【コミカライズ】伯爵令嬢リリス・ラトリスは魔女である。
伯爵令嬢リリス・ラトリスは魔女である。
しかし、それを他人に知られてはいけない。
この国の貴族社会で魔女は、平民にも劣る穢らわしい下賤の者と認識されている。
そのため由緒正しいラトリス伯爵家の令嬢リリスが魔女の血を引いていることは、家の恥のように扱われてきた。
生粋の貴族である父は、魔女の娘だった母との大恋愛を経て結婚したこともあり、母のこともリリスのことも大切にしてくれているが、二人の中に流れる魔女の血の話題にだけは敏感だった。
リリスの母は元々魔女の力が弱く、今では魔女として生きる道を捨て、どこからどう見ても立派な伯爵夫人として社交界でその務めを果たしている。だが、リリスはそうではない。
祖母が魔女であるリリスは、生まれてすぐに魔女の力を発現させて以来、伯爵令嬢としての顔と魔女見習いとしての顔を使い分けてきた。
魔女の証である赤髪を黒く染め、伯爵令嬢として社交界で話題になるほどの気品と教養を身に付ける一方、祖母の元を訪れて魔女の修行に励んできたリリス。
しかし、それもそろそろ潮時だった。
「お前の婚約が決まった。魔女の真似事はやめなさい」
リリスはその日、父から唐突にそう告げられたのだ。
魔女の修行はリリスにとって、掛け替えのない大切な時間だった。リリスは祖母のことが好きだったし、魔女の仕事にも憧れを持っていた。いつかは魔女として一人立ちしたいとさえ夢見るほど、リリスは魔女に夢中だった。
そのことをよく思っていなかった父は、リリスに魔女の道を諦めさせようと躍起になっていたのだ。
「あなた……」
リリスの母が、不安げに夫を止めようとする。しかし、伯爵は首を横に振ってみせた。
「君の顔を立てて魔女との接触を許してきたが、私はずっと不安だった。いつかリリスが、道を踏み外し悪い方向へ進むのではないかと」
魔女になることが悪であるかのように主張する父へと、リリスは口を引き結んで諦めたような目を向ける。
「あなた。リリスには魔女の素質があるわ。私はあなたと生きるために魔女の道を捨てたけれど、素質がある以上、リリスにも魔女として生きる道を選ぶ権利があるわ」
娘の顔を見て不憫に思った母が掛け合うが、父は一切聞き入れなかった。
「いいや。リリスはまだ子供だ。何が正しいか、大人である我々が決めてあげなければならない。君のように魔女を捨てる道を選ぶならいいが、リリスは魔女に惹かれている。それはダメだ。これ以上リリスが悪の道に進まぬよう、父である私がなんとしても守ってあげなければ」
「……」
父を見つめる母の目もまた、とても悲しげだった。
「だから侯爵家の令息との縁談までまとめたんだ。君には悪いが、リリスは今後一切魔女に近付かせない。魔女に会うことも、魔女の術を使うことも禁止する。リリスもいつか私に感謝するはずだ」
黙り込む妻と娘を交互に見た後、伯爵は娘へと優しげな眼差しを向けた。
「リリス、それでいいね」
「…………」
「お前の母を娶る時、魔女との繋がりを隠すのにどれほど苦労したことか。私は父として、愛する娘が苦労するのを見たくはないんだ。分かっておくれ」
父のその瞳は、自分の決定が正しいと微塵も疑っていない確信に満ちていた。そこには確かに愛があるが、リリスの気持ちを汲んでくれる余地などない。抵抗するだけ無駄なのだと悟ったリリスは、真っ直ぐに父を見上げる。
「……お父様のおっしゃることはよく分かりました。ですけれど、私にもおばあ様とお別れする時間が必要です」
「リリス……」
「家長であるお父様のお言葉に逆らうつもりはありません。しかし、私にとっておばあ様は大切な家族なのです。このまま何も言わずに二度と会うなと言われても、納得できません」
娘の真っ直ぐな瞳に狼狽えた父は、少しだけ考え込むとやがて仕方なく頷いた。
「それは……そうだな。確かに、無駄に未練を残しては遺恨になりかねないな。分かった。次の夜会までは、今まで通り魔女のところに出入りしてもいい。しかし、夜会の後は一切の接触を禁じる。それならいいだろう?」
「……はい、ありがとうございます。お父様」
リリスは心配そうな母の前で、父に頭を下げた。
王都の賑やかな街並みを抜けた先、ひっそりとした路地裏を進んで見えてくる古びた扉。その裏口から祖母の家兼魔女の店に入ったリリスは、大鍋を掻き混ぜている人影に向けて声をかけた。
「こんにちは、ギルさん」
リリスの声に振り向いた人影は、大鍋から発せられる妖しい光を浴びながら振り向くと、穏やかに微笑む。
「こんにちは、リリスさん」
