最終節
朝の光。銀のはさみをテーブルに置いて、私は立ち上がった。昨日、弟からくすねた鍵を使って、十数年ぶりに小屋の外に出る。
世界はなんて美しいのでしょう。まぶしさに目を細める。清浄な朝の大気。日の光が緑の隙間から零れる。鳥のさえずり。空の透き通るように透明な青。露に湿った土のやわらかな感触。雨上がりの匂い。これが世界なんだ。
道なりに林を進むと、やがて大きな庭園に出た。立派な墓石が太陽を目一杯浴びて輝いている。近づいて、そこに彫られた名前を読む。私は地面に膝をついて、父の墓に手を合わせた。父がずいぶん昔に死んでいたことは、一歩も小屋から出ない私にでも分かっていた。可哀想な弟。あの子にはもう私しかいなかった。あの子はあの子なりに、必死で自分の世界を守り抜こうとした。誰がそれを責められるでしょう。
それでも私は今日、小屋を出た。もう終わりにしなければならない。二人の世界。それが地獄だったなどとは思わない。天国、いえ、唯一の世界。でも天国にさえ地獄はある。どこにでもそれは存在するの。彼にはまだ、それはわからないでしょう。私には終わらせる義務がある。愛?いえ、恐怖。
世界の完全なる調和を保つ豪奢な庭を抜けて、私は道を歩いた。交互に足にかかる負荷。鈍い痛み。歩くという行為さえ、私には新鮮で懐かしいものだった。やがて小高い丘の上で道は途切れ、眼前には海が広がっていた。朝の光を吸い込んで淡くくすんだ青に、私の胸は一杯に満たされていく。潮の香りが、むっと鼻をつく。世界はこんなにもまぶしい。
丘を下っていくと、突然、平坦な広い道に出た。急なカーブで、少し先がもう見えなくなっている。土は黒く硬くなっていた。あすふぁると、というものかしら。どうやらこの土はもう死んでしまっているみたい。地面に埋め込まれた死んだ岩のカケが、時々、朝の光を照り返してキラキラと光った。それは泣いているようにも見えた。黒い道の真ん中には白い点線が、等間隔に引かれている。反対側には低くて白い鉄の柵(があどれえる、というやつね)があり、その向こうでは、海が際限なく膨張している。
道を横断していると、地面に光るものを見つけた。はさみ。さっき小屋に置いてきたはずの銀のはさみが道路に落ちていた。よく見ると赤黒くシミが付いている。血痕。拾い上げようと屈みこんだ瞬間、視界の端、カーブの向こう側から黒い塊が跳びこんできた。無機質の鉄の塊が高速で近づいてくる。
なんだろう?
次の瞬間、私は宙を舞っていた。空が青い。地面に叩き付けられる衝撃に、一瞬、世界が真っ暗になる。再び光を取り戻す頃には、黒い鉄の塊(ふふっ、じどうしゃ、ね)は視界の隅で小さく点になっていた。身体が不自然な角度に折れている。あんなに空が高いや。私は両の手を目一杯伸ばす。右手は血だらけで、もはや手の形をとどめていない。でも左手は白く美しいまま、その手には、しっかりとはさみが握られていた。
ハロー、いま君に素晴らしい世界が見えますか。
朝の光の中を白い切り絵がカモメみたく舞っている。私は君のことを考えた。それから少しだけ、この世界のことも考えてみる。やっぱり難しくて、私は黒いあすふぁるとの上で少しだけ眠ることにした。世界はこんなにも素晴らしい。
眠りに落ちる間際、鍵の落ちる音がどこか遠くで聞こえた。