ノアールの誤算
本校舎の二階にある魔法実習室にてノアールは小さな空色の石に様々な意味のある言葉を刻みつけていた。
三限目が終わってから随分と時間が経っている実習室には誰もおらず、少し前までは廊下を歩く生徒の気配が時折通り過ぎて行ったが今ではしんと静まり返っている。
作業机の上には図書塔で借りてきた『魔法構築応用編』と『魔法道具使用法と効能、及び発展編』の本が二冊広げられて置かれていた。
応用編では変化とそれが与える影響のページが、そして魔法道具の本は後半の道具がどのように働くのか詳しく書かれている部分が開かれている。
形の良い眉を寄せて瞳を細めて集中しながら再び魔法構築に必要な言葉に魔力を込めて手の中の石へと送り込む。
ふわり。
青い光が大気に溶けて羽毛が舞う。
ノアールはその様子をうっとりと眺めながら、最後の言葉を強い思いで吹き込んだ。
「…………できた」
小指の爪ほどしかない空色の石は魔力を帯びて内から発光し、作り手であるノアールの匂いに似た気配を帯びていた。
ほうっと溜息を洩らし、力の入りっぱなしだった背中が今更ながら痛むことに気付いて椅子の背もたれに凭れ掛かる。
掌中の石を見下ろしてとうとうやったのだと歓喜に震えた。
構想に十日、そして裏付けに三日。材料集めに一週間かかり、実際に挑戦して三度失敗した。
そして漸く。
「できた――のかな?」
失敗はしていないはずだ。
前までの三回共途中で石が割れたり、罅が入ったり、色が濁ったりした。今回は魔力を帯び美しい色形をしているのだから、間違いなく成功である。
だが。
果たしてノアールが思っているような効果を発現させてくれるのかどうか。
そこが問題である。
不安は残るが理論も構想も問題は無いはず。
「仕上げてしまおうっと」
小さく頭を振って小さな箱を引き寄せると蓋を開け、中からペンダントトップの台座を取り出した。
雫型の台座に空色の石を慎重にあてがい指先に力を入れて押し入れると、金の留め具が優しくしっかりと受け止めてくれる。
上部の輪に金の鎖を通せば、ちょっとした贈り物にはぴったりのペンダントが完成した。
「よし。さっそく届けに行こう」
上着のポケットに滑り落としてから作業台の上を片付け、鞄に全てを突っ込むと急いで部屋を出た。
階段を下りると直ぐに玄関ホールだ。
医務室の方からは女子生徒達の楽しげなお喋りが聞こえてくるので、アイスバーグ狙いの女子が押しかけているのだろう。
ノアールには普通の女子との会話など無意味で理解不能な物過ぎて迷惑以外の何物でもない。
そんな女子の相手をしなくてはいけない医師を気の毒に思いながら玄関の大きな両開きの扉を潜って外へと向かった。
潮の香りを含んだ風が正面から吹いてきて思わず顔を背けるが、脚だけはそのまま真っ直ぐに校門へと進ませる。
今は眠りについている二体の門番の横を抜けて登校用の魔法陣へと足早に上がった。
軽い浮遊感と酩酊感。
フィルは魔法酔いして具合が悪くなるといっていたが、ノアールは逆に心地よく気分が高揚する。
魔法に関しては個人差が激しく、才能は努力では開花しない。
幾ら勉強してもやはり才のある者の足元には及ばないのだ。
残念なことに。
「さてと……一体何処に居るのかが問題だな」
学びの通りへ足を踏み入れると途端に賑やかになる。
学園の生徒がローブを纏ったままあちこちを歩き、店で菓子やパンを買って食べたり、立ち話に興じたりしていた。
その中を知識の通り目指して一目散に通り抜けると緩い坂道を一気に駆け下りる。
すり鉢状になった王城前広場にまで来ると学園の生徒の数は減り、更に旧市街へと入ると一般市民より身なりの整った人達ばかりが目に入った。
馬車の通りも多い。
巻き込まれないように端っこを歩き北上しながら途中で脇道に逸れる。
馬車の通る道はゆっくりと蛇行しており徒歩ならばかなりの距離になるが、こうして脇道を使えば近道になり運動能力と体力に自信の無いノアールでも簡単に家を訪ねることが出来るだろうと教えてくれたのはセシルだった。
「別に馬車で乗り付けてくれても、その分の料金払ってあげるから辛いならそうしなよ」