リリスが挨拶を交わしたのは、祖母の弟子であるギル。光に透ける銀髪と紫色の瞳が印象的な、整った顔立ちの美青年だ。
「おばあ様はいらっしゃるかしら?」
ギルの背後を見遣りながら問い掛けたリリスだったが、そこに人の気配はない。ギルは困ったように首を横に振る。
「いいえ、それが……お師匠様は暫く留守にされるそうです」
「え?」
「こちらをリリスさんに渡すようにと預かりました」
ギルから差し出された羊皮紙の切れ端には、祖母の細長い字でメッセージが書かれていた。
【旅に出るからその間の店番をお願いね】
「店番って……」
「僕は男ですから、〝魔女〟であるお師匠様の代わりはできません。今日の店主はリリスさんですよ。立派な魔女として店に立って下さい」
「私が……魔女として店に?」
憧れの魔女。リリスは高鳴る鼓動を感じながらグッと拳を握り締めた。そして祖母に感謝する。
これはきっと、祖母なりの慈悲なのだ。魔女である祖母には何もかもお見通しだったに違いない。魔女としての道を奪われてしまうリリスに、少しの間だけでも魔女として過ごす時間を与えようとしてくれた。
「わ、私にできるでしょうか?」
嬉しさと期待と不安の入り混じったリリスが見上げると、ギルはとても温かい笑みを浮かべた。
「リリスさんなら大丈夫です。ずっとお師匠様の姿を見てきたじゃないですか。きっと立派に魔女の務めを果たせますよ」
これまで弟子仲間として切磋琢磨してきたギルからそう励まされて、リリスは思わず泣きそうになった。
「ありがとうございます。あの、ギルさん。もし私が上手くできなかったら、助けて下さいますか?」
至近距離でリリスの真ん丸な瞳に見上げられて、ギルは一瞬だけ固まり、すぐに優しく微笑む。
「もちろんです。お師匠様が言うには、僕達は二人で一人前ですからね。僕の足りない部分はリリスさんが、リリスさんの足りない部分は僕が、それぞれ補い合えばいいのです。一緒に頑張りましょう」
壁に掛けてあったローブをリリスに差し出しながら目を細めるギル。
いつだって自分を励ましてくれる優しい彼の言葉に力を貰い、リリスはドキドキしながらその真っ黒な魔女のローブを羽織った。
祖母がいつも着ているローブは重く冷たく暖かく、秋を煮詰めたような甘く香ばしく爽やかな、不思議な匂いがする。
ローブの魔法なのか、黒色に染めていたリリスの髪が、ローブを羽織った途端に元の燃えるような赤毛に戻る。
「とてもお似合いですよ、魔女のリリスさん」
仕上げに大きなフードを被ったリリスと目が合ったギルがそう言えば、リリスは頬を薔薇色に染めて嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます、魔女の相棒のギルさん」
そうしてリリスは、仮面を着けたギルと共に、初めて魔女として魔女の店に立った。
しかし魔女の店は客まで気まぐれ。閉店の時間になってもリリスの前に客が来ることはなかった。
「残念ですね。折角リリスさんが店に立っていたのに」
「……いいんです。あのローブを羽織れただけで、私は満足ですから」
片付けながら気遣ってくれるギルに、リリスは首を振った。気丈にしつつも物悲しげな彼女の横顔を見ていたギルは、ふと思い立って窓の外を見る。
「リリスさん。久しぶりに箒にでも乗りませんか?」
「え?」
「ほら、今日は新月で、空を飛んでもバレません。お師匠様がいない間に、こっそり遊びに行きましょう」
「ふふふ、ギルさんったら。小さい頃に二人で怒られたことを忘れたんですか?」
クスクスと笑うリリスの脳裏には、幼い頃のキラキラした思い出が蘇っていた。
祖母の言い付けを破り、ギルと二人で月が暮れるまで飛び回ったあの頃が懐かしい。
普段は真面目なギルが珍しく浮かれていて、それをそばで見ているのが本当に楽しかった。
「……折角のお誘いですけれど、今日は遠慮しておきます。決心が揺らいでしまいそうなので」
またあんなに楽しい思いをしてしまったら。リリスは今度こそ魔女の道を諦められなくなってしまう。だからこそ、気落ちしている自分を気遣ってくれたであろうギルの申し出を断った。
「……何があったのか、聞いてもいいですか?」
察しのいいギルは、温かいハーブティーをリリスの前に差し出しながら、リリスの隣に座る。
「実は、お父様から……もう魔女の真似事はやめろと言われてしまって」
カップを両手で待ち、その温もりに安堵して、リリスはギルに父との約束を話した。そして、自分の婚約者となった侯爵家の令息のことも。
「ゾウンデック侯爵家の令息と婚約を?」
リリスの話を聞いたギルは、鋭い目で宙を睨んでいた。ギルがリリスの婚約者に不快感を露わにしているのには理由がある。
