第四節
小さな窓から差し込む夕陽。その細い光線の中で、白く細い指が踊る。指は銀の大きなはさみを器用に操り、折りたたまれた白い紙を素早く切りそろえていく。陽光が銀に反射して、目をくすぐる。美しい情景。円。それは円だった。始まりも終わりもない僕たちの世界。今になってみれば、その思考はとっくに破綻していたのかもしれない。始まりと終わりがないんじゃない。始めから終わっていたのだ。
「私が死んだら」と、君ははさみから目を離さずに言った。不意の言葉に僕の反応は瞬間遅れたが、君は構わず続ける。
「私が死んだら、私の身体を食べて頂戴」
「え?」
「だから、私が死んだら、」
「や、それはもう分かりました。聞こえています。でも、」
君は相変わらず目を上げない。手の速度も緩まない。
「私が死んでも、あの人は葬式などあげない。そうでしょう。生きているいまだって、私の存在は葬り去られている。生まれてから今まで、ずっとこうしてこの小屋の中で生きてきたわ。死ねば私の身体は、どこか暗くて誰の目も届かない場所で朽ちていく。何も知らない私にも、それくらい分かるわ」
君の表情は少しも変わらなかった。僕は少し間を置いてから「そんな話よして下さい」と言ったが、君の耳には届かなかったようだ。
差し込む夕陽がぐっと赤くなり、部屋中に飾られた切り絵を血で染める。じきに完全に陽が沈む。そうすれば、昼でも暗いこの小屋は、すべての光を失う。この美しい切り絵も闇に溶けてしまう。たった一つの小さな窓。そこからの微かな明かりさえ奪ってゆく。落日とはどこか残酷な罰のようにさえ感じられた。無欠の暗黒。そこに出口は、ない。僕は不貞腐れて小屋の隅を見つめていた。沈みゆく太陽、暗い現実、止まらぬ時、自分の死後の話を淡々と行う君、僕はいじけていたのだ。同時に僕は憎んでいた。太陽を、現実を、時を、この世界を、何より父を。最後の光がちらちらと視界の隅で揺れている。
「ねえ、」手を止めて君は僕の肩に頭を乗せる。暖かい息遣いで僕の肩を湿らす。
「私は貴方の中で永遠に生き続けるの。ひとつになる。貴方が死ぬときは、同時に私の最期でもある。だからその日まで、貴方の中に生きさせて頂戴。お願い」
僕は君の手をきつく握った。それが肯定を意味するまでに、幾秒もかからなかった。言葉でも行為でもなく、この熱こそが肯定。僕の意思を手のひらから感じた君は、手を離して、先程まで切っていた紙を丁寧に広げる。切り絵。女の子と男の子が手を繋いでいるシルエットの切り絵が出来上がっていた。その淡い影が室内の夕闇に、白く、赤く浮かび上がる。それはいまの僕と君の暗示のようで、胸が詰まり、僕は堪らなく悲しくなってしまった。嗚咽を噛み砕き、飲み込む。「綺麗です」僕がそういうと、楽しそうに君は僕にそれを持たせた。僕はそれを慎重に畳んで黒いコートのポケットにしまうと、立ち上がり、扉に手をかけた。
「明日また来ます」
無慈悲な夕闇の中、君の目に赤く光が反射するのをじっと見つめて、僕は扉の外に、僕らの世界の外側に出た。ポケットから鍵の束を取り出して、鍵を閉める。
このとき気づくべきだったのだ。君の言葉の真意に。束からひとつ鍵が消えていたことに。
「貴方の中で永遠に生き続けるの」
遺体安置所には僕だけで行った。安っぽい蛍光灯のうち一本は、もう切れ掛かっていて、ちかちかと鬱陶しく点滅して僕を急かす。磨きたてのリノリウムの床。靴底の擦れる音は、世界で最も安らぎから遠い。ゆっくりと近づいて、顔に掛けてあった白くて薄っぺらい布を除けた。君の左手をぎゅっと握る。右手は原型を留めていなかった。どうして死んだ人間の身体は、こんなにも冷たいのか。大気が凍りつく。君の額にやさしく手を下ろし、撫でてあげる。冷たい。昨日、夕陽の中で握った君の手の温度。
僕は君の左手を持ち上げて、薬指だけを口にくわえる。そうして一気に噛み千切った。嗚咽に堪え、飲み込む。永遠の相の下に。ねえ、君。僕は一人じゃないってこと、僕には君がいるってこと、いまここで証明してみせてよ。お願い。僕たちはひとつなんでしょう。ここは寒すぎる。ここは狭すぎる。お願いだから、一人にしないで。お願い。お願いだから。
僕は生まれて初めての涙を流した。君が生まれて初めて見た空と引き換えに。哀れな犬の鳴き声が悲しくリノリウムに響き渡り、やがて壁に吸い込まれていった。慟哭。懺悔。足りない鍵。贖罪。
姉さん。今日、僕は父を殺します。