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グリム童話集の真実とは? 子供向けのたわいない童話? メルヘンの王国? ドイツ人の魂? 残酷ホラー童話? 血まみれ童話?それとも深い真実を暗示した寓話? 極私的グリム雑論

作者: 舜風人

ドイツに伝わる民話の発生は、、、

まだドイツがうっそうとした暗い森におおわれていて

その森にはオオカミやクマやノームや悪魔や魔女が住んでいて

村人にとってその暗い森は永遠に恐れと恐怖でしかなかった時代。

それがグリム童話のおおよそのバックグラウンド(時代背景)です。


そしてその頃はもちろん民主主義も人権もそんなものは皆無であり

支配者であるごく一部の領主階級とそうして大多数の農奴がいて

農奴は貧窮と飢えと、虐待に耐えるしかなかった時代。

農民の寿命なんてせいぜい20代で終了だった、そういう時代です。

それがグリム童話の時代背景ですね。



そうした農奴たちはといえば過酷な税務と過酷な労働とで搾取されつくし

男たちは戦があれば兵隊にとられてあえなく戦死

女たちは12歳にもならないのに、もう結婚して

不衛生な環境で出産して20歳にもならずに死んでゆくなんてことが別に

珍しくもなかった時代、それがグリム童話の舞台です。

何しろその頃の農民の平均寿命は

おそらく、、、30歳前後、、いや、20代後半程度だったでしょう。


疫病や不衛生飢えと貧窮で何しろ人がもう、、20歳にもならずに、ボロボロ、、死んでいった時代です。

幼児や赤んぼの死亡率も、とんでもなく高くて

無事に成人になるなんてほんのわずかだったのです。

ですから娘は12歳にもならずにさっさと結婚しないと

間に合わない?ってわけですよね。

だって20代ででもう終わり(死亡)なんですよ。

いえ、疫病で20歳になれずに死ぬかもしれないんですよ。


12歳でも遅すぎる?だからその頃はとても早婚だったのです。

そういう時代背景で生まれた

農民の昔話、夕方、、過酷な労働がやっと終わって炉辺に集まり

故老や話好きのおばあさんが語る貧乏人が、夢のような成功話とか

思わず膝を打つような、頓智話、

そしてちょっとエッチなお話とか

そもそもこうした民話とはその発祥は

子供向けのものなんかじゃ、全くなかったのですね。

だからグリム童話は正確に言えば童話(童子のためのお話し)なんかではないです。

あくまで口承民話であり大人向けのものですね。

ですから生の民話というのは、、、原話は、もっと過激でもっと残虐でもっとエッチ?です?

そこには農民たちの丸出しの欲望や夢やあこがれや残酷趣味や報復趣味やエロ系が

もうそのものずばりでむき出しで表出されていたのです。

だからグリム兄弟がまあ苦心して?グリム自身ははエロ系は大嫌いだったので?


原話のそのエロ系?話などは、、かなり、削除してあるいは薄めてありますが、、

ところが、このグリムという人は勧善懲悪が主義ですから、悪い奴はもう徹底的に痛めつけるという主義でして、生の民話の、、その残虐な報復についてはそのまま残してあります。

というかむしろ強調したりもしていますね。

だから他の国の民話などはかなりエッチ系が多いですが

(その典型がアラビアンナイトとかデカメロンでしょうか。)

グリム童話にはそういう話は皆無?ですよね。

グリムの配慮で慎重にそういうところは避けられています。

ところが残逆な報復とか悪い奴への罰となるとグリムの筆は冴えわたるのですね。

八つ裂きにしたり

焼かれたり

血の海になったり

ちょん切られたり

人肉を食われたりと

やりたい放題です。

まあ、、まるでホラー映画の世界みたいですよ。

ですから原作を今の子供にそのままま読ませていいのか?