というのも、リリスの父が縁談をまとめてきた婚約相手、ザカリー・ゾウンデックは、この店の常連だった。
社交界での評判は悪くない男だが、この店に来る時の彼は尊大な態度で魔女を見下し、時に暴言まで吐いていくような男だ。
更にはこの店に通う理由も、ちょっとした〝火遊び〟のための薬や、変装のための染髪薬を購入するのが主であり、リリスやギルから見ればとても素行の悪い男だった。
そんな男との縁談が嬉しいわけもなく、リリスは余計に心が落ち込んだ。
沈んでいくリリスの横顔を見てギルが口を開こうとしたところで、店の扉がドンドンと勢いよくノックされた。
「おい! 客が来たんだから早く開けろ!」
閉店後の店内に響く騒々しい怒号に、リリスとギルは同時に眉を顰めた。
「知らないふりをしますか?」
「いいえ。おばあ様なら、どんな客でもきっと迎え入れていたはずです。私はおばあ様の代理ですから。開けてあげましょう」
リリスの祖母は魔女として、相手がどんな者であっても対価を貰えば受け入れる。そして依頼人の秘密は墓場まで持っていくのが魔女の美学であると心得ている人だ。
他でもない祖母の代理として店に立つのなら、祖母の信念に従うべきだ。
仕方なく立ち上がったリリスがローブを羽織り、フードで顔を隠して扉を開けると、不機嫌そうに顔を出したのは話題の人物、ザカリー・ゾウンデックだった。
「客を待たせるとは、この店はどうなっているんだ」
横柄な態度で入ってきたザカリーの隣には、汚らわしそうに店内を見回す令嬢がピッタリと張り付いていた。
祖母の真似をして無言で客を迎え入れたリリスに対し、ザカリーは舌打ちをする。
「下賤な魔女め。まぁ、いい。いつものやつをくれ」
ザカリーがいつも買っていくものといえば、火遊び用の睡眠薬や媚薬、目立つ金髪を染める薬と、それを落とすための薬。ザカリーが羽目を外したい時の変装用に使われる常備薬のことだとすぐに気付いたリリスは、早速ギルと共に準備を始めた。
「ねぇ、婚約するって本当なの?」
作業を待っている間、親しげな令嬢からの問い掛けに、ザカリーは面倒くさそうな顔をしてベラベラと話し出す。
「ああ、ラトリス伯爵家の令嬢とな。けど、俺は騙されたんだ。調べたところ、あの女にはとんでもない欠陥がある。あの女の母親は隣国の貴族だと噂されていたが、どうやら違ったらしい。それどころか出自についての記録が全く見当たらなかった。きっとあの夫人は平民の出に違いない」
「あら、あの伯爵夫人が? 気品があるとか言われて散々持て囃されていたけれど、母子揃って卑しい血なのね」
「平民の血が混じった女と結婚しなきゃいけないなんて。知っていたら、婚約なんてしなかったさ」
「だったら今からでも婚約を破棄したら?」
「でもラトリス伯爵家の財産は惜しい。こっちから婚約破棄なんてしたら勿体ないだろう。あんな女は結婚後、伯爵家を乗っ取ってから離縁してやる」
聞こえないフリをするリリスの横で、何かが動いた。見ると、ギルがカウンターの中から出ようとしている。何をする気か分かったリリスは、慌ててギルの袖を摘んで引き留めた。
「ダメです」
小声で囁くリリス。
「……っ」
小さく息を吐いて引き下がったギルは、カウンターの下でギュッと拳を握り締め、大人しく作業を再開した。
「まったく、この店はいつ来ても陰気くさいな」
最後まで嫌味を吐き捨てるザカリーと令嬢が薬を持って帰ると、店内には澱んだ空気が漂っていた。
「リリスさん。本当に魔女として生きることを諦めてまで、あの男と結婚するつもりなのですか?」
その空気を払うかのように立ち上がったギルが、窓を開けながらリリスを振り返る。
「私は魔女です。魔女として、魔女の仕事で知った依頼人の秘密を無闇に話すわけにはいきません。それが魔女の美徳であり、魔女の秘術の本質です。彼の本性を伝えられない以上、父は私を彼に嫁がせるでしょう」
片付けをしながらリリスは諦めたように淡々と答えた。
「……それでいいのですか?」
珍しく怒ったような口調で問い掛けるギルに、リリスはただ虚しく微笑む。
「仕方がないんです。父の意に従うこと。それが貴族の令嬢として生まれた私の義務ですもの。私は魔女ですが、同時にラトリス伯爵家の令嬢でもあるんです」
「もし、僕が……」
真剣な顔で何かを言いかけたギルを、リリスは首を横に振って止めさせた。
「ギルさん、いつか言ってましたよね。魔女にはなれなくても、自由に生きていきたいって。どうかあなたは私の分まで自由に生きて下さいね」
「……」
疲れたように微笑むリリスの顔を見て、ギルはあることを決意したのだった。
