コツと未熟と準備運動
リハビリを兼ねて馴染みのある魔法学園の番外編を書いていこうと思っております。時期は「厄介事万請負所」のその後です。そちらを読んでからお読みいただいた方が楽しめるかと。
朝もやに包まれた道を歩いて教えられた屋敷の前に辿り着くと緑と土と花の香りに出迎えられた。
重厚な作りの二階家は横に長くどこか硬く見えるのに細長い窓とアーチ形の外廊下の効果で美しくも感じられる。
花壇を中心にしていくつかの木々が前庭に植えられていて朝露に濡れてキラキラと輝いていた。
キリトはそれらを堪能しながら門から玄関ポーチまで歩き、そして扉の前で鈍色に光るノッカーを掴もうと手を伸ばしていったん引っ込める。
息を短く吸い姿勢を正して自分の鼓動を追いながら全神経を集中させた。
殺意のない気配に大丈夫だと言い聞かせるけれどこちらを伺う視線は消えない。
誰だろうか。
兄の代わりに表に出たのはまだ一度だけだし、顔や素性がバレている可能性は低い。
もちろんゼロではないけれど。
それともあの兄が「女の癖に」と悔しがるほどの才能を持ったこの屋敷の主がキリトを値踏みしているのかもしれない。
そうなのだとしたら臆していると思われるような行動は避けた方がいいだろうか――などと思い始めた時だった。
「入らないのか?」
「え?」
右隣に人影が落ちて声がかけられる。
驚いて顔を上げると赤い髪の青年が立っていた。
「ここに用事あんだろ?」
クアッとあくびをかみ殺しながら青年は左腕を伸ばして扉を開けた。「こいよ」と顎で促されキリトも後に続く。
扉を潜った先は貴族の屋敷だというのにそう広くはなくどこか殺風景だった。右手側の小さな小部屋からも人の気配はしないし、使用人が忙しく立ち働く音も空気もない。
「え、と。あの」
「なんだ?どうした?」
もしかしてこの青年がこの屋敷の使用人のひとりなのかと問うと「いいや。ただの間借り人だな」と頭を掻く始末。
どうなっているのかと戸惑っているキリトの鼻がパンの焼けるいい匂いを嗅ぎつける。
「使用人はティエリひとりだ。セシルは部外者がちょろちょろ出入りすんの好きじゃないみたいだしな」
「え?ひとり」
「セシルに用なんだろ?今の時間なら部屋にいると思うけど。呼んできてやるからそこで待ってろ」
青年は真っすぐに伸びた廊下を歩いていく。途中で曲がったので見えなくなった。仕方なく壁際に寄ってしばらく焦げたバターの香りと卵が焼ける匂いを堪能して時間を潰す。
ほどなくして「おい」と呼ばれ慌てて見渡すが青年の姿はない。声も少し遠くでしていた。廊下をのぞき込むと曲がり角から同じようにして青年もこちらを見ていて思わず笑ってしまう。
手招かれたのでそこまでいくと青年の後ろにある階段を上って初めのドアに行けと指示された。どうやらひとりで行けということらしい。
「ありがとうございます」
「いいって。気にすんな」
ポンッと叩かれた肩が温かくなる。一礼して階段を上り言われたとおりに最初のドアをノックした。
「開いてる」
簡潔な返事は高くもなく低くもない声でキリトの入出を許可する。ドキドキと跳ねる心臓を深呼吸することで抑えて「失礼します」と断りを入れてドアを開けた。
中は執務室のような作業部屋のような不思議な空間で、壁に棚が並び大きな机が中央に置かれている。窓を背に机に腰かけて数枚の紙を手にしている人物はチラリと琥珀の瞳を上げてキリトを見た。
その瞬間ドクリと血が沸いた。
まるで逆流でもしたかのように脈拍が乱れる。
開けられた窓から風が吹き薄緑の柔らかな髪が揺れ、差し込む光が金色に輪郭をなぞっていく。
動けないキリトをじっくりと観察した後で唇の端がゆっくりと持ち上がる。
「へえ。似てないね」
この屋敷の主セシル・レイン・クインス男爵は手にした書類を机の上に投げやりそう評した。誰と比較したのかは聞くまでもない。
「どの兄とも似てないんです」
