青天の霹靂
青天の霹靂という言葉がある。雲無き青空の下突如鳴り響く雷鳴は地を行く人を驚かせるが、オレ達の元に突然齎されたその報せは、当にそれを思わせるそんな凶報だった。
「嘘でしょ…? 藤屋さんってまだ50歳過ぎのはずでしょ? いくらなんでも若過ぎるわよ」
うちの事務所で一番衝撃を受けているのは千鶴さんだ。
いや、オレも同じくらいに衝撃を受けており、その内心を外に出さないよう動揺を必死に抑えている状態だ。
なんてったってオレ達は以前ドラマで共演したことが あり、その時にいろいろとよくしてもらったことがあるからな。
「死因は新型コロナによる重度の肺炎だそうだ。
初期症状が風邪に似ているため当人も周囲もそのように思っていたらしいのだが、急に重症化し肺炎を併発したらしい」
聖さんがオレ達に説明が続く。
ああ、なるほど、そういうことか。ワクチンが出回ることによって終息に向かっているって話だけど、それでも完全にってわけではなく、こういう例だってまだ少なくはないみたいだしな。
ただ、まさか知り合いがこういうことになるとは思っていなかった。現実を受け容れるのがつらい…。
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葬儀は当人の遺志により遺族と親族、あとは特に親しい者達だけでひっそりと行なわれたらしい。まあ、こんな時勢だし、なによりも死因が死因だからな…。
告別式にはオレが早乙女純として参加した。佐竹でなくオレ自身が参加したのは、故人に対する強い想い入れがあるためだ。
実に約一年振りの女装だがオレ自身に違和感は少ない。初代の時とは違い二代目の早乙女純は身体的に成長しているわけだからいろいろと相違点はあるのだが、実際その点に違和感は感じているがそれは余り気にならない。今はそんなこと以上に気に病むことがあるから…。いや、気に病むって言い方は思い悩むってことで、気落ちするってのと意味合いは違うのかも知れないけれど、でも精神的に堪えて病んだように気鬱になっているんだから……って、そんなことどうでもいいか。
はあ……。いつものように現実逃避してみても、この塞ぎ込む気持ちは誤魔化せないか…。
ああ、なんで死んでしまったんだよ藤屋さん…。
聖さん達に伴われ、受付を済ませる。陰鬱な気分に沈むのはなにもオレばかりではないようだ。
って当たり前だな、オレでさえこれなんだから遺族の悲しみはいかばかりなものだろうか。
お坊さんの読経が始まり、そして焼香が始まった。
遺族、親族の焼香が終わり、そしてオレ達一般会葬者の番が回ってくる。やはり故人の人柄故かオレ達以外の参列者も多い。
オレ達の焼香の番が回ってきた。聖さん達の後に続いてオレも祭壇へと向かう。
遺影を間近に目にするこれになったわけだが、それでも現実感が乏しい。この業界によくある、悪趣味なドッキリ企画と言われればすんなりと納得してしまうかも知れない。そんなことは無いと頭では解っているのだが。
花入れの儀。故人の棺に花を納めるこの儀式だ。これが故人に接することのできる最後の機会で、これで本当にお別れだ。
こうして死に顔を目にしたことで、漸く実感が湧いてきた。悲しみが一気に沸き上がり、まるで頭が沸騰しそうな気分だ。人目も気にすることもなく、取り乱すように号泣する遺族の気持ちがよく解る。そんな中で式をしっかりと取り仕切る奥さんの心中はいかばかりか。きっと既に涙は枯れ果ててしまったのだろう。
こんな風に遺族に気を馳せてはみたが、きっと比べものにはならないのだろうが、それでもやはり悲しいものは悲しい。現実を受け容れてしまったためだろう。
そういえば聞いたことがある。人は三度死ぬのだと。
オレの頭に浮かんだのはとある漫画での台詞 、「人は二度死ぬの。最初はどこか遠くで。次に私の中で」だった。「私は信じない。この目で見て触れて実感するまで」と、確かそんな風に続いていたと記憶しているのだが、こうして自身がそんな場面に直面してみると当に納得がいってしまう。因みにその漫画では、その人物は結局死んではいなかった。まあ、主人公だったしな。
だが、オレの目の前の現実は覆ってはくれない。
先ほどの『人は三度死ぬ』だが、その意味合いは『本人の死』『知る者の死』『記録の消滅』だという。つまり世にその人の生きていた証が残るうちは、心や記憶の中で生きているってやつだろう。
その考え方は古くから有ったようで、古代ローマにはDamnatio Memoriaeという『記録抹消刑』も存在したという。少し意味合いは違うかも知れないが、日本にも『命は軽く、名は重く』なんて言葉が戦国時代の『多胡辰敬家訓』にも有る。中国にも晋の桓温のように『男子、芳を百世に流すこと能わずんば、亦当に臭を万載に遺すべし』 なんて迷惑なことを言うやつもいるし。
つまり仮令命は尽きたとしても、せめて人の心や記憶の中で生きていたいという人間の願望によるものだろう。
まあ、死んでしまった藤屋さん本人がそんなことを考えていたかどうかはおいておくとして、彼を見送る者のひとりとして、彼のことをこの胸に留めておきたいと思う。せめてオレの心の中でこれからも生き続けてほしい。
いや、これはオレだけでなく、彼の遺徳を偲んで集まった者達全てが同じ想いを懐いているに違い無い。
そう、彼の命は失なわれてしまったけれど、その魂はオレ達の心と記憶の中でずっと生き続けることだろう。
※1 講談社刊『勇午』13巻 [原作:真刈信二、作画:赤名修]より。
※2 出典は『晋書』の『桓温伝』。
意味合いとしては『良いことで世に名を残せないなら、せめて悪名を残すべし。それが男ってもんだろ』といった感じで、桓温は禅譲による王朝簒奪を計っていたらしいです。とは言っても、自身の病と周囲からの反対により実現しなかったようですが。
ただ、彼の言葉は上記のように後世に残り『流芳後世』『遺臭万載』の四字熟語としても知られています。果たしてこれは彼にとって本望だったのか皮肉になるのか。
※この後書き等にある蘊蓄は、あくまでも作者の俄な知識と私見によるものであり、必ずしも正しいものであるとは限りません。ご注意ください。