その日リリスは、婚約者となったザカリーと楽しくもないお茶を共にしていた。
「リリス、君は本当に気品に溢れていて美しいな」
魔女の店に顔を出す時とは違い、礼儀正しく爽やかな笑顔。それもさることながら、裏であんな陰口を叩いていたのに、何の躊躇いもなくそう告げられたことがリリスをこれでもかと不快にさせる。
「……」
「君と結婚できるなんて、俺はなんて幸せ者なんだ」
まるで値踏みするかのような、絡み付くザカリーの視線が気持ち悪くて仕方ない。
「でしたら……私の秘密を知っても私を受け入れて下さいますか?」
だからリリスは賭けをすることにした。これでダメなら諦めがつく。意味深なリリスの言葉に、ザカリーはフッと鼻を鳴らした。
「君の母君が平民の出なのは知っているさ。それでも構わない。血が卑しいことを差し引いたって、君は充分美しいからね」
「違います」
小馬鹿にするような視線を真っ向から受け止めて、リリスは背筋を伸ばした。
「私の母は、平民の出ではありません。それよりももっと下のものです」
「なに?」
「私の母の、そのまた母は……魔女なのです」
「は……?」
間抜けな顔で口を開けるザカリーへと、リリスは魔女の証である赤髪まで晒け出し、自分の出自にまつわる全てを暴露した。
「ふざけるな! 魔女だと!? 穢らわしい女め、二度と俺に近寄るな!」
当然、激昂したザカリーはその場を飛び出していった。
あわよくば、このまま婚約を解消してくれないだろうかと思っていたリリスだったが。余程ラトリス家の財産が欲しいのか、ゾウンデック侯爵家から婚約解消に関わる連絡がくることはなく。その後もリリスはザカリーの婚約者として、残り少ない魔女の時間を惜しむしかなかった。
「ねぇ、私に惚れ薬を売って頂戴!」
「惚れ薬?」
ある日、魔女の店を訪れた客は、入ってくるなり凄い剣幕でリリスに詰め寄っていた。よく見ると、いつか来たことのある令嬢だ。
「そうよ。侯爵家の令息が婚約者を捨てて私に惚れ込むくらい、強力なやつをね」
「侯爵家の令息……」
「この前一緒に来た彼のことよ。邪魔くさいことに彼には陰気な婚約者がいるの。彼は婚約者より私の方がいいって言うくせに、婚約を破棄する気はないみたい。まあ、向こうの財産が目当てらしいけど。だから、そんな女を早く見限って私のものになるよう仕向けたいのよ」
興奮気味に話す令嬢を前に、リリスがどうしたものかと考え込んでいると、視界の端にピンク色の小瓶が置かれた。
「これならどうですか?」
助手を務めるギルが持って来たのは、間違いなく惚れ薬の一種だった。リリスも調合を手伝ったその薬は、確かにこの条件にぴったりだろう。
リリスはそっと頷いて、ギルの手からその小瓶を受け取った。
「この薬は相手に意中の者がいなければ、強い執着を自分に引き寄せることができます。しかし、相手に心から愛する者がいた場合、効果は発揮されません。制約がある分、効果はより凄まじくなる薬です」
「あら。打ってつけじゃない。どうせ彼、婚約者のことなんか好きじゃないもの」
リリスの説明に気を良くした令嬢は、薬の使用方法についてあれこれ聞くと、おざなりに金貨を投げ捨てた。
「次の夜会までに絶対飲ませてやるんだから。代金はこれで足りるでしょう?」
小瓶を掴んで去って行く令嬢。その顔は満足げだった。
「よかったんですか?」
白々しく聞くギルに、リリスはフードを脱いでクスクスと笑う。
「なんのことでしょう。私は魔女です。魔女として、依頼人が必要とする薬を渡しただけですわ。それに、あれを持ってきてくれたのはギルさんじゃないですか」
二人はそれから夜会までの間を、いつもと変わらず過ごした。最後の日でさえ特別な言葉を交わすこともなく、リリスは祖母に会わないまま夜会の日を迎えてしまった。
両親と夜会の場に到着したリリスは、ふと聞こえてきた話し声に顔を上げた。
「今日は噂の第四王子殿下がいらっしゃるそうですわよ」
「あら。優秀でずっと海外に留学されていた、あの第四王子殿下が?」
「聞いたお話ですと、美形揃いの王族の中でも飛び抜けてお美しいのだとか」
「ああ、ご覧になって! ほら、あちらにいらっしゃいますわ」
色めき立つ令嬢達の声を聞いたリリスが視線を動かすと、人だかりの向こうに輝くような銀髪が見える。
「ほう。珍しいな、第四王子のギルバート殿下が夜会に出られるとは。優秀だが病弱で、療養も兼ねて留学されていたと聞いたが、お戻りだったのか」
興味深そうな父が呟く中、こちらを向いた第四王子と目が合ったリリス。
