絶望
ここに、私の人生経験を綴らせていただきます。
自分自身が感じたことも記述いたしますが、事実と異なっている場合や過激な表現も御座いますので、ご容赦ください。
序章
出身は、東京都の青梅市というところだそうです。
行ったことが無いので、どういうところかは分かりません。
ただ、産まれた時は真っ白で可愛い子が産まれたと看護師達が騒いだそうですww
真っ白ということで、察しがついたかもしれませんが、
私はハーフです。
ただ、物心ついた時には両親はどちらも日本人でした。
弟がいるのですが、その弟は今の両親の子です。
物心ついた時からよく祖母の家に行ってました。
何故なら、家にいたら理不尽に暴力を振るわれるからです。
何度も殴られたり、シャワーコックで頭を殴られて血がでたり、熱いシャワーや冷たいシャワーを浴びせ続けられたり、タバコを押し付けられたりされました。
その頃は、どうしてそんなことをしてくるのか理解出来ませんでしたが、後に仕事のストレスを発散しているだけだったのと、父親と血が繋がっていないからという理由だったからだそうです。
母親は、庇うような素振りはしますが、後で父親のいないところで、あんたが悪いと言うことも度々ありました。
また、同じマンションに住んでいる人に、いつも挨拶をして返してくれていたのに、父親が怒鳴って叱るのを見たら、しなくなり、目の前で叩かれていても見て見ぬふりをされました。
なので、祖母の家によく泊まりに行くのですが、それでも1日、よくて2日しか泊まれずに、あの地獄の家に帰るんです。
なんで、あんなところに帰らなければならないのか心底理解出来ませんでした。
ある日、弟が誕生日の日に祖母が家に来て、ケーキを買ってたのですが、食べる時には私は押し入れの中にいました。
父親が友達から借りてた本を勝手に読んでいたのが、逆鱗に触れたから、押し入れに入れたそうです。
祖母は怒って反論しましたが、それでも父親(以降は、「汚物」と言わせていただきます。)が、我を貫き通して、祖母は私に同情して、押し入れに一緒に入ってくれました。
また、別の日には、猫を飼ってたんですが、雑種の大人の猫でお腹に赤ちゃんがいる猫を、汚物が突如2階の階段から落としたんです。
落とした理由が、鳴いたからだと言ってます。
母は、心配して私と一緒に買い物に行くという体で、
その猫を探しに行きました。
歩いて100mも無いぐらいの距離で、「ニャー」と鳴いて近づいてくる猫がいました。
その猫こそが、落とされたマリという名前の猫です。
でも、結局連れ帰った所で、父親が激怒して、また同じことをされるということで、連れ帰らないという選択を母は選択しました。
正直ショックでした。
大人しくて、賢く利口な猫で、とても可愛く、お気に入りの猫だったので、もう会えなくなるのが、とても辛かったです。
そんなような経験を経て、私は小学校に入学します。
幼稚園や保育園は、行かせて貰ってないです。
小学生編
入学式当日は、私だけランドセルを背負わずに登校し、祖母が怒り、汚物に急いで、持ってくるようにと言って、汚物が仕方なく取りに帰ってました。
自分以外の同い年の子達と話したことが無いに等しかったので、実際に小学校で家族以外の人達と話せて嬉しいと感じました。
やっと、祖母の家と本当の家以外に居場所が出来たんだと。
けど、結局は地獄は終わりませんでした。
友達と遊ぼうとしても、宿題を終わらせてからでないと駄目と言われ、真剣に宿題に取り組んでいても、怒鳴られ、頭をはたかれました。
また、家に帰った時に「ただいま」の声が小さかったら、殴られたり、通知表の結果が悪ければ、殴られて長い説教をされました。
その度に、「お前は駄目なやつだ」と何度も言われました。
また、汚物が吸う煙草が原因で物心ついた頃から、喘息を発症していたのですが、全然病院に連れて行ってくれず、学校の授業で走る時は、他の子よりも息切れが早かったり、息をするのが苦しくて、夜中に「ぜー、ぜー」と言って起き、眠れなかった日もあります。
ただ、「ぜーぜー」言ってると五月蝿いと怒鳴られるので、なるべく言わないように必死に我慢したり、起き上がるのも、迷惑だと怒られるので、起き上がらずに寝転がったまま、酸素を取り込むのに必死でした。
そんなようなことがあっても、学校に行ってて、同い年の子供達と鬼ごっことかかくれんぼとか、とにかく子供らしい遊びをして、楽しんでいる時間が、唯一の救いで、希望でした。
