第二節
僕は黒い外套のポケットに手をつっこんで歩いていた。西洋風の豪華な庭園。派手なのに空虚、どこもかしこも金の匂いが染み付いている。ポケットの中の手が鍵束の冷たい感触に震えた。音にもならぬ憎悪の慟哭。君には聴こえているだろうか。ぎゅっと鍵束を握り締める。庭を抜けてしばらく行くと、道は暗い林に吸い込まれていく。鬱蒼とした林の奥にぽっかり開けた空間があり、そこには小さな小屋が建っている。庭と比べて幾分趣味のいい、こじんまりした瀟洒な建物。ありきたりな小屋。普通と違うのは、その小屋のあちこちに、サイズも色も違う扉が無数についているということだけ。
ここは僕と君の国、二人だけの世界。この完全無欠の円の中に僕らは真理を生きた。まやかしに呪縛された現世に背き、憂苦と絶望を繰り返すだけの未来を往なし、僕らの生をいとも容易く笑殺した憎き過去を封じ込めた。ここには「僕」と「君」のほかには何ひとつなかった。何ひとつ。僕らが生きる場所はここだけだったんだ。ここだけ。ここだけが強くひたすらに僕らの生。それなのに何故?
もうこことも別れを告げよう。円は内奥に闇を抱え、倦み、その全能性を失った。化膿と腐敗を始めた世界。神は無情にも僕から君を奪った。白くなった君の額の冷たさ。憎悪。再び慟哭。僕は常に現世とは取りも直さず地獄のことだと諦観してきた。阿鼻叫喚は人の世より出でし痛みの産声か。そう、まさに生き地獄。生は苦痛でしかなかった。
しかし、君。君。僕は生まれた瞬間から今日まで、この世界から酸素すら与えられなかった。僕の座席はどこにもない。居場所。そんな僕にとって、君だけがすべてだった。君。その存在を否定され、この国に監禁され続けた、哀れな君。君。最後に見た空の青さ、僕にも分けて欲しかった。それだけで、それだけで。
小屋の中であるものを見つけた。月の光を浴びて、艶やかに輝く銀。恍惚として、それを眺めるうちに、憎悪や悲しみとは一体なんなのか、一瞬分かりかけた気がした。僕はそれをポケットにしまい、小屋を出た。
それから、時間をかけて、扉の鍵をひとつひとつ閉めていく。二度と開くことなどないように。ここは僕と君だけの国。誰にも邪魔なんかさせない。二人の真理をこの場所に永遠に閉じ込めてしまおう。そうすることで僕たちの世界は完結する。空っぽの小屋を無数の鍵で封じ込めて、頬を伝う液体は生暖かい、僕にひとつの終末を希求している。わかっている。もうこの世界に僕の居場所などありはしないのだから。
すべての鍵を閉め終えると、僕は小屋に背を向けて歩き出した。庭の向こうの館から洩れる光が、庭園の影を怪しく浮かび上がらせる。最後の仕事を終えなければ。流されなければならぬ血。報いを与えねば。天の裁きなどに任せてはおけない。僕と君。アダムとイヴ。蛇にかどわかされて、禁断の実を口にし、神の国を追われた。これが神の僕らに下した結論だというのか。沈黙。氷点下。憎悪。闇に浮かびあがる巨大な洋館は、僕の中に息づく化け物のようで、僕らを見捨てたデウスの影のようで。
林から庭園に出たところに、誰のものだか分からない、大きな墓がある。僕はもっと早くに気づくべきだったのだ。この墓の下に眠るものが、一体誰なのか。あるいはもう知っていたのかもしれない。気づかぬふりをしていただけで。下限の月と館の明かりが、墓をやさしく照らしていた。僕は薄暗い夜道を足早に進む。ポケットには、さっき見つけた憎悪と、二人の世界の鍵と、もうひとつ、白い紙切れが入っている。