光に透けるような銀髪に、紫色の瞳が印象的な美青年。噂に違わぬ美貌を持つ第四王子は、リリスに向けて困ったように微笑んでいる。そこにいたのは他でもない、リリスがよく知る人物、魔女の弟子仲間のギルだった。
眉を下げる彼を見たリリスもまた、苦笑を返す。
「国王陛下は今年中に王太子を決定されるそうだ。この時期にお戻りになったということは、第四王子殿下も王位継承戦に参加されるという意思表示だろう」
「まあ、そうでしたの。お優しそうな方ですのに、大胆なところがおありなのですね」
両親の会話をぼんやりと聞きながら、リリスは遠くにいる第四王子から目を離した。
「……自由に生きてと言ったのに……」
「ん? リリス、何か言ったかい?」
リリスの小さな呟きに反応した父が振り向くと、リリスは小さく首を横に振った。
「いいえ、何も。ただ、私の婚約者が来ないなと思いまして」
「確かに。ザカリー殿はいったい何をしているのか。迎えにも来ないとは……」
ブツブツと文句を言う父と、心配そうな母と共に、リリスは煌びやかな社交の場へと踏み出した。
あちこちで声を掛けられる両親から離れ、パートナーが来ないリリスは同世代の令嬢達と交流することもなく、煩わしい人混みから逃れるように人気のない場所を探していた。
リリスが一人、壁際に立っていると。魔法で気配を消したギルバートがグラスを片手にその横に立つ。
「……何故、王宮にお戻りになったのですか?」
少しの沈黙が続いたあと、顔を見合わせることはなく。距離を空けて並んだ状態で、リリスはギルバートにそっと問い掛けた。
「やはり、僕の正体を知っていたのですね」
扇子で口元を隠したリリスが頷いたのを見て、ギルバートは苦笑した。
「だからずっと、僕に対して頑なに敬語だったんですか?」
「ギルさんも……殿下も同じです。私が何度お願いしても、敬語だったではないですか」
「当然です。あなたは敬愛するお師匠様の孫娘ですから」
「それなら私も、王族に対して敬意を払うのは当然です」
一線を引かれるような寂しさを覚えたギルバートは、隣に立つリリスの横顔を見た。
「僕達はいつも、同じ方向を見てますね」
「え?」
思いがけない言葉に、リリスがギルバートを見返す。
「先ほどの答えですが。……あなたがあの店から去ってしまうのならば、僕も自分の居場所に戻らなければと思いまして。自由を捨てて戻ってきました」
「どうして……?」
「実はずっと、父上から戻るよう言われていたんです。修行はもう充分だろうと。それを無理に引き延ばしていました。でも、あなたがいないのであれば、もう引き延ばす理由がありません。それに、僕にはどうしても守りたいものがあるので、ここに戻ってくる必要があったのです」
ギルバートの紫色の目が、意味ありげな光を宿してリリスの目と合わさり、胸の奥からドキドキと鼓動が聞こえた。
「……それは」
「どういうことだ!」
リリスがギルバートの言葉の真意を聞こうとする前に、夜会の会場に怒鳴り声が上がった。
目を向けると、そこにいたのはリリスの父と婚約者だった。
婚約者であるザカリーの横には、いつかの令嬢が勝ち誇った笑みでベッタリと張り付いている。
「君はリリスの婚約者だろう、どうして違う令嬢を連れている?」
怒りに声を震わせた伯爵が問えば、ザカリーは悪びれることなく答えた。
「俺が愛しているのはここにいるカミラだ。あんたの娘との婚約なんて知らない!」
どうやら見事に惚れ薬を盛られたらしいザカリーは、周囲の視線など気にせず浮気相手の令嬢を抱き寄せてそう主張した。カミラという令嬢に夢中の彼は、既にラトリス伯爵家の財産を手に入れる計画さえ頭にないらしい。
「なんだと!? ゾウンデック侯爵家はラトリス伯爵家を侮辱するのか? 君も侯爵家も婚約に同意したではないか!」
「気が変わったんだ。あんな欠陥女は願い下げだ。いくら美しくたって、血が穢れた女を妻になんかできるか!」
言い争う二人は注目を浴びていた。リリスはギルバートの隣を離れ、二人の元に向かう。リリスが近づいてくるのを見たザカリーは、ニタリといやらしく笑っていた。
「俺がどうして婚約を解消したいか、ここで暴露すれば周囲も納得するだろう」
「何を……?」
困惑する伯爵など無視をして、ザカリーはリリスに向けて断罪するかのように指を差す。
「あの女は魔女だ! 穢らわしい血を引く魔女なんだ!」
その瞬間、広間は静まり返った。
同情の目が一転、粘つくような疑いの視線が一斉にリリスへ向けられる。
「見ろ! これが何よりの証拠だ!」
追い討ちをかけるように、ザカリーは手の中の瓶を振り翳してその中身をリリスに浴びせ掛けた。
悲鳴が上がり、誰もが眉を顰めてリリスのその姿を見ている。リリスの父が、顔を真っ青にして言葉を失い崩れ落ちていく。