でも、そんな日も長くは続かず、2年生の11月頃に、汚物が、いつもの様に暴力を降るってきて、突然灰皿を投げつけてきました。
それが、頭に直撃し、血がダラダラと出てきました。
母も同じようなことをされ、母が「警察に言うからね」と汚物に言ったら、「いいぞ。早く連絡しろよ。」と言いました。
ですが、母は渋って中々連絡せず、汚物が警察に連絡し、自白しました。
それで、警察や救急車が来て、母は救急車に搬送され、汚物は警察から事情聴取され、パトカーに連行されました。
その後、祖母が駆けつけて来て、急遽祖母の家に私と弟とおじいちゃん的存在が泊まることになりました。
それから、2、3日後に母が退院して、私と弟を引き取って家に戻りました。
家に帰ってから母は100円均一に行き、可愛らしい便箋を買ってきて、汚物に向けて「許します。戻ってきて」と書いて、警察署に行き、汚物に警察官経由で渡したそうです。
それに対して、汚物も母に向けて「貴方の料理が恋しいです。今後、子供と妻を大事にします。」と書いたそうです。
それで、両者同意の元、汚物は釈放されました。
が、元々住んでいたマンションは、会社から借りたマンションで、警察沙汰になり、汚物が会社から転勤を命じられて、引っ越すことになりました。
ただ、それまで通っていた学校に、これからも行けるように祖母が学校の近くに、家を借りてくれて、本来であれば、一緒に住む事になっていました。
が、汚物と一緒に行くから、あんた達も来なさいと言われ、子供の私に選択肢など無いため、今まで通っていた学校を転校すると報告し、友達ともお別れしました。
丁度、冬休みに引っ越したので、また孤独になったんだと絶望していました。
1月になり、転校した学校に通うことになりました。
前の学校よりも、古臭い印象があり、不安になっていましたが、直ぐに女の子の友達が1人出来ました。
でも、それを面白くないと思った一部の男の子は、私にちょっかいをかけてきました。
普段からの理不尽な暴力に比べれば、可愛いものですが、それでも辛く感じました。
でも、そんなちょっかいを受けていく内に分かったことが、女の子達に対しては優しく接していたことです。
つまり、女の子達を味方に付ければ、ちょっかいをかけてこなくなるだろうと思い、その日からわざとオカマ口調で話すようにしました。
そしたら、それを聞いて面白いと思った女の子達と仲良くなり、よくおちゃらけたりしました。
それが功を奏したのか、その日から男の子達がちょっかいを出してこなくなりました。
そして、3年生になった時に女の子の転校生がやってきて、唯一いた1人の女の子友達と仲良くなりました。
そして、その子は私と仲良くしないようにと言い、その日からその女の子と遊ぶことは無くなり、避けられ、貶されたりするようになりました。
その時、幼心にも、「ああ。こんな簡単に裏切られるんだ。」と軽く絶望しました。
そして、2ヶ月程が経ち3年生1学期の6月にまた、元々住んでいた市に戻ることになり、転校しました。
そこまで思い入れは無かったので、寂しくなく、何とも感じませんでしたが、中には泣く子もいました。
「大して仲良く無かったくせに、先生から良い印象を受けたいんだな。」と感じ、苛立ちました。
引っ越し先は、小学校1年生の頃~2年生の2学期終盤まで通っていた学校よりも遠く、別の小学校のほうが近かったので、その小学校に転校することになりました。
その小学校は、3年生1学期の6月~卒業まで通いました。
ですが、それまでにも色々な経験がありました。
先ず、転校したら同じクラスの子達から話しかけられ、おどけて話してムードメーカーみたいな存在になっていましたww
ですが、それを面白くないと思った隣の席の女の子が、磁石を自分の指にくっつけて、痛いと泣いて私のせいにしたり、手の甲を抓ってきたりと、嫌がらせをしてきました。
そんなことを繰り返され、また手の甲を抓られた時に、あまりの痛みに「痛い」と小さくこぼし、涙が出ました。
そしたら、その女の子は、焦って「ごめん。だから、泣かないで。」と言いました。
その時に気づいたのです。
女の子が涙を流すのは、自分の思い通りにしたいためだと。
相手は、涙を流されると自分が悪いという罪悪感に苛まれ、どうにか泣き止んで欲しいと、過剰に優しくしてくれる。
これを、利用しているんだと。
