第一節
気が付くと僕は車を走らせていた。
車は高速道路の上を走っている。だが他に車は見当たらない。夜の大気が開け放した窓から車内に入り込む。そして僕の肺をゆっくりと潮の香りで満たしていく。海が近い。
カーステレオからは趣味の悪いピアノが流れている。低重音と高音部が交錯する主題。それと打って変わって中盤の甘美なカンタービレ。その危うげなのに揺るがぬ均衡。『幻想即興曲』。ショパンか。最低だな。
そう。僕の意識ははっきりしている。ショパンもわかる。ステアリングにも問題ない。それなのに、どうして。どうして、僕は「僕」のことを、何ひとつ思い出せないのだろう。僕の記憶はこの高速道路から始まっている。それ以前の記憶は冷たい海に横たえてきてしまったのだろう。
誰もいない夜の高速道路を駆け抜ける。備え付けの時計を見やると、「19:67」、完全にその意味を失っている。腕時計もつけていない。今は何時だ?ここはどこだ?厚い雲が月の光を覆い隠した。暗い海に目をやる。夜の海は際限なく膨張を続け、穏やかに闇に溶け出す。そうして息を殺して、誰かが死ぬのをじっと待っている。首筋を冷たい潮風がやさしく撫ぜた。街灯の光が僕の顔を窓に映し出す。うんざりするほどよく知っている顔。なのに、誰だか分からない。俺は誰なんだ?
なにか手がかりはないかと助手席やダッシュボードを軽く見回すが、それも徒労に終わる。不自然なほどなにもない車内。手がかりという手がかりが消されている。まるで誰かが故意に消し去ったたかのように。
バックミラーの角度を変えて後部座席を確認する。すると革張りのシートの上に黒のコートが無造作に丸めてあった。その隣には錆びた鍵束がぽつんと置かれている。不自然だ。きちんと眺めようと、振り返って鍵束に手を伸ばす。そこで突然、頭蓋を締め付けるような衝撃が走る。僕の視界は嘘らしい白でいっぱいになった。