第七節
どれほど走ったのだろうか。月の光が浜をやさしく照らす。『練習曲第3番』。通称“別れの曲”。全12曲の練習曲のうち、最も美しく完成された世界。憂苦を孕んだ甘い旋律、それに彩られた別れの悲しみを歌い上げる。中盤の交錯部ではその不穏な心。終盤、再び甘美な旋律に回帰する。それは別れと呼ぶには、あまりに整然としていた。虚偽の世界。現実の別れは、もっと陰惨としていて、耐え難い痛みを伴う。僕は君のことを少し考えて、カーステレオからCDを取り出して、窓の外に放り投げた。月明かりが、車内を一杯に満たす。下限の月。コートとはさみも続けざまに外に投げた。血だらけの銀は月明かりの中、きらきらと鈍く反射して、視界の外へと消えていく。
しばららく車を走らせると建物が見えてきた。広い駐車場に入り、建物の真横に車を乗り付ける。すっかり風化してしまっていたけど、かろうじて原型を留めている。かつてこの建物はパーキングエリアだったのだろう。割れたガラスのむこうの闇で、なにかが蠢いた気がした。すっと背筋が冷たくなる。人ではない。人の形をしていない。黒い塊はゆっくりと、闇の中からこちらに近づいてくる。水分を含んだ足音。びたん、びたん。あと一歩で月明かりの下に出る、というところで、そいつは立ち止まった。そして僕に向かって手を振った。牙が白く光る。笑っているのか。僕は恐怖に耐え切れずに、車を発進させた。加速する車内で、僕は父の最期の笑顔を思い出していた。『無駄だよ』。看板が見えてきた。白い矢印がひとつ闇に浮かぶ。さっき見たのと同じ看板。『無駄だよ』。耳元で父の笑い声が聞こえた。
目一杯アクセルを踏み込む。僕は悟った。ここは地獄なのだと。父の車で僕が向かったのは、ガードレールの向こう側の、暗く冷たい地獄だったのだ。エンジンの音に耳を澄ませ、クラッチを繋ぐ。シフト・アップ。再びアクセルを踏む。僕はもう知っていた。この夜に出口などないということを。加速していく世界とは対照的に、僕の心は鈍い淀みの中で静かに凍っていった。シフト・アップ。涙が一粒こぼれたのをきっかけに、悲しみは堰を切って溢れ出す。流れ出た涙は路面を濡らし、海へと流れていくのだろう。時速250km。サンバイザーに挟んであった白い切り絵が、風に飛ばされて、開け放たれた窓から夜に吸い込まれていった。
僕は窓の外にあの鍵束を捨てた。スピードを落とさずに、急カーブに差し掛かる。悲愴が音を立てて、闇を駆け抜けた。