その時、私の心が黒く歪んだんです。
「なあんだ。だったら、これからは、困ったは涙を流せば良いんだ。ちょろいな」と。
汚物からの暴力を受けてる時は、泣いたらむしろヒートアップしてしまい、逆効果ですが、学校の生徒や教師は、その逆。
泣かれると自分が困る。
これは、利用出来るなと思いました。
それからは、自分が不利な立場になりそうな時に、わざと大勢いる前で泣きました。
そうすることで、不利な立場にしようとした人が批難され、私に虐めるような行為やちょっかいをかけてこなくなるので。
そして、基本的には、学校ではおどけて面白いキャラをやり、楽しませて敵を作らないようにしました。
友達という存在もいましたが、友達以外の人達と大して変わらない存在だし、また裏切られる危険性もあるため、その日から友達という存在は作らないようにしました。
小学5年生になった時には、弟が小学1年生になり、一緒に登校したりするようになりました。
ですが、弟は私よりも暴力を振るわれる頻度が少なく、正直言って、苦手でした。
また、通知表で、弟と比較され、悪かった方が、ひたすら長時間の説教を受けたり、殴られたりしました。
でも、私の方が良くても、理不尽に説教され、暴力を振るわれることもあったので、勉強を頑張ったところで、結局暴力を振るわれることに変わりが無いと思い、むしろしませんでした。
というより、頑張る方法が分からないので、無理なんですよね。
だって、目標が無いんだから。
成績を良くして、殴られないようにする?
そんなの、次を期待されて、下がったら殴れるんだし、弟がずっと暴力を受ける対象になるのは心が痛む。
そんなんだったら、できるだけ何も考えずに、ひたすら謝ることを頭に入れておいたほうが、よっぽど懸命だと思ったので、そうしてました。
また、汚物に対して、「有難うございます。」と「ごめんなさい。」を頻繁に言うように心がけていたので、その点で、弟と差別化は出来ていました。
弟は、お礼や謝罪は言わないような性格だったので。
でも、この2つの言葉を上手く使えれば、大人に好印象を与えやすいんだということに気付いたのは、先生達にやって、分かりました。
また、5年生と6年生は宿泊行事があるので、その間だけでも、あの地獄の家から解放されていた時は、とてつもなく幸せに感じました。
そんなような経験を経て、小学校は卒業し、中学校に入学しました。
中学生編
中学校に入学し、小学校とは違い、部活に入らなければならない学校なので、美術部に入部しました。
理由は、お金が無いため、運動部に入部することが出来ないため、文化部でお金がかからないに等しい部活しか選べなかったからです。
入部した時、私以外全員女子でしたが、直ぐに馴染んでよくお喋りして、楽しい時間を過ごすことが出来ました。
ですが、よく宿題をせずに、先生に叱られたり、先生に対して「クソババア」と言ったりするような問題児でもありました。
ただ、ヤンキーになったわけではなく、個人で先生に対して反発していました。
というのも、小学6年生の頃にある生徒から嫌がらせを受けて、先生に相談しても、「そうなんだ。」だけで取り合ってくれなかったり、虐待されていても、周りの大人は助けてくれず、見て見ぬふり等されてきて、大人に対する嫌悪感が積もりに積もった結果、先生に反発するようになりました。
1年生の間も汚物からの暴力はいつも通り受けていましたが、部活があるおかげで、小学生の頃より帰りを遅くすることが出来、家にいる時間を減らせたのは幸いでした。
ですが、朝食と夜食を食べる時間は地獄で、急に食べている料理を取り上げられて、投げて説教したり、殴られることが多々あるからです。
百歩譲ってケータイを見ながらとか、食べ物で遊んでいたのならまだしも、普通に食っていて、そうなるので、早く食べて汚物と一緒の空間から早く離れるようにしていましたが、早く食べようとしたらしたで、同じく説教+暴力の嵐なので、食事の時間が一番苦痛で、いつも心臓がバクバクいってました。
そして、2年生の時に、母と一緒に買い物に行ってる時にふと疑問に思ったことがあるので、聞きました。
そしたら、「実は汚物と貴方は血が繋がっていなくて、本当の父親はブラジル人で3歳の時に別れたのよ。だから、貴方はハーフなの。」と言いました。
疑問に思ったきっかけは、喘息の薬もたまに貰う時に苗字+ミドルネームで呼ばれるからです。