ヘレーネに雇われ高い給料を貰っている友人は事も無げにそういうが、ノアールにも男としての意地と見栄がある。
一応伯爵家の子息である自覚もあるから女であるセシルに払ってもらうなど言語道断だ。
それでも授業料と生活費を奨学金で賄っている苦学生としては、伯爵面して馬車で乗り付ける見栄を張ることは出来ないのでこうして足を使っているのだが。
この道は貴族の屋敷に仕える侍女や従者が使う道で比較的安全ではあるが、暗くなった時には使わない方が良いといわれていた。
空を見上げ茜色に染まり始めているのを確認し、帰りは近道では無く遠回りしてバイト先へと向かわなかればならないなと覚悟した。
路地から出て東の方へと進んで行くとほどなくして見えてきたのはセシルが住むクインス家の屋敷。
鉄の門を押し開けて庭に出るが、そこはなんとも物悲しい景色しか広がっておらず、趣味の良い屋敷との比較があまりにも貧相すぎて残念すぎる。
植物にも造詣の深いセシルならばどんな季節でも鮮やかに彩れる庭を設計することなど容易いことのはずなのに、それをしないのはこの屋敷がやはり仮住まいに過ぎないからだろう。
愛着を持って庭を育てるつもりがないのだ。
美しい庭園は一朝一夕では作り上げることは出来ない。
長い歳月と愛情を注いで初めて完成する物で、だからこそ貴族は腕のいい庭師を欲しがり大切にする。
玄関扉の前に立ちノックをしてもこの屋敷に使用人はひとりしかいないので、他の作業をしている時は気づかれないことが多い。
ノアールは不躾にも扉を開け放ち「こんにちは!」と声をかけて中へと入り込んだ。
玄関部分は広くは無く、普通の屋敷ならば右手側にある使用人控えの間から直ぐに人が出てくるがここには侍女ひとりしか雇っていないのだから当然誰も出ては来ない。
その部屋も確か使われていないはずで、白い布が机や棚にかけられていた。
正面の廊下は真っ直ぐでその奥の方から野菜の煮込まれるいい匂いがするので今はきっと夕食の準備をしているのだろう。
ノアールは匂いに誘われるように廊下を進む。
廊下の隅まで掃除され、窓もピカピカに磨かれているのに感心しながら客間と食堂を通り過ぎた。
一番奥の厨房は料理人が十人程立ち働いても余裕がある程の広さがあるのに、現在使用されているのは一番手前の場所だけで奥の方はやはり白い布がかけられ火の気が消えている。
「こんにちは。ティエリさん」
「あ!すみません。私ったら、また気付かずに」
声をかけられて始めて気づいた少女は味見をしていた鍋から顔を上げてノアールを振り返ると恐縮して頭を下げた。
「いや……この広い屋敷にティエリさんだけしか雇っていないセシルが悪いんだから。気にしないで。僕も勝手に入ってきちゃったし」
「そんな!侍女としてあるまじきことです!もっと神経を尖らせなければ」
悔しそうに顔を歪ませる侍女ティエリは雇用主であるセシルをこよなく信奉し、彼女のためになることならばどんな努力も惜しまない覚悟でいる。その瞳に主に向けるべき親愛の情では無く、それよりも情熱的で純粋な想いが宿っているのを見てノアールは小さく息を吐く。
セシルの人を惹きつける力は更に強くなっている。
意図的にその能力を使って社交界を遊び回り、情報を得る仕事を引き受けているセシルはそう振る舞えば振る舞うほど輝きを増し、芳しく匂いたつ。
巧みな話術とレインの証しである琥珀の瞳に見つめられれば大抵の人間がその前に膝を折り、誘われるがままその腕の中に落ちる。高い誑かしの能力と技術による立った一度の逢瀬で虜にし、次を希う人々を嘲笑うように今度は焦らす。
駆け引きで優位に立ち、少ない見返りをちらつかせて情報を得るのだ。
ヘレーネのために。
セシルの父であるレインは、ただそこにいるだけで腰が甘く疼くような人物だった。
それに比べればまだまだ未熟だともいえるセシルの能力だが、それでも十分効果があり社交界の淑女や令嬢の熱い視線を全て攫っていく。
成長し、熟してしまう前になんとかしなくては。
「これ。セシルに渡しといてくれる?」
ポケットから取り出したペンダントを差し出すとティエリがきょとんとした顔をして両手で受け取った。
