一回裏 幸運
息を切らしながら坂道を登っていると、突如山の中に、白い、巨大な壁が姿を現した。だが案内人によると、ここはまだ校門、入り口に過ぎないのだと言う。校舎にたどり着くには、ここからさらに数百m登山を続けなければならない。上野千紘は内心後悔し始めていた。あ〜あ、引き受けなきゃ良かった。簡単な仕事だと思ったのに!
目の前に現れた巨大な壁……まるでダムの跡地だ……見上げるだけで首が痛くなって来る。薄汚れた壁の一角に
『私立緑茂高等学校』
と看板が出ていた。なるほど人里離れた山奥だが、確かにここが目的の学校には違いない。世間を賑わしている名門校にしては、随分と地味なところにあるものだ。千紘の第一印象はそんな感じだった。
壁の中央にはこれまた巨大な鉄の門が嵌め込まれていた。門だけで軽く2階建の家くらいはありそうな高さである。きっとゾウが激突しても、ビクともしないに違いない。どうやって中に入るのか、千紘が戸惑っていると、前を歩いていた案内人・緑茂高校野球部の野坊屋人監督が壁に埋め込まれていたインターホンを押した。
たちまち門が轟音を立て、ゆっくりと内側に開いていく。近くの木々に留まっていた鳥たちが、驚いて飛び立った。
まるで要塞だわ。
千紘は舌を巻いた。刑務所でもこんな厳重警戒ではあるまい。厳かな鉄の校門をくぐると、そこから天まで続くかの如く、長い長い石段が待っていた。
「生徒たちは毎日この山を登って登校しているんですか?」
千紘は目を丸くした。
「いえいえ、そんなバカな。寮がありますから」
野坊監督が千紘の問いを笑い飛ばした。階段を登りながら、千紘はチラと彼を仰ぎ見た。年齢は30代後半だろうか、高校野球の監督にしては若い方に思える。ところどころ白髪の混じった短髪、ユニフォームの上からでも分かる隆々な筋肉、日に焼けた浅黒い肌と、典型的なスポーツマンだ。季節はすでに6月に入り、そろそろ地方予選も始まろうかという時期だが、その表情は柔和で、余裕すら感じさせる。
それもそのはず、緑茂高校硬式野球部はもはや甲子園『常連』と呼べるほどの強豪校であり、毎年優勝候補に名を連ねているのだった。高校野球には疎い千紘ですらも、その名前くらいは、ニュースで何度か耳にしたことがあった。
「寮どころか、敷地内にコンビニも床屋もありますよ。山の中に、一つの町が出来ているようなもんです」
野坊が胸を張った。大学ならまだしも、高校でその規模は確かに珍しい。それだけ巨大な運営を実現しているのは、この学校の背後に、とある宗教団体が絡んでいるから……と言われている。
「ああ、緑茂教ですか」
千紘がそれとなく尋ねると、野坊は隠し立てすることなく、あっけらかんと答えた。
「そうですよ。ほとんどの生徒は親が信徒ですし、それ以外の生徒も、ありがたいことに3年間の間に入信してもらってますね」
「じゃあ監督も?」
「もちろん。生まれつきの信徒です」
野坊が白い歯を見せた。
「僕もこの街で生まれ、この街で育ちました。緑茂は、街の名前の由来でもありますから。高校だけじゃない、街全体のシンボルですからね。実際住人のほとんどは、緑茂教なんじゃないですか?」
千紘は頷いた。住人のほとんどが同じ宗教に入っている街……宗教都市は世界各地に点在し、メッカやエルサレムなど、聖地になっている場所も多い。もちろん日本にもあるし、ここ緑茂町もそうである。
「上野さん……でしたっけ?」
にこやかな笑顔のまま、野坊が声のトーンを下げた。
「今日は緑茂教の取材に?」
「あ……いえ」
千紘は慌てて首を振った。不躾な質問だった、と反省した。宗教と野球と政治。日本ではあまり話題にするべきではない、と言われているものである。とはいえ彼女が聴きに来たのは、その『話題にすべきではない』一つではあったのだが。
「今日はその……野球部について」
「貴女は運が良い」
野坊が満足したように頷いた。
「たとえ全国紙だろうと、基本、取材はお断りしてるんですよ。予選前だし、練習に集中したいですからね」