何で、私だけミドルネームで呼ばれるんだろうと思い、聞いたところ、そのようなことを言われました。
それを知った時、母に「嬉しい!!あんな穢れたゴミ以下の汚物野郎の血が入ってないなんて、最高!!」と喜びました。
その2日後に、また汚物から暴力を振るわれた時に、突如汚物から「実はな。お前は俺と血が繋がってないんだよ。」と言ってきました。
それは、2日前に母から聞いていたので、驚くことが出来ず、母に「お前、バラしてたのか?」と問い詰め、母が「そうだ」と言ったら、汚物と母の喧嘩が始まり、その拍子に「お前(私のことです)に厳しくしてたのは、血が繋がっていなくて、嫌だったからだ」と暴露しました。
合点がいきましたが、それを聞いて、ショックを受けました。
存在自体を否定されたような気分になったので。
ただ、今までもよく「ハーフ?」と同い年の子達から聞かれることが多く、不思議な者まるで宇宙人を初めて見るような好奇心旺盛な目で見られることが多く、あまり良い気がしませんでした。
また、母から「ハーフ」だと聞かされた時も、表面上では喜びましたが、心の奥底では、「日本人でも、ブラジル人でもない。中途半端な存在なんだ。」と思い、ハーフじゃない「日本人」の弟が羨ましくなりました。
また、その頃眼鏡を着けるようになって、授業中に着けて、それ以外は外していました。
それで、外した状態で帰宅したら、汚物が激昂し、いつも通り殴ってきて、あまりにも酷かったので、母が警察に連絡しました。
でも、結局は母が大事にしたくないという理由で、勘違いでしたと警察に言って、無理矢理穏便に済ましました。
そこからか、自分のストレスを吐き出す相手がいなく、同じ部活内の1人の子の悪口を言ってる子がいたので、その子と愚痴を言って、ストレス解消していました。
その当時は、ガラケーでやり取りしていて、メールを送り合って、その子の愚痴を言い、愚痴を言われてる子に対して、こんな事を言ってたよとリークしてました。
問題になるまで、それがどれだけ最低でやってはならないド屑な行為であるかも気付かずに。
それが、問題になったら、高校3年生の2学期半ば頃です。
愚痴を言われてる子がその子の父親に報告し、その子の父親が学校に報告したことによって、問題が発覚し、先生に問い詰められました。
「下手したら、自殺してしまってたかも知れないんだぞ!!」と。
それで、母に連絡しても中々繋がらず、「家に直接行って、報告するぞ!!」と言い、車に乗せられ、家まで運転し始めました。
その際、私は必死に「家に行かないでください。お願いします!!家に行って、父親に言ったら殺されます!!」と本気で泣きながら言ってました。
本来であれば、殺されても仕方のないような行為をしたのに、自分の身可愛さに、命乞いをしたんです。
それで、結局家の前に車を止められ、「家に帰って、自分のケータイを持ってこい」と言われ、ケータイを取りに帰りました。
自分の部屋があって、玄関入って、右にあるんですが、汚物は玄関の廊下を真っ直ぐ歩いた所にある扉の先のリビングにいるので、扉が開いてたら気づかれるので、開いてないことを祈りながら、玄関をそっと開けて、音を立てないよう、「キィ」という音すらならないように、配慮し急いで部屋に入って、ケータイを取り出し、玄関の扉を開けて閉めようとした時、リビングの扉のノブが回される音がし、心臓が更にバクバクいいつつも、急いでかつ音をなるべく立てずに、玄関の扉を閉めました。
それで、先生の車に乗り、学校に引き返し、学校に着いたら、先生が私と愚痴を言ってた子のメールのやり取りの履歴を見ました。
それで、ようやく「そのためにケータイを取りに行け」と言ったんだと合点がいきました。
先生がメールの履歴を見ている最中に、母から先生に連絡が来て、母が急遽学校に来ることになりました。
そして、学校に来た母が先生に謝罪をし、先生の前で私に
「○○君みたいなことしちゃ駄目でしょ。どうしてこんな事したの?」と説教しました。
この○○君というのは、私が教科書を無くしたと思ったら、別の男の子が持っていて、私が教科書を新しく買い直した後に発覚し、私と母に謝罪しに来た子のことです。
ただ、ここで反省しつつも違和感を抱いたのは、「どうして○○君みたいなことしちゃ駄目だと先生達の前でも言うんだろう?しかも、○○君がやった事と、僕がやった事は圧倒的に僕のやってる事が最低最悪な事なのに。」と思いました。