ザカリーがリリスに浴びせたのは、彼がいつも使っている染髪薬を落とすための薬液だった。
それを頭から浴びたリリス。その髪を染めていた黒の染料が溶け落ちて、燃えるような魔女の赤毛が晒される。流れ落ちた黒の染料が染み入ったドレスはまるで、魔女のローブそのもののようだった。
「見ただろう! あの女は魔女の分際で貴族のフリをしていたんだ!」
この世の終わりのような顔をする父と、侮蔑の目を向ける貴族達。
「その通りですわ。私はこの通り、魔女です」
リリスは、痛いほどの視線を向けられながら堂々とそう宣言した。
途端に騒めく周囲の声。蔑みと非難の視線がリリスに向けられる。
その中でリリスは、自らが魔女であることを誇るように堂々と胸を張り続けていた。
「魔女ですって? 禄でもないとは聞いていたけれど、まさか魔女だったなんて! なんて卑しい女なのかしら。そんな女が伯爵令嬢を名乗って社交界に出ていたなんて、ラトリス伯爵家は社交界の裏切り者よ!」
ザカリーの隣に張り付いていたカミラが、更にリリスを貶めるような声を上げると、周囲からもリリスを罵倒する声が聞こえ始める。
リリスの父は真っ青のまま座り込み、母は耐えるように毅然と立っていた。
ラトリス伯爵家に向けられた非難はあっという間に燃え広がり、リリスに向けて食器が投げつけられる。
「魔女の何がいけないというんだ」
そんな中、飛んできたグラスを跳ね除けてリリスを庇う者がいた。
今宵の夜会で一際目立っていた、第四王子ギルバート。彼は濡れたリリスの髪にハンカチを押し当て丁寧に拭いていく。
思いもよらない人物の登場に、怒号を上げていた貴族達は反応に困ったのか動きを止めた。
「ギルバート」
その一瞬の静けさを裂くように、よく通る声が第四王子の名を呼ぶ。あちこちから息を呑む声が聞こえ、道を開ける貴族達の間から現れたのは、この国の国王だった。
「父上。私はもう、これ以上黙って見ていることができません。父上も同じではないのですか?」
冷静ながらも真剣に訴える息子を見て、国王は頭を抱える。
「お前が戻って来たのは、この為だったのか」
「私は最初から王位を継ぐ気はないと申し上げたはずです。ただ、いつまでも恩人の顔に泥を塗るような、この国の在り方を正したかったのです」
「私はそなたにこそ、王位を継いでほしかったのだが……ふむ。そうだな、そなたの言う通り。古い慣習にばかり囚われる必要などないのかもしれぬ」
国王は非難の的となっているリリスを見て、痛みを感じているかのような顔をした。
そして彼女を罵倒していた貴族達に向け、静かだがよく通る声で口を開く。
「そなた達が蔑む魔女は、我等王家の師であり、友であり、家族である」
貴族達は突然の国王の言葉の意味がわからず、互いに顔を見合わせていた。
「我等王族と魔女は、何百年にも渡り強固な絆で結ばれてきたのだ。王族の中には強い魔力を持って生まれる者がいる。そういった者は王位に近い反面、魔力が強すぎて制御できず、命の危機に晒されることも多い。そんな時、魔力の扱い方を教え導いてくれるのが魔女であり、彼女達は代々この秘密を守り抜いてくれた」
これまで平民以下の下賤の者とされてきた魔女と、王家の繋がり。国王自ら語られるその内容に、貴族達は驚きを隠せない。
「私もここにいる第四王子も、生まれながらに魔力過多症を患っていた。魔女がいなければ私も第四王子も今この世にはいなかっただろう。特にこの第四王子は歴代王族の中で最も魔力が強く、王位継承の最有力候補だったが、あまりの魔力量に体がついていけず幼い頃は病弱だった」
優秀だが病弱と言われていた第四王子。その噂の真相が明らかとなり、人々の目がギルバートに向けられる。
「それが魔女の元で修行し、今ではすっかり健康を取り戻して帰ってきた。私達が魔力に呑み込まれず生きているのは、全て魔女のお陰だ。故に我等王族は、常に魔女に敬意を払っている」
「し、しかし、魔女はずっと、穢らわしい者だと……」
どこからか上がった声に、ギルバートは睨みを効かせた。
「この中にも魔女の店を利用し、その秘術や秘薬の恩恵を授かった者が多くいるはずだ。にも拘らず、どうして魔女を蔑むのか理解できない。必要とする者に手を差し伸べ、依頼人の秘密を守り抜く彼女達の高潔さがどうして分からないのだ?」
ギルバートの言葉に黙り込み恥じ入る貴族は少なくなかった。それだけ多くの者が、これまで魔女に世話になってきたのだ。
「数百年もの間、魔女は王家の弱点ともなりかねない事実を秘匿し、献身的に仕え、守護してくれた。過度な報酬も受け取らず、自らが蔑まれる社会の中でも王家との繋がりを漏らすことは一度もなかった。その忠義は驚嘆に値する」