「はい」
「ですが、貴女のお祖父様が元高校球児で、かつ教祖様の同級生であった……とか」
「はい」
千紘は頷いた。全く世の中には妙縁奇縁があったものである。そうでなければ、ペーペーの新人記者である彼女が、こんな辺鄙な……もとい、厳重な警備の施された高校に、足を踏み入れる術すらなかっただろう。全国レベルの強豪野球部の、誰も見たことのない鉄のカーテンの向こう側……これだけでも食い付く読者は多いに違いない。野球の「や」の字すら知らなかった彼女だったが、適当に写真を撮って、適当にAIに文章を生成させれば、それなりに人気記事が出来上がる……はずだった。
それがまさか、こんな登山を強いられるとは……。
「とは言っても、我々も生徒たちに何か特別な練習をさせているとか、そういう訳ではありません」
千紘の気持ちを知ってか知らずか、野坊が前方で朗らかに笑った。歩幅を合わせようという気は毛頭ないようだ。いつの間にか2人の距離は数段から数十段に開いていた。
「強いてあげるとすれば、『笑顔』と『感謝』ですね」
「はぁ。笑顔と感謝、ですか」
「ええ。この2つだけはいつでも忘れるな、と生徒たちには言い聞かせています。どんな窮地でも笑っていろ、と。それからまだ野球ができることへの感謝を忘れるな、ですね」
「なるほど」
なるほど、と言ってみたものの、観念的すぎてそれが具体的にどう野球に繋がるのか、千紘にはさっぱり分からなかった。小学生の学級目標じゃあるまいし。もちろん大切なことだし、歳を取るに連れて、ついつい忘れがちなものではある……あるいはそれも、緑茂教の教えなのだろうか?
それとも……あの事件が関係しているのか。千紘は考え込んだ。ネットで調べた、この緑茂高校で起きた例の事件。彼女がまだ産まれる前の事件だった。
数十年前、ここの生徒が自殺しているのである。それも、野球部の。原因は監督から部員への体罰だとも、生徒同士の過酷ないじめだとも言われた。教育委員会が調査を行ったが、真実は結局闇の中だった。昔の時代の話である。
当時、全国大会に出場が決定していた緑茂高だったが、この事件を受け辞退。当時の監督は辞任し、数ヶ月に渡って全国のワイドショーを賑わせた。それ以来、マスコミ嫌いになった学校側は取材を一切受け付けなくなったとも聞く。
「ええ。もちろん知っていますよ」
事件について何か知っているか。思い切ってそう問いかけると、野坊は少し遠い目をして答えた。
「当時は私、中学生でした。私も野球をやっていて、緑茂高は街の誇りでしたからね。全国大会に出場すると思っていたら、辞退になって、悲しい思いをしたのを覚えています。ごめんなさい、当時は私もまだ子供で、ただただ野球に夢中で、事件を重く受け止める度量がなかったのです……今にして思います。もう二度と、あんな痛ましい事件を起こしてはならない」
こちらを振り返った野坊は、悲痛な顔をしていた。冷えた風がざわざわと木々を揺らす。千紘は木陰から溢れる陽光に目を細めた。
「そりゃ私も、子供の頃は数えられないほど殴られました。でも今はもう、時代が違う。暴力はいけない。コンプライアンスが大事だし、何かあったら動画で撮られる時代でしょう? だから生徒たちには、『笑顔』と『感謝』、そう言い続けているんです。まだ野球ができることへの感謝を忘れるな、と」
「なるほど……」
額を流れる汗を拭きながら、千紘はふと、登って来た山道を振り返った。ここまで登ってきて分かったのだが、どうやら壁はこの山をぐるりと囲んでいるらしい。まさに要塞だ。何となく千紘は、織田信長の幻の城、安土城を思い浮かべていた。
「校内は取材を一切受け付けませんし、面会はおろか撮影すら不可能です。生徒たちは安心して野球に集中できると言うわけですよ」
野坊が誇らしげに説明した。千紘は頷きながらも、胸中では別のことを考えていた。
高い壁に囲まれた巨大な閉鎖空間。
それはつまり、内部で何が起きたとしても、誰にも知られることはない……ということじゃないかしら?