取り敢えず、母の謝罪で一件落着にはなり、被害者本人にも謝罪し、今後メールのやり取りは、気を付けようと心に強く誓うきっかけになりました。
今でも、深く反省しています。
その後、高校受験がありましたが、お金が無いため私立に行くことは出来ないため、滑り止めで私立の高校受験を受けることも出来ず、公立の高校受験一発勝負でした。
私自身の頭が悪いため、偏差値が低い高校を受けることになりましたが、結果は合格で、晴れて高校生になれるんだと、喜びました。
何故なら、汚物が中卒で、高校に行かなかったそうなので、それと同じになりたくないため、高校は最低でも卒業したいという気持ちが強くあったからです。
まあ、結局は汚物から偏差値が低い高校に行くなんて恥ずかしいと説教されたんですけどねww
そして、中学を卒業し、高校生になります。
高校生編
高校に入学し、入学式で校長先生が「高校では、新しい自分に生まれ変わる事が出来るチャンスがあるんだ。
中学までと違い、自分自身を知らない人が多いんだから。
そのチャンスをどう活かせるかは自分次第だ。」と言っていました。
今まで、人の言葉で感動した事など微塵も無かったのですが、初めてその校長先生の言葉に感銘を受け、高校生活は、真っ当に過ごすんだと思いました。
その日から、当たり前ですが、宿題はちゃんとやり期日までに絶対に提出し、先生や生徒にも明るく接していました。
そうしていると、気分が晴れやかになって、とても楽しい気分でした。
でも、友達は作ろうとはしませんでした。
心のどこかでは、人を信用していなかったのと、学校と登下校以外で話すような関係の人がいなかったからです。
私にとっては、そういう時にしか話さないのは、都合の良い関係、単なる暇つぶしの相手だと思われてるようにしか感じず、友達とは到底思えなかったからです。
遊んだり、悩みを相談したりする関係上の人がいなかったため、相手が友達だと思っていても、友達だとは思えないです。
とはいえ、人間関係で対立したりするような事もなく上手くやれていました。
ですが、高校1年生の2学期が終わり、自分自身が実は「ゲイ」だということに気付きました。
中学生の頃によく抱き着いてくる男の子がいたのですが、その子のことを今になって好きだったんだと気付いたのと、女子と話しやすいのは、好きになったことが無いからだと気付いたからです。
他にも、あの子イケメンだな。
告ってくれないかなとか思う事が、多少あったためです。
正直言って、ショックでした。
普通の恋愛すら出来ないんだと。
また、気持ち悪いと思ってる人もまあまあいる事を知ってたので、自分が醜い存在なんだと余計感じるようになりました。
祖母からは、普通の恋愛して結婚して、子供をたくさん産んで欲しいとも言われてるし。
「バイ」だったら、女の人も好きになるから、せめて「バイ」になりたかったと思うことも、今でもあります。
当然、自身が「ゲイ」だなんて、周りに言えず高校1年生が終わる3月に飲食店の接客のアルバイトを始めました。
中々覚えられず、失敗することもあったりしましたが、中でもきつかったのが、遠くからでも「早く!!」と怒鳴られ、何をするにも「早く!!」と言われ続け、早く喋ろうとして、滑舌が悪くなり、それによって余計怒られる負の循環がおきていたことです。
また、陰口を言われたり、ネチネチ言われたり、大声で怒鳴られることが多く、職場に行くのが嫌で、憂鬱になっていました。
そんなアルバイトをしながら、高校1年生も終わり、夏休み中に祖母の家に行っていた時に祖母に衝撃の告白をされました。
「実はね、貴方にはお姉ちゃんがいるの。
でもね、お姉ちゃんは、1歳の時にブラジルに連れて行かれちゃったの。」と涙ながらに言ってました。
ブラジルに連れて行ったのは、母と私の本当の父だそうです。
それを聞いた時、私が思ったのは、「それって、人身売買?」でした。
日本とブラジルではお金の価値が違い、日本に来てわざわざ働いているブラジル人は、日本のほうが価値が高く、より稼げるからという理由なことを知っていたからです。
それと同じ原理で、日本の血も混じっている女の子だったら、高く売れるから、わざと日本人の女と交尾して子供を産んだのだろうと。
実際には、ブラジルの祖母の家で育ったそうですね。
ただ、私もブラジルに送られそうになって、祖母が止めたそうです。