手を上げた国王は、居並ぶ貴族達に向けて堂々と宣言した。
「その恩人が、このような形で侮辱されているのをこれ以上看過することなどできぬ。今ここに宣言しよう。今後魔女を侮辱した者は、王族を侮辱したと見做し相応の罰を与えることとする」
異論を唱える者は、誰一人いなかった。皆気まずそうにリリスから目を逸らし、国王に頭を下げてその意に同意する。
「して、リリス嬢」
貴族達の反応に満足した国王は、リリスを呼び寄せた。ギルバートにエスコートされたリリスが前に出ると、国王は興味深そうな瞳を若い魔女に向ける。
「私とギルバートの師であり、そなたの祖母である大魔女から、とある相談を受けているのだが、そなたの意見を聞きたい」
「はい」
素直に頷いたリリスに、国王は南国でバカンスを楽しんでいるらしいリリスの祖母の意志を伝えた。
「師匠はそろそろ引退を考えているそうだ。そうなると、魔女の後継者が必要になる。この国にとっても、我等王室にとっても魔女は必要不可欠。師匠はそなたになら任せてもよいと考えているようだが、どうだろうか?」
リリスは、隣にいるギルバートを見た。紫色の優しい瞳がリリスを見つめ返す。次に、誇らしげな母と、放心した父を見て、再び国王に向き直る。
「僭越ながら、少し考える時間を頂きたいです。私は魔女ですが、同時にラトリス伯爵の娘でもありますので」
貴族令嬢として完璧な所作で頭を下げたリリス。それを見た国王は納得したように何度も頷いていた。
「賢い判断だ。流石は師匠の孫娘。この国の未来は安泰だな。答えは急がなくともよい。いつまででも待とうではないか」
こうしてリリス・ラトリスは、魔女としても伯爵令嬢としても国王のお墨付きを頂いたのだった。
「王家とのこと……何故、今まで黙っていたんだ」
国王と娘のやり取りを聞いていたラトリス伯爵は、放心したまま妻に問い掛けた。
「魔女の道を捨てても、私は魔女の娘であり、魔女の母よ。依頼人の秘密を守る魔女の美徳まで捨てたわけじゃない。それに……あなた自身に気付いてほしかったの。魔女は決して卑しい者ではないと」
「……私に幻滅しているのか」
妻の視線に怯える伯爵は、恥じるように下を向いていた。
「あなたが私と結婚するために、どれほど苦労したか分かってるわ。でもね、あなたが魔女を悪者扱いする度、何度もリリスを連れて伯爵家を出ようと思ったことがあるの」
妻のその言葉は、伯爵の心に突き刺さる。愛しているが故に、伯爵は盲目的になってしまっていたのかもしれない。
「でもそうしなかった。何故か分かる? あなたを愛しているからよ。そして、リリスもあなたを愛してる。だからどんなに理不尽な想いをしても、あなたと家族でいたかったのよ」
「すまなかった」
素直に謝罪した夫に、伯爵夫人はニヤリと口角を上げた。
「許してあげないわ」
「なっ……!」
「あなたのせいでリリスがどれほど傷付いたか。きちんと償ってもらいますからね。まずはあの子がどう生きたいのかを、真剣に聞いてあげて頂戴」
悪戯が成功したように笑う伯爵夫人は、上品な仕草で広げた扇子に口元を隠す。その様子は少しだけ、魔女の妖しさを漂わせていた。
国王の許しを得たリリスは、夜会の場から抜け出すところだった。薬を浴びせられた髪やドレスはギルバートの魔法で綺麗になっていたが、周囲の目から逃れたかったのだ。
しかし、そんな時に限って気になるものを目にしてしまう。ギルバートの元に、ザカリーとカミラが近寄って何やら話をしている。
会話の流れの中でザカリーがグラスをギルバートに差し出す。それを暫く見つめてから受け取ったギルバート。
一見すれば、ザカリーが騒ぎを起こしてしまったことに対する謝罪をし、それを受け入れたギルバートがグラスを受け取ったように見えるが、魔女であるリリスには分かってしまった。
ギルバートが飲もうとしているそのグラスの中には、間違いなく魔女の薬が入っている。
「ギルさん……!」
咄嗟に駆け寄ったリリスの目の前で、ギルバートはグラスを呷った。
「これでギルバート様は私のものよ! 次期国王の最有力候補が……!」
そう声を上げたのは、ザカリーの隣にいたカミラだった。何が起こったのか察したリリスは、慌ててギルバートの手を掴んでカミラから引き離す。
「ギルさん……殿下、大丈夫ですか? 今の、飲んでしまったんですか?」
慌てるリリスとは裏腹に、当のギルバートはいたって普通だった。
「ああ、カミラ嬢が何かを混入し、ザカリーに持たせて私に渡したこの飲み物なら飲みました。間違いなく」