「これは……もしかして、贈り物……ですか?」
ちらりと瞳に閃いて見えたのは嫉妬か。
「えっと。セシルの能力を押える魔法道具だって伝えてくれれば、多分解ると思う」
「魔法道具?」
「そう。えっと効果があるかはちょっと不安なんだけど」
「かしこまりました」
どうやら贈り物ではないらしいと納得してティエリは微笑むとペンダントを大事そうにエプロンのポケットにしまう。
その様子を確認してからノアールは「じゃあ、また来るから」と厨房から出る。
急がないとバイトの時間に遅刻する。
「お気をつけて」
食事の準備があるティエリはその場で深々と頭を下げて送り出す。
それに「ありがとう」と応えてノアールは小走りで廊下を走った。
☆ ☆ ☆
「ノアール!」
乱暴に厄介事万請負所の事務所に乗り込んできたのはセシルだった。
怒鳴り声というよりも悲鳴に近いその声に、応接室で茶を淹れていたノアールは飛び上がって事務所へと急いだ。
扉を背にずるずると床に座り込むセシルの服は乱れて、柔らかな髪もぐちゃぐちゃになっている。
殴られたかのように左頬が腫れていて、唇の端には血も滲んでいた。
どうやら全速力で走って来たようで肩で大きく息をしながら喘ぐように口を開けている。
「どうしたの!?一体なにが」
「酷い目に、あった!」
ぐいっと唇の端を拭ってから一呼吸吸い込むと吐き出す時に言葉だけでなく苛立ちを投げつけられた。
目の前にしゃがみ込んだノアールの胸になにかを握りしめた右拳をぶつけてくる。
「これ」
指の間から見覚えのある金の鎖と、馴染み深い己の魔力を感じてセシルの手の中に握り込まれている物がなんなのか直ぐに思い至った。
「そうだよ!ノアールが持ってきた魔法道具の所為で服を剥かれそうになったし、殴られて犯されそうになったし、会う奴みんながいつもより好色で残忍そうな目で見てきた。もう!一体なんなのさ、これは!一体なにを作ったわけ?あたしにどうなって欲しいの!?」
首筋に残る鬱血の痕と無残に引き千切られたシャツの胸元。
肌着の下にある形の良い膨らみの近くにも鬱血と引っ掻き傷があるのが見えてノアールは背筋が凍った。
「ねえ、なにも――?」
最悪の状況を想像して青くなり、恐る恐る尋ねるとセシルは嘲笑するかのように唇を歪めて「今更あたしの貞操を心配しても意味ないよ。でも必死で抵抗して逃げてきた。ノアールに文句いうためにね」と非難を籠めた瞳で見つめてくる。
「ごめん。でもどうしてこんなことになったのか、僕にも解らない」
「解らないって、ちょっと。あたしはティエリにこれをつければレインの能力を押える効果があるって聞いたんだけど」
「直接は抑えられるかは解らないけど、少しは解決になると思ったんだよ」
「言い訳はいいから。これ、一体なんなわけ?」
「それは」
説明するよりも実際につけて見せた方が解るだろう。
掌を上に向けて差し出すと察しの良いセシルは右手をそこへ移動させてぱっと開く。節の無い長く綺麗な指から解放されたペンダントは温もりを連れてノアールの掌に落ちてきた。
魔力を秘めた空色の石。
長めの鎖は留め具を外さなくても首にかけることが出来る。
そっと手を離すと石が胸元で揺れた。
「……どう?」
石がちかりと内側から光ったのを確認してから面を上げて問う。
セシルの表情は動かないが、琥珀の瞳の瞳孔が驚いた様にほんの少し開いて直ぐに収縮した。
そして口元を緩めると「醜悪だね」と率直な感想を述べた。
「人は見た目で判断する生き物だから、容姿が変わればセシルに邪な感情を抱く人間も少なくなると思ったんだけど――逆効果だったみたいだね」
今どんな風に友人の目に自分が映っているのかは解らないが、見た者の中で一番醜い顔に映るように魔法が作用するようになっている。
正常に作用しているのならばセシルにとってノアールの顔は近づくのも、視界に入れるのも耐え難いほどの作りになっているはず。
醜悪だと評されたのだから間違いなく効果はある。
それなのになぜセシルの容姿が見るに堪えない程の醜さとなっても人々を惹きつける魅力が損なわれないのか……。
