が一礼して自分の席につくと、ゴクリ、と誰かの唾が喉を通る音が、静まり返った食堂に響いた。


 それぞれの前に置かれた純白の皿には、オレンジ色の濃厚なソースの海。そこに浮かぶように、香ばしく焼き上げられた分厚い平目の切り身と、鮮やかな赤に染まったオマール海老、黒く光るムール貝。そして付け合わせの野菜たちが美しく配置されている。


 オマール海老の甘く芳醇な香りと、平目の皮の香ばしさが、鼻腔から入り込んで肺の隅々までを満たしていく。


 俺もカトラリーを手に取り、ナイフを平目の中心へと入れた。


 ――パリッ。


 皮が裂ける軽快な音が、ナイフの柄から手を通って脳へと直接届いた。


(よし)


 そのまま切り分けた一口を口へ運ぶ。

 皮の香ばしさと、ふっくらとしっとりした身の甘み。そして噛むたびに溢れ出す、魚の肉汁(ジュ)。そこに甲殻類の旨味が凝縮されたソースが絡み合い、口の中で膨らむ。


 うん、完璧な火入れだ。ダイス爺さんの平目が最高に美味い。それに、海老はぷりぷりだし、ムール貝の旨味もたまらない。やはりこの伯爵領は食材の宝庫なのでは?


 周囲を見渡すと、あちこちから感嘆の吐息が漏れていた。


「セ、セリーヌ様! 皮がパリッとしていて、身はしっとり。そしてお魚の汁が口の中で溢れます! 臭みなんて一つもなくて……お魚って、こんなに美味しかったんですか!」


 隣のソフィーが、信じられないものを見るように目を輝かせている。


「う、美味い……! なんだこれは……っ! それにこの付け合わせの野菜! ソースをたっぷりと吸ったこの野菜が美味い……!」


 伯爵が、震える手でフォークを見つめていた。


「ええ、こちらの菜園で育った野菜ですわ。ほうれん草にブロッコリー。蕪もあれば良かったのですが、それはまたのお楽しみですわね。冬野菜の甘みは、濃厚な海老のソースと最高の相性でしょう? 魚介も野菜も全てこの領地の食材です」


「おおお……っ! 我が領地の魚介と野菜が、こんなにも気高い一皿に化けるとは……!」


 伯爵の目から、涙がポロポロとこぼれ落ちた。


「ぼく、これまいにちたべたいです! セリーヌさま! やっぱり、ぼくとけっこんしてください!」


 口の周りをソースだらけにしたシオンが、身を乗り出して再びプロポーズをしてくる。


「シオン! お行儀が悪いですよ!」


 伯爵夫人が嗜めつつも、その顔はふやけて綻んでいた。


 同じテーブルの端では、ミュジニをはじめとした伯爵家とヴァン=ルージュ家の使用人も「こりゃあ生きてて良かった」「ほっぺたが落ちる」と夢中で皿を舐めるように味わっている。


 そんな賑やかな食卓の中で――一人だけ、静かに動きを止めている者がいた。


 マルグリットだ。


 彼女は、切り分けた平目とソースを口に含んだまま、フォークを握りしめて俯いていた。


「……マルグリット?」


 俺が声をかけると、彼女の瞳から、大粒の涙が皿の上へと滴り落ちた。


「……信じられ、ません……」


 マルグリットは震える声で呟いた。


「こんなにも……こんなにも温かいお味がするなんて。お嬢様が作られた料理がこんなにも優しさに溢れているなんて」


 彼女は顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔で俺を見つめた。


「お嬢様……セリーヌ様! とても美味しゅうございますぅぅぅ」


 マルグリットのハンカチで目頭を抑える姿を見て俺はふっと微笑む。


「貴女に食べてもらえてよかったです、マルグリット。……さあ、冷めないうちに召し上がって。みなさまも今日はマナーなど気になさらずに」


 暖炉の火が空気を含んで大きく揺れた。喜びを表すかのように。


 身分も立場も関係なく、ただ「美味しい」という一つの感動で繋がったこの空間こそ、俺が前世で夢見ていた『小さなレストラン』の姿そのものかもしれなかった。

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