「そう。で、なにを教えてほしいって?」
キリトの密かなコンプレックスも簡単に流されてがっかりした自分に驚く。初めて会う相手に同情してもらいたいなんて思っていたなんて。
まさか。
「ちょっと。聞いてんの?こっちは忙しいんだけど」
男爵は王城で働いているので出勤前の貴重な時間を割いてもらっている。呆れた物言いも致し方ない。
「あ!はい。すみません。動きづらい正装の時にも変わらず動けると聞いて。コツを」
「あんなの誰が着ても動き辛いよ」
「でも兄があなたなら自由に動けると」
「ライカが?」
「はい」
信じられないというような表情の男爵にキリトは苦笑した。
「”鍛え方の違いか、体の構造が違うのか”って悔しそうに言ってました」
「違うのは体の使い方なんだけど鍛えることしか能のない人間には理解しがたいんだろうね」
「体の使い方ですか?」
「そう。あとは慣れ。ライカだってもう相当自由に動けるだろうに。自分が教えるのが面倒くさいからってこっちに弟を押し付けないでほしいんだけど」
「兄も忙しくしていてなかなか家に戻ってこれなくて」
ヘレーネが名を与えらえ王子として認められてからはほとんど城に詰めている。部屋で寝ることも家で食事をすることもなかった。それを寂しいなんて思っていることは誰にも言えないのだけれど。
「知ってる」
だから渋々だけれど引き受けたのだとぼやきながら男爵は右奥の壁にある小さなドアの向こうに消えた。
ごそごそとなにかを漁る音をさせていた男爵が二着礼服を抱えて出てくる。
「着替えて」
「え?」
「急いで」
「ええと」
「なに?一人前に恥ずかしいわけ?」
目を細めクスリと笑う顔は中性的で、服装も細身のズボンとゆったりとした白いシャツなので性別が判然としないけれど兄から男爵は女性だと聞いている。
さてどうしようかと迷っていると男爵がごそごそと靴を脱ぎ放り投げた。そしてそのままためらいなくズボンに手をかける。
「え!?ちょっと」
「遅刻して怒られるのはいやだからね」
突然始まった生着替えに頬が赤くなるのはご容赦願いたい。白いシャツがたっぷりとして長いので下着は見えないがすらりとした脚が見えている。
「なに?脱がしてあげた方がいい?」
「け、け、け、結構です」
「なら手を動かす」
慣れが肝心だと言った通り男爵は手際よく着替えていく。キリトは伸びにくい生地を相手にズボンを穿くだけでも一苦労だ。なんとか着替え終わったときには汗だくで息が上がってしまっていた。
「だめ。遅い。そんなに手こずってたら下着一枚で暴漢と戦う羽目になる」
「正装でなければこんなに手間取りません」
「そりゃそうだろうね」
だけど
「あんたなにしにここに来たわけ?」
キリトはハッとして目を伏せた。
どんな時でも、どんな状態でも過不足なく動けるようになるためには色んなことを習得しなければならないのだ。
正装だからとか、動き辛いとか言い訳にも理由にもならない。
「すみませんでした」
「四六時中着ておけとは言わないけど、着替えぐらいは手際よくできるよう家で練習しとくことをお勧めするよ。さてどんな感じ?」
「生地が厚くて伸びないので動き辛いです。腕を動かそうにも肩と背中の方がつったようになりますし、しゃがんだり踏み込んだりもできなくはないですが違和感というか」
全体的にかっちりと形に嵌めこまれたかのようで動きにくいのは変わらない。装飾やベルトもそこにあることを忘れてしまうと、なにかのはずみで引っかかって動きを邪魔されることもありそうだ。
「動き辛いって言ってもダンスくらいは誰だってできる。踊ったことは?」
「ありません。そもそも教わってもいないので」
「ふうん」
顎の下に手を添えて小首を傾げて男爵は楽し気に微笑んだ。片足を後ろに軽く引き胸に手を当てて一礼すると手を差し出してきた。
「では一曲おつきあいいただけますか?」
「え?今、踊れないと」