お姉ちゃんの時は、祖母が電車に乗って、母と一緒にお姉ちゃんを迎えに行く時に「実は、ブラジルに行って帰ってこないことになってるの」と言われたそうです。
で、私が物心着く前は、母は働いていて、ブラジル人に私を預けていたそうです。
預けた先では、爆音を流したながら、踊っている場所だったり、うんこを食わされていたそうです。
それで、そんなんじゃ駄目だと祖母が決断し、母が子供の面倒を見なさいと言って、預けるのを辞めさせたそうです。
その少し後に、離婚して今の汚物と結婚したそうです。
まるで、大人の玩具になってるようで、不快になりました。
今までも、そこまでマトモな大人を見た事が無く、苦手でしたが、それを聞いて嫌いになり、2年生の2学期から、先生に対する態度を変えるようになってしまいました。
そうすることによって、急に変わったから、何かあったんじゃないか?と察し、相談してくれるかと思っていました。
心の底では、誰でも良いから助けが欲しいという思いが、そんなことでしか表現出来ないんですから、人として終わってるんです。
でも、嫌われてでも良いからドラマみたいに助けてくれる先生がいるんじゃないか。
素直に言っただけじゃ、適当に流されるだけかもしれないから、敢えて冷たくなり、嫌いな奴になったとしても、心配してくれる人になら、打ち明けられると思ったのですが、、、
ただ、単純に問題児としてのレッテルが貼られただけでした。
とはいえ、授業に参加し、宿題も期限内に提出していたので、成績上もヤバくならない程度に反抗していました。
結局、2年の1学期まで仲良く話していた先生とは話さなくなりました。
嫌われるだけ嫌われて自分の首を絞めるような行為しか出来ないような屑野郎で、自身に嫌気が差して、発狂したくなります。
そして、高校3年生になり、大学に行くか、就職するかで、お金が無く奨学金を借りて、借金という形で、大人になって返していくのは嫌だと思い、就職活動をしました。
その頃、パソコン関係の勉強をしており、IT業界で勤めたいと思っていたので、IT業界に絞って、就活していましたが、文系で計算が苦手なのが災いして、適正検査で落ちるのが殆どで、中々内定をいただけず、11月に受けた企業に
こう言われました。
「ウチが持ってる去年設立したばかりの専門学校で2年間勉強してから、また受けてみないか?」と。
また、1年で30万程度で分割払いが出来るとも仰っていただけたので、働きながら学費を払えると思い、ITの2年制の専門学校に入学することを決めました。
また、祖母が専門学生になったら、家に来なさいと言ってくれて、あの地獄から解放されるんだと安堵しました。
そして、高校3年生の3学期に、また汚物から殴られていた時に、ポロッと汚物がこう言いました。
「昔は、仕事のストレス発散として、よく殴ってたな」と。
今も同じだろと思ったのと同時に、強く『許せない。絶対社会的に殺してやる!!』と心に誓いました。
流石に、肉体的に殺したら犯罪になってしまい、汚物のせいで、更に人生台無しになってたまるかと思ったので。
そうして、高校を卒業し、地獄から解放されて、祖母の家で暮らし、専門学校でITの技術を身につけて、と普通の人が送るような幸せが訪れるんだと思ってました。
でも、結局希望なんて無いんだなと、改めて思い知ることになるのです。
▶続く
ここまで、読んでくださり、有難う御座います。
こんなやつのために、貴重な時間を使って読んでいただけたこと、大変喜ばしくおもっております。
高校生までの自分の経験や思いを記述しましたが、いかがでしたでしょうか?
作文能力が低く、申し訳御座いませんでした。
どう表現すべか分からず、曖昧にしてしまったのも、ありました。
何でも良いので、感想やご意見等を寄せていただけますと、大変幸いです。
ここまでは、肉体的暴力を受ける地獄を経験し、
専門学生になってからは、肉体的暴力は受けてません。
では、何故希望が無いと言ったのか。
それは、専門学生編以降で、記述させていただきます。
もしかしたら、読んでいて違和感を感じ、察した読者の方もいらっしゃるかも知れませんね、、、
続きの専門学生編も、投稿したら読んでいただけたらめっちゃ喜びますww
それでは、ここで1度失礼させていただきます。
改めまして、ここまで読んでくださり、有難う御座いました。
次のお話も、よろしくお願いいたします!!