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放課後、25度の嘘  作者: 膝栗毛


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放課後、25度の嘘

ぜひご一読ください


第一幕 黄金の日常

五月の教室は、いつも少しだけ暑すぎる。

「なあなあ聞いてくれよ、昨日コンビニでさ——」

教壇の前に仁王立ちして、俺は両手を大きく広げた。ちょっとした芸人の間合いで、絶妙なタイミングでオチを放り込む。弾けるような笑い声が教室に満ちた。

笑い声が大きい。いい兆候だ。痛みが遠のく。

「春樹ってほんとなんでそんなに面白いの」と誰かが言う。

「生まれつき? あと五月の気圧のせい」

また笑い。また遠のく。

俺の名前は柏木ハル。十七歳。クラスの潤滑油、ムードメーカー、ちょっとした道化師。役職としては悪くない。腹の底がどれだけ静かでも、口さえ動かせば誰も気づかない。それが俺の、唯一誇れる才能だった。

チャイムが鳴って、廊下に人が溢れ出す。

「ハル、放課後カラオケ行かね?」

「今日はパス。課題がやばい」

「えーまじかよ」

「まじかよ、じゃないって。お前も課題やれ」

軽く肩を叩いて、人の波に乗るふりをしながら、俺はひとつ角を曲がったところで立ち止まった。

壁に背中を預ける。手のひらを、制服の上から胸に当てる。

——あ、来た。

鋭い。ガラスの破片が心臓の内側を引っ搔くような、左の奥に走る痛み。息を吸うたびに悪化するから、できるだけ浅く、静かに呼吸する。廊下の喧騒がずいぶん遠く聞こえた。発作は三分で引く、と自分に言い聞かせる。最近は五分かかるけれど。

壁のタイルが冷たくて、それだけが今の俺には心地よかった。


アパートに帰るといつも、学校が夢の中の話みたいに思える。

玄関を開けると最初に来るのは匂いだ。古い畳とカビと、どこかからしみ込んでくる他の部屋の料理のにおいが混ざった、この部屋だけの空気。窓の隙間から風が入るたびにサッシがひゅうと鳴く。慣れた、とは言えない。ただもう、驚かなくなっただけ。

ジャケットを床に放って、そのまま仰向けに寝転ぶ。

天井の染みを数えるのが、最近の趣味だ。今日は七つ確認できた。昨日より一つ増えた気がする。雨のせいかもしれない。

スマートフォンが鳴る。グループLINEに、さっき別れた連中の笑える画像が流れてくる。俺もスタンプを一つ返す。文字を打つ気力がないときは、スタンプで乗り切れる。便利な時代だと思う。

お前ら、俺のこと好きだろ。

俺も、嫌いじゃない。

だから、これでいいんだよ。

胸に手を当てると、まだ鈍く疼いている。心臓というのは案外しぶとい器官で、こんな状態でも律儀に動き続けている。感心するべきなのか、恨むべきなのか、よくわからない。

病院に行けばいい、と思う人間は多いだろう。

でも俺には保険証がない。保険証を作るには親が要る。親がいないことを証明すると、施設か里親か、とにかく「次」に送られる。「次」に送られたら、今の学校にはいられなくなる。

今の学校だけが、俺の世界のすべてだった。

だから俺は毎日、元気に笑う。笑い続ける。笑い声が大きければ大きいほど、誰も俺の胸の音を聞かない。


第二幕 綻びと接近

梅雨の入口、六月の終わり。

放課後の図書室は空いていた。俺が選んだのは理由があってのことで、人が少ないのと、冷房が壊れていてうるさくないのと、なにより外が見える窓際の席が好きだからだ。嘘をつくのが疲れた日は、ここで少しだけ素の顔をする。