「知っていて飲んだのですか!? でも効果は出ていませんよね……何故です?」
ギルバートの様子に異常がないことを確認しながらリリスが首を傾げると、ギルバートはフッと笑みを漏らした。
「何故って。リリスさんはこの薬の効能を誰よりも知っているじゃないですか。この薬には効果が発揮される条件があるでしょう」
ギルバートの瞳は、真っ直ぐにリリスへと向けられている。
「まさか……それって……」
「……あなたが考えている通りです」
リリスにだけ聞こえる声で囁いたギルバートは、冷たい視線をカミラへと向けた。
「どうして薬が効かないの!? ザカリーのように私にメロメロになるはずなのにッ」
コツコツとカミラの前に移動したギルバートは、絶句する彼女の手から惚れ薬の空瓶を抜き取った。
「悪いが私には心から愛する人がいる。だからこの惚れ薬は無意味だ」
「な、なんで薬のこと……まさか、あの時の店員!? じゃあ、あの魔女は……」
ギルバートの銀髪を見てハッと気付いたカミラの顔が引き攣り、その目がリリスに向けられる。
「依頼人の秘密を守る魔女はこの薬について証言をしないだろう。しかし、私は違う。君がなんの目的でこの薬を購入し、どう使ったのか、徹底的に明らかにしよう。それで。王族に妙な薬を盛った不届き者にはどんな罰が必要だろうか」
ギルバートが指を鳴らすと、凄まじい勢いで飛び出た荊棘がカミラとザカリーを戒めた。
「この者達は私に妙な薬を盛った。証拠もある。連れて行け」
冷たい第四王子の言葉に、二人は呆気なく連行された。
惚れ薬の甘い残香を散らすように身を翻したギルバートは、再びリリスの前に立った。
目の前に立つギルバートに熱く見つめられて、リリスはまるで惚れ薬を飲まされたかのように心臓がドキドキと高鳴る。
彼の顔がいつも以上に輝いて見えて、シャンデリアに照らされた銀髪が眩むほどにキラキラしている。静かな熱を滾らせる彼の瞳には、リリスだけが映り込んでいた。
「ご覧の通り、僕にあの薬は効きません。リリスさん、その理由が分かりますか?」
問い掛ける彼の瞳は再び熱を帯びていた。
勘違いかもしれない、そう思いながらも、リリスの顔は真っ赤に染まる。
「えっと……」
それを見たギルバートの耳先もまた、薄っすらと色付いていく。
「……なんだか照れますね」
「え?」
「思えば僕はずっと、あなたの横顔を見てきました。魔女の秘薬を調合している時のあなたは、本当に生き生きとしている。その横顔は、僕には眩しいくらいに輝いていました」
王子然として立つギルバートの声音には、リリスがよく知る柔らかな響きが混じっている。
「だからこうして、正面からあなたと向き合うのは少しだけ気恥ずかしいのです」
そこにいるのはこの国の王子ギルバートであり、リリスが誰よりも信頼する弟子仲間のギルだ。
高貴で冷たく、近寄りがたく見えても、彼は間違いなくリリスと多くの時間を共有してきた心優しい青年なのだ。
ふわりと微笑んだリリスに向けて、ギルバートは迷わず手を差し出した。
「あなたを愛しています。どうか僕と一緒に生きてくれませんか」
誰が聞いても切実なその声に、リリスは心に火が灯るのを感じた。
「私は……魔女です」
「僕は魔女であるリリスさんが好きです」
ギルバートの紫色の瞳に映るリリスの瞳にも、ギルバートだけが映り込んでいる。
「これからも、魔女でいて欲しいし、魔女のまま、僕のそばにいて欲しい」
ギルバートの手に手を重ねたリリスは、月のようにまん丸な瞳で彼を見上げた。
「それでしたらギルさんも、あなたのまま私のそばにいて下さい。私達は二人で一人前なのですから」
リリスは手袋を外し、ギルバートの手に自らの手を重ねた。
その手は貴族令嬢の綺麗な手ではなく、様々な秘薬を調合する、魔女の手だった。
重なった手を大切そうに持ち上げたギルバートは、この世の春を全て煮詰めたような甘い視線をリリスに向けて、恭しくその甲に口付けを落としたのだった。
伯爵令嬢リリス・ラトリスは魔女である。
しかし、それは公然の秘密である。
第四王子ギルバートの婚約者である彼女は、今日も真っ黒なローブに身を包み、ことこと大鍋を煮込み、時には箒で空を駆け、愛する人と一緒に薄暗い店内で怪しい薬を売っている。
彼女の両親を始め、引退した大魔女である祖母も、国王も、魔女の店を利用する貴族や平民達でさえ、王国中の誰もがそのことを誇らしく、そして温かく見守っているのだった。
伯爵令嬢リリス・ラトリスは魔女である。 完
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