一回表 感謝
山の夜は早い。
暗くなるのが早い。街灯もないから、本当に墨を溢したように、何も見えなくなる。そこでは周囲の風の音や、野生生物の息遣いが、やたらと耳に纏わりついてくる。見えない。だけど確かにそこにいる。猪か? あるい熊かもしれない。どこに? もしかしたら隣に、それとも後ろに……暗闇の中、そんな妄想だけが際限なく広がっていく。
「ありがとうございますッ」
実際に聞こえてきたのは、先輩の、名前も知らない二年生の感謝の叫びだった。それと、何かが叩かれる鈍い音。
「ありがとうございます!」
常闇の最中、何かが叩かれるたびに、二年生の感謝の叫びが聞こえた。見えない。だけど確かにそこにいる。
だんだんと近づいて来ている……宮若颯汰は、正座をしたままごくりと生唾を飲み込んだ。ユニフォームを着ているとはいえ、山の斜面は岩肌がゴツゴツとして、膝に尖った石が食い込んできて非常に痛かった。さらには前日の雨で山道に小さな川が出来上がっていて、ふくらはぎまで浸かっていた。かといって「痛いです」「冷たいです」なんて言えるわけがない。
山の夜は寒い。
奥歯が自然とカタカタと鳴った。季節はもう夏に差し掛かろうとしているのに、空気はひんやりと張り詰めていて、鳥肌が立つほど寒かった。
「ありがとうございます、ありがとうございますッ」
一年生65名
二年生84名。
三年生96名。
総勢245名。甲子園の常連校である緑茂学園の野球部には、毎年数多くの入部希望者が集まる。宮若颯汰もその1人だった。憧れの強豪校で、仲間たちと切磋琢磨して全国優勝を目指す……その夢は、ついこないだ幕を開けたばかりだった。
「ありがとうございます!」
ついに声が至近距離で轟いて、颯汰は観念して顔を上げた。木々の隙間から、ほんのりと青く光る空と、砂粒のような星々が顔を覗かせていた。それも一瞬だった。すぐさま視界は黒に遮られ、脳が揺らされるような衝撃が颯汰を襲った。
頭蓋骨が硬い物に当たって、ミシミシ音を立てた。鼻の奥がツンと痛む。視界はぐわんぐわんと揺らぎ、颯汰は思わず吐きそうになった。
「あ……」
言わなきゃ。颯汰は慌てて口を開けた。言わなきゃ終わらない。恐怖で、息を吸うことすら忘れていたが、慌てて冷たい空気を飲み込んで、感謝の言葉を述べた。
「ありがとうござま……ッ!」
言い終わるか終わらないかのうちに、素早くもう一発が飛んできていた。痛い。熱い。口の中にどろりと血が溢れ、前歯が折れたのが分かった。
「ありがとうございます……!」
良かった。
ようやく感謝の言葉を言い終わる頃には、三発目が顎に命中していたが、彼は心から感謝した。良かった。とある先輩は、先日右の眼球が破裂して失明した。『感謝』が足りなかったのだ。準レギュラーだったが、背番号をもらうことなく、ひっそりと退部した。良かった、自分はまだ野球が続けられて、本当に良かった……。
「ありがとうございます!」
「ありがとうございますッ」
「ありがとうございます!」
それからしばらく、夜の帳が下りた山に、『感謝』の言葉が谺した。事件はその数時間後に起きた。颯汰と同じ一年生、新入部員の吉常が、突然校舎の4階から飛び降りて自殺したのだ。




