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第五節



 手足が冷たい。ゆっくりと時間をかけて感覚を取り戻す。頭痛は夜の浜辺に打ち寄せる波のように、ゆっくりと静かに引いていった。まさかと思い、後部座席のコートを手に取り、ポケットの中に手を入れる。かさかさと乾いた感触。ゆっくりと取り出す。折りたたまれた白い紙。世界で最後の完全な無垢。純白が夜闇にまぶしい。この紙が何を意味しているのか、開かずとも僕には分かった。現実。死という現実。君はもう戻ってこない。君が最後に作った切り絵をサンバイザーの間に挟みこんだ。折りたたまれた紙が潮風に震え、悲しい音を立てる。その頃にはもう、僕はほとんどの記憶を取り戻していた。だがまだ欠落している部分がある。姉さんが死んで、あの小屋に鍵をかけ、洋館に向かった。そこまではいい。だがその後の記憶がない。気が付くとここで車を運転していた。その間の記憶だけが抜け落ちている。なぜ僕はここにいるんだ?





 窓から入り込んでくる風が冷気を帯び始める。夜が更けてきた。月は依然として雲に隠れたままで、海はどこまでも暗く、そして深い。ふと小学校を思い出した。夏の日差しの中、白い校庭から見る教室は実際よりもずっと暗く見えた。暗く深い闇。教室の窓際に立っている少年は、闇の世界で出口を求めてさ迷う亡霊のようだった。いまになって、ようやく気が付いた。窓際の少年とは他ならぬ僕だったのだ。校庭で楽しそうに遊ぶ同級生達を、教室から眺めることしか出来なかった哀れな少年。太陽の光を浴びて元気に飛び回る子供の輪。僕はその輪に加わることはできなかった。なぜ。僕は異物だから。僕が輪に加われば、たちまち輪の均衡と調和は崩れ、僕ははじき出される。だから僕はおとなしく闇に身をゆだねる。そうだ。あの頃の教室の闇は、ちょうど今夜の海の黒と同質の暗さだった。あの頃は窓際に立ち尽くし、そしていまは湾岸の高速道路を駆け抜けている。つまらない冗談みたい。





 『夜想曲第20番』。ショパンの遺作。感傷のムードを湛えつつ、心象の奥の奥、分かつことの出来ない痛みを、甘い旋律に乗せて封じ込める。もはや同情をはさむ余地すらない。絶対的な悲しみを前に、僕らに出来ることは、ただ月を仰ぎ、許しを請うことだけなのかもしれない。主旋律は破滅の美の匂いで充満している。世界の終わり。懺悔のノクターン。あるいはレクイエム。孤独の歌は夜の大気に溶け、増幅した。





 コートを後部座席に戻そうと持ちあげると、なんだか湿っているのに気が付いた。恐る恐る街灯に手をかざす。毒々しいダークレッド。血。そうか。そうだったのか。





 切り紙の入っていたほうとは別の、反対側のポケットに、重みを感じる。そこに何が入っているのか、僕にはもう分かっていた。僕は誰なのか。何をしたのか。何故ここにいるのか。この重量感が何を意味しているのか。完全に理解した。




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