だから、人が来るとは思っていなかった。

「……ここ、座っていい?」

振り向くと、桐島美月が立っていた。

クラスメイトだ。よく喋ったことはない。静かな人だという印象しかなかった。

「どうぞ」と俺は言った。普通の声で。演じていない声は、自分でも少し低く聞こえる。

彼女は向かいに座って、本を開いた。それだけだった。

会話もない。視線も合わない。ただ雨音と、紙をめくる音だけがある。

奇妙なことに、楽だった。

誰かと黙っていられるのは、初めての経験に近かった。俺はいつも何か喋らなければ不安になる。沈黙は俺にとって、「仮面がずれる隙間」だから。でも彼女の沈黙には、なぜか責める色がなかった。

——あ。

タイミングが悪い、と思った。

痛みが来た。いつもの、ガラスの破片。今日は少し鋭い。息を止めて、唇を噛んで、窓の外の雨粒を数えることに集中する。一、二、三——

「顔色、悪いよ」

美月が言った。

顔を向けると、彼女は本から目を上げて、俺を真っ直ぐに見ていた。心配しているような、でも踏み込まないような、奇妙な距離の目だった。

「そう見える? 俺ってそんなキャラだっけ」

笑おうとした。できなかった。

「無理して笑わなくていい」

彼女はそれだけ言って、また本に目を戻した。

俺は何も言えなかった。

無理して笑わなくていい、と言われたのは、生まれて初めてだった。


それから、図書室で会うことが増えた。

約束をしたわけじゃない。でも、なぜか彼女はそこにいた。

美月は多くを聞かなかった。なぜ顔色が悪いのかも、なぜひとりで帰るのかも。俺も話さなかった。ただ、隣に座って、それぞれに時間を過ごした。

ある日、痛みが激しくて、本を持つ手が震えた。気づかれないように膝の上に隠したのに、彼女はテーブルの端に、そっとポカリスエットのペットボトルを置いた。目は合わせなかった。説明もしなかった。

これが、恋というものなら——

俺には、贅沢すぎる話だ。

そう思った。それでも胸が温かかった。痛みとは別の場所で、確かに。


第三幕 決別と光

七月になると、俺の体はごまかしが利かなくなってきた。

朝、起き上がるのに時間がかかる。学校では笑う。帰ると動けない。その繰り返しが、少しずつ、でも確実に崩れていく。鏡を見ると、知らない顔がいる。

ある金曜日の放課後、俺は図書室のいつもの席に座って、決めていた。

最後に、ちゃんとさよならを言おう。

美月が来た。今日も何も聞かなかった。ただ、俺の顔を見て、少しだけ眉を寄せた。

「ねえ」と俺は言った。

「うん」

「俺、来週から来られないかもしれない」

本当のことだった。嘘ではない。理由は言わなかった。

美月はしばらく黙っていた。雨の音がした。この部屋は雨音がよく聞こえる。

「そっか」と彼女は言った。

怒らなかった。なぜと聞かなかった。泣かなかった。

「ハルくん」

俺の名前を、彼女は静かに呼んだ。

苗字じゃなくて、名前で。他のクラスメイトみたいに「春樹」でもなく、先生みたいに「柏木」でもなく、ただ「ハル」と。

——ああ。

それだけでよかった。

本当に、それだけで。

「覚えてる? 最初に図書室で会った日」と俺は言った。陽気に、いつもの俺のトーンで。

「覚えてる」

「あのとき、お前が来るから俺の一人の時間が潰れたんだよな」

「そうだったっけ」

「まあ、悪くなかったけど」

美月は笑った。声に出さない、小さな笑い方だった。

俺も笑った。今度は、それほど嘘じゃなかった。


エピローグ

七月の教室は、少しだけ静かになった。

後ろの席が空いても、最初は誰も気づかなかった。ムードメーカーというのは、いなくなってはじめて、どれだけ空気を満たしていたかがわかる。

美月はいつも通り登校して、いつも通り図書室に行く。

向かいの席には、誰も座らない。

窓の外に雨が降っている。

彼女はそこに一つのペットボトルを置いて、本を開く。目は文字を追っているが、何も読めていない。それでも、ページをめくる。

窓の雨粒が流れる速さを、彼女はなんとなく数えている。

一、二、三——

どこかで、教わった数え方で。


どうでしたか?感動していただけたら幸いです

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