第六節
―――洋館2F書斎。
「思ったよりも、遅かったじゃないか」
書斎の椅子に腰を賭けたまま、父は僕に言った。よく通るテノール。まるで声に衰えが感じられない。なぜだ。父の左胸には刃渡り17cmの銀のはさみが深々と突き刺さっている。Paul Smithの仕立てのいい綿のシャツは、みるみる朱に染まっていく。
「そんな顔をするな。心の奥まで透けて見えるぞ。浮薄さと若さは別物だが、いまのお前はその両方だ。手に取るように分かるぞ。『なんで死なないんだ』って顔だ。違うか?」
その声には嘲笑の響きを含ませながらも、ゆとりがある。到底これから死ぬ人間とは思えない。
「良い夜だな。死と腐敗の匂いがする。ああ、すまないがそこのスコッチのボトルを取ってくれないか。ひどく喉が渇くもんでね」
僕はそれを無視して、父の目を正面から見据えた。深みのある黒い瞳はいくらかチャコールがかかっていて、ひたすら力強い。きっとこの眼だけは父が死んだあとも力を失わないだろう。悔しい。「まあ、そんなとこだろうと思ったよ」と父は屈み込んで、机の一番下の引き出しから、小ぶりのボトルを取り出した。更に一番上の引き出しの奥のほうから煙草を取り出す。おや。父のほうを見やると、彼はいたずらっぽく笑った。
「これだけは、貧乏時代の名残でね。いまでも時々、隠れて吸っていたんだ。知らなかっただろう」そう言って父はセブンスターに火を点けた。ジッポを閉じる乾いた音が、静かに月夜に染み込んでいく。
僕たちはしばらく黙って、窓の外の夜を眺めていた。夜風が心地よく部屋を抜けて、ウイスキーの甘い匂いと、セブンスターの煙があたりを漂っている。僕はさっきのスコッチのボトルに口をつけた。甘さと冷たい痛みが喉を焼く。
僕の心は平穏じゃなかった。数十年間に渡って、君を、僕の姉を監禁し続けた父に、今夜ようやく制裁を下したはずなのだ。それなのに、父は死なない。煙草をふかして酒を飲んで、のうのうとしているではないか。
僕はまた黙って父の目を見据える。父は煙草を消した。煙の残りがまだ部屋を漂って、父の輪郭を白くぼかす。はっとする。僕はようやく悟った。そういうことだったのか。すると、父は突然大声で笑い始めた。
「そうだよ、ようやく気づいたのかい。俺はもうとっくの昔に死んでいる。いまお前が見ているのは、お前自身が作り出した俺の影、亡霊なんだ。ははっ、父の亡霊と対面する子だなんて、まるでハムレットじゃないか。やあ、ハムレット。父の仇を討ってくれるかい?ところで愛しのオフィーリアは一体どこなんだい?」そういって、父は腹を抱えて笑った。僕は父にゆっくりと近づいていく。
「ということはだ、なあ、聴けよ。お前の姉さんを監禁し続けたのは、一体どこのどいつだ?」
僕は父の胸から銀のはさみを抜いた。栓が抜かれた父の身体から、あたりに勢いよく血が飛び散って、僕はコートに返り血を浴びた。
「無駄だよ、お前はもう呪われているんだ。さあ、このあと自分がどこに向かい、何をすべきなのか、もう分かっているんだろう?くくっ、ああ、実に愉快な夜だ。それじゃあ、達者でな、ハムレット」
腕を振り上げると、僕は父の喉元に躊躇なくはさみを突き立てた。しばらく間を置いて、力を失くした父の頭ががくっと折れ、だらしなく背もたれに垂れた。父はそれっきり喋らなくなった。僕が背を向けて、書斎を出ようとドアノブに手を掛けると、背後で再び父が壊れたように笑い出した。振り向くと、変な角度に腕を突き上げて、僕になにかを突きつけている。青と白のエンブレム、車のキー。駆け寄って、もう一度はさみを引き抜く。喉に開いた穴から、音が聞こえた。
「無駄だよ」
高々と掲げられた銀のはさみが、真っ直ぐに父の眉間に吸い込まれていく。鈍い感触。時間をかけてもう一度引き抜いて、そのはさみをポケットに突っ込むと、僕は書斎を飛び出した。無意識に手には車のキーが握られていた。
車庫にはとても古い型のBMWが停めてあった。よく覚えている。3500cc直列6気筒DOHCエンジンに5速のマニュアル―――E34型M5。3.8リッターにモデルチェンジされる前の、3.6リッター型。何年間も乗られていなかったのだろう、埃を被りすぎて、せっかくの黒が酷くくすんでいるが、かろうじてエンジンはかかった。父の言ったとおり、僕にはこれから自分がどこにいくべきなのか、何をすべきなのか、はっきりと分かっていた。車の中のものを全部引っかき出して、車を空っぽにしてしまうと、悲しみの中心に向かって車を走らせた。山の稜線は、夜を幾層にもコントラストさせて、闇の奥深くへと僕を誘っていった。月は、見えなかった。