「大丈夫。リードする」
キリトが首を左右に振って一歩下がった間を優雅な動きでつめた男爵の右腕がそっと抱き込んだ。向き合った状態で右手を握られてさらに混乱する。
「力を抜いて」
耳元で囁かれ背中が粟立つ。
なにがなんだか分らないまま男爵に引かれて動き出す。初めは三拍子のリズムで足元は決まったステップのみだったので簡単に覚えられた。中央にある机にぶつからないように時折くるりと方向を変えながら隙間を縫うように踊る。
「ふうん」
どこか感心したような響きをそこに見つけてキリトはなんだか嬉しくなる。顔を上げて目が合うと男爵はにこりと笑い――急にスピードを上げた。リズムなんて規則的なもの全くない。動きだって激しく縦に横に振り回される。ただ倒れないようにと必死で軸をブレさせないようにするのが精いっぱいだった。
これはダンスなんかじゃない。
まるで格闘しているようだとグルリと繋いだ手を高く上げて回されながら男爵を眺める。動きの制限がある服を着ているとは思えないほど伸びやかに腕を伸ばし、柔らかな所作と軽やかな足取りで自由自在に緩急をつけて踊っている。
「……すごい」
感嘆の声に男爵は眉を上げて「あんたもちゃんとついてこれてるじゃないか」と返す。
確かに言われてみれば腕すらまともに真っすぐ上げるのにも苦労していたはずなのに、男爵が導くと生地の圧迫もなくするりと動くのだ。
不思議だと思いながら意識して見ていると生地が引きつって動きづらくなる手前でほんの少し角度を変えたり腕を回したりしてそれを回避しているのだと解る。
なるほど”体の使い方”とはこういうことか。
でも礼服にはいくつものデザインがあって常に同じものを身に着けるわけにもいかない場合もあるので一朝一夕にできるようになるわけではない。
中に着るブラウスやベストなどでも変わってくるわけで。
「コツはつかめたみたいだね」
「なんとなく、ですが」
「この短時間でなんとなくでもつかめればいい方じゃないの」
「ありがとうございます。これでダメなら伸び縮みして見栄えのいい生地を開発して縫製と仕立てまで全部やらないといけないかなって兄さんと話してたんですよ」
そうならないで良かったと打ち明けると男爵は急に真顔になって固まった。ぶつぶつと「伸び縮みする見栄えのいい生地」「縫製と仕立て」と呟いたかと思えばキリトの両肩をガシッと掴んで笑う。
「ちょっとその話進めてもいい?」
「はい?」
「リディが今ハスタータの技術を使って新しい織物を作ろうとしてるんだ。独特な染織技術がハスタータにはあってあんたたちが望むような生地を作れれば、いや、需要は騎士団とかにもあるか」
「え?」
「いい商売になりそうだけど先に大和屋に話を通す必要があるか。できれば手広く商売はしたいけど」
「商売、手広く」
誰もが動きやすい礼服を手に入れられたらこちらの利点はなくなるのでは。
軽々しくアイディアを漏らしてしまったことを後悔しながらも、自分たちで開発する手間も技術も少ないことを考えれば実現は難しかったものを惜しんでもという気持ちで揺れる。
「心配しなくても同じ条件ならあんたらは負けない」
断言されたことにキリトの中の誇りが慰撫される。
「一両日中にリディと大和屋に交渉に行くから伝えておいて。おっとそろそろ出ないとやばいか。着替えるの面倒だし上着だけ替えて行くか」
「こんなに着心地の良くないものを一日中着て仕事をするんですか?」
「ん?別に問題ないよ。一日くらい。それに今度ヘレーネと一緒にショーケイナに行かなきゃならないからそん時は一日どころかずっとだろうし」
ショーケイナはロッテローザ王女が嫁いだ隣国だ。そこへ今度王子となったヘレーネが妹に挨拶をかねて祝いの品を届けることになっていると父から聞いていた。
それに男爵も同行するのか。
もちろん兄であるライカも共に。
「着替えたら下で朝食を食べて帰ればいい。ティエリの料理は食べて損はないから」