「ノアールって本当は馬鹿だよね?」
「うっ、なんで!」
くすりと微笑んでそのなんでも器用にこなす指でノアールの頬を撫でてから両掌で優しく包み込んでくる。
「人間ってものを全く解ってない。上辺だけの綺麗な所だけ見て来たから仕方ないんだろうけどさ」
額をこつりとぶつけて正面から瞳を覗きこみ、セシルは憐れむような視線を注ぎ込んでくる。
彼女がいうようにノアールは極力人間の汚い部分からは目を反らして生きてきた。
そのせいで今回の魔法道具が上手く機能しなかったのだとしたら、これからは意識してそういう部分に注視する必要がある。
「なにがいけなかったと思う?」
自分に足りない物は自分では見つけることは難しい。
素直に他人に答えを求めた方が早く効率がいい。
特にじっくりと失敗を振り返っている場合ではない時は。
「そうやって聞いてくる所は可愛くてたまらないけど、簡単に得られた物に価値があるかは疑問だね」
でもきっとノアールは人の昏い部分を受け入れられないんだろうし、とセシルは苦笑して天井へと視線を上げた。
「人は」
太古の昔から他者に利用され奪われ続けていたレイン一族は誰よりも人間の欲望や汚い感情に晒されてきた。
そのレインであるセシルの口から語られる人という者の本質は正直にいえば恐い。
それは少なからずノアールの中にもある感情だからだ。
今は未だ知らなくとも。
確かに存在するのだから。
「優劣をつける生き物なんだよ。自分より劣る者を護りたいとも思えば、傷つけて服従させたいとも思う。見目麗しい女を心で求めながら、たとええ醜女でも傍にいれば身体を求める。顔が醜くても暗けりゃ良く見えないからね。明るくても顔さえ見なけりゃ快楽は貪れる」
「そんな」
「綺麗なノアールには解らないかもしれないけど、相手が醜く嫌悪の塊のような姿であればある程、人間は優越感を得、更に愉悦に浸りたいがために嗜虐的に残虐性を剥き出しにする。相手が泣き叫んで許しを請う姿に興奮する――欲深い生き物」
「だからセシルはこんな目に」
だとしたらノアールのせいだ。
良かれと思って作って渡した魔法道具は逆効果をもたらし、友人を危険な目に合わせてしまった。
「ちゃんと人間の生体と感情についても勉強しなよ。ノアールは純粋無垢な赤ちゃんと一緒だ。悪い女に騙されないか心配で仕方が無いよ」
「……善処します」
「よろしい。それからね、レインの力は容姿に関わらず作用する。いっておいたはずだけどね。血が呪われてるって。可能ならばこの体内に流れる血を全て抜いて他人の血を移植できれば呪縛から解き放たれることが出来るのかもしれない」
「そんなことできないよ。危険すぎる」
「人を誘うといわれるこの目を抉ってルーサラのように盲目になればあるいは、ね?」
「セシル、他に方法を考えるから」
そんな乱暴な考えをしないで欲しい。
「本当にノアールは優しいね」
セシルはため息交じりに囁いて目を細めて笑む。
ノアールの首から鎖を引っ張り外してから、部屋の灯りに空色の石を翳してまじまじと眺めながらレインに纏わる話を語る。
「長い歴史の中でレインの中にも醜い者がいた。そのレインは大人になる前に人の手に落ち、さんざん嬲られ痛めつけられ恐怖の内に死んだそうだよ。だからそれからは子供を作る相手に美しい者を選ぶようになった」
不幸なまま子供が死んでしまわないように。
容姿が優れていれば、相手に見た目で優位に立つことが出来るから。
「打算と計算だけどそれが重要だったからね」
レインの技術は己を護るための方法。
そうしなければ生きていけなかった。
普通の人間達と同じ世界を。
「また、作るよ」
奪い奪われる関係でしかレインと人間が共存することができないのは悲しすぎる。
ノアールは友人が駆け引き無く、自由に安心して生きていける世界を作りたかった。
そのために魔法を、知識を磨きたい。
「実験台になるのはごめんだよ」
肩を竦めて首を振りながらも嬉しそうに微笑むから。
「僕は、諦めない」
決意を込めて口にすればセシルは「期待してるよ」と小さな声で囁いて応えてくれた。
それだけで頑張れる。
たとえ何度失敗しようとも必ず。