じゃあねと軽い挨拶を残して男爵は部屋を出て行った。その背中を見えなくなった後でもぼんやりと追いかけて虚しくなる。
まだなにもかもが足りなくて焦りだけが自分の中にある。
ぎゅっと指を握りこんでキリトは奥歯を噛み締めた。
やはり苦労しながら礼服を脱ぎ着てきた服へと着替えなおしてようやく力が抜ける。腕と肩を回し、屈伸してから軽く跳ねると隅々まで血と気が行きわたっているのを感じた。
「うん。いつも通り」
軽く両頬を手のひらで打って景気づけてキリトは階下へと下りる。ちょうど厨房から小柄な少女が出てきて「どうぞ」と近くの部屋へと促された。
長いテーブルの上には真っ白いテーブルクロス。パンが盛られた籠とサラダとオムレツが乗った皿。それから温かな湯気を上げるスープ。一口大に切られたフルーツ類とピッチャーに入ったミルク。チーズやソーセージ、白身魚の香草焼き。マッシュポテトとミートソースのパスタ。
「朝から、こんなに?」
「あとで紅蓮さまがいらっしゃいますので無理にすべて召し上がろうとしなくても問題ありません」
「はあ」
「私は片付けがありますのでお構いはできませんがどうぞごゆっくりなさってください」
一礼してから退出するまでの無駄のない動きはいっそ潔い。キリトが返事をするより先にいなくなってしまった。
握り飯を食べては来ていたが普段はやらないような動きをしたり、緊張しっぱなしだったので小腹は空いている。ありがたく席に着いて手を合わせた。
そろそろ腹八分という頃合いに眠そうな顔で青年が入ってきた。髪が濡れているのでシャワーでも浴びたのだろう。キリトの正面に座り黙ったまま食事を開始する。
食べ終えたら帰ろうと思っていたのになんだか帰りづらくてミルクを飲みながら一心不乱に食べる青年を眺めた。
歳はいくつくらいなのだろう。
兄と同じくらいだろうか。
身長だけでなく体もがっしりとしていて締まっている。気を張っているような様子もなく隙だらけに見えるのに不意を衝くにはどうしたらいいだろうかと考えてもこの状況では難しいような気がした。
ならば正攻法で――なんて思考を変えた時だ。
「くっ」
喉の奥で噛み殺せなかった笑い声が前の青年から漏れた。肩が揺れ大きな手のひらが口元を覆うけれどもう遅い。
「なんですか?」
どうして笑われるのか。
分からなくて聞くと青年は「悪い」と謝った。けれども激しく笑いながら。
「だってよ。ジロジロ見てんなって思ったら急にどうやって殺ってやろうかって眼を鋭くしてくるから。おとなしそうな顔しててもライカの弟なんだなって思ったらなんかな」
「そんな」
まだ一人前ではないとしても、そう簡単に心の内を読まれるほど未熟ではないはずだった。殺気を消すのも気配を殺すのも幼いころから厳しく躾けられている。
なのに
「いや。お前がどうこうって話じゃない。オレが特別なんだ。戦闘民族の血を引いてる上につい最近まで戦地で命のやり取りしてたから」
「は?」
「お前なんか面白そうだからこれ食い終わったらちょっと手合わせしようぜ」
「手合わせ、ですか」
”なんか面白そう”という理由で手合わせを求められて戸惑う。
「忙しいか?」
「いえ、特には」
チクリと胸が痛む。
仕事がある兄たちとは違ってキリトには急ぎの用事などない。
「ならやろうぜ」
浮き浮きとした声には純粋な好奇心しかなくて断るのも悪い気がした。それに最近は祖父と父も多忙で稽古もつけてもらえていないし。
「ご満足させられるかは分かりませんがよろしくお願いします」
「おう。じゃあ少し外で準備運動でもしてろ」
「はい。そうします」
何事も経験だと食事を再開させた青年を置いてキリトは立ち上がる。焦ったところで一足飛びに歳を取ることも強くなることもできないのだから。
まだ先は長い。
いつかは役に立てるように今はそのための準備をしっかりしようと己を戒めた。