という議論が沸き起こるのですね。、

と同時に、


≪ほんとはコワイグリム童話≫


みたいな本がベストセラーにもなったりするわけですよ。

まあですからそもそも民話は子供のためなんかじゃやないという

大前提を忘れないことでしょうね。


民話とは、そもそも残酷なものなのです。


民主主義も人権も男女平等もなかったころの農民の深層心理が

ナマのままで表出されたものですよ。

そこに自制とかモラルとか寛容とかそういうオブラートなんかなかったのですよ。

それは世界共通です。


例えば、、、日本の


カチカチ山だって、、ほんとは悪タヌキが

おばあさんをだまし討ちにして

殴り殺して

おばあさんの肉を切り刻み

おばあさん汁にして

何も知らずに帰ってきたおじいさんにうまいうまいと

食わせてしまうんですからね。



かくして

そういうナマの民話をグリムなりに加工してできたのがグリム童話集だったというわけですね・

正確に言うと、「子供と家庭にための童話」キンダー・ウント・ハウスメールチェン  です・


ただし、原話の本質はくっきりと残っていますから

そこには民衆のナマの欲望や夢やある種のシュールな悪夢や奇想不条理な人生のからくりや

そういうものが豊穣な原鉱石としてナマの輝きを秘めてそうして時代が民主主義になった今でも

人生は相変わらず不条理だしからくりだらけだし、、そういう不可解の極致である人生について、

こうした民話はおそらくふかーい、秘密を秘めて深層心理に訴えかけてあなたが読み解いてくれるのをじっと待っているのでしょうね。


さてところで

グリム童話集は民族心性の原鉱である。

いわずと知れたグリム兄弟の集めた民話集である。

そしてこれほど全世界に膾炙した本もなく、あらゆる芸術の素材となっているものもない。

音楽、美術、アニメ、心理学の素材、など、あらゆる原鉱石となっている。

私の手元にあるだけでも、


「誰がいばら姫を起こしたか?」

「本当はこわいグリム童話」

「昔話の深層」

「グリム童話」

など、の本がある。


心理学者の分析した、グリム童話の真相の本もたくさんある。

ドイツロマン派は、メルヒェンを多用したが、それも、

ロマン的イロニーに最適だったからという点もある。

ロマン派とは、現実描写ではないので、

ただに、自己の深層心理の表白が目的である。

それゆえ、童話という形式は、現実に拘泥されず自由に創造の翼を広げられるという、

メリットがある、ゆえに、ロマン派の作家はその形式を多用したのである。

ホフマンも「黄金の壷」を近代のメールヒェンと副題しているほどである。

ホフマンは、しかし、常に俗世に片足をつけていたから、限りなく舞い上がったりはしなかったが、

つまり、アトランティスの王、リンドホルストはまた、現実界では、古文書記録官でもあり、一様に

ホフマン的人物は、二重性に彩られてもいる。

ノバーリスにいたっては、メールヒェンこそ、王道というくらいだから、

どっぷりと、浸かりきっていて、思うさま、天空を駆け巡っている。

「ハインリッヒフォンオフターティンゲン」(青い花)しかり、

「ザイスの学徒」しかり、

しかし、結局ノバーリスとは、なんだったのか?という疑問が残る。

魔術的観念論とは?

自然の究明とは?

宇宙文学とは?

青い花はどこに?

鉱物的結晶の天井宮殿は?

夢はどこに、実現するのか?

そしてこの現実の生とはそもさんいかん?


グリム童話集には200篇の童話(民話)が収められているから、

全編読んだ人はいないだろうから?恐らく見た事も聞いたこともないお話があるだろう。

有名なのは「赤ずきんちゃん」「ヘンゼルとグレーテル」「ブレーメンの音楽隊」「ラプンツエル」「灰かぶり」「白雪姫」「眠り姫」などであろうか?

最近、というか戦後になって精神分析が流行すると、民話の精神分析が挑戦されて実に様々な童話分析が行われてきた。

ユング系の分析、フロイド的な分析など様々である。


「赤頭巾ちゃん」は中でもその筆頭格であろうか。

赤ずきんの赤は、月経の赤をあらわすだとか。

狼はエディプスコンプレックスの父親だとか、

狼のお腹から出てくるのは生まれ変わりをあらわすとか。

少女期から成熟した女への転生だとか。

まあ、読んで面白いことは確かだが、果たしてほんとにそうなのか?

大いに疑問ではある。


ただ一つ、なぜグリムがかくも時代を超えて、全世界に(アラブ圏はいざ知らず)受け入れられたのか、不朽の生命を保ったのか。


それは、グリムが、原話を大幅に脚色して書き換えたからであったとは、なんと言う、皮肉であろうか。そもそもグリムは採話していない。どこそこのおばあさんがこう語っていましたというものではないことが最近の研究で暴露されているのである。

たとえばグリム兄弟がドイツ各地をこまめに歩いて土地土地の古老や老婆に面会して「採話」したなどということは実は皆無です。

ではどうしたのか?

グリム兄弟は

書物や、教養あるサロンの若婦人が語ったものなどを聞き書きしてそれが基底になっているのである。それらを元に童話とはかくあるべしというグリムの思想の下に編纂されたのがグリム童話集の実態なのである。


ネタは仕入れたにせよそれをもとに、グリムがほぼほぼ創作したというのがほんとのところである。

何のことはないグリム「創作童話集」なのである。アンデルセン童話集と同様?である。


しかし、だからこそ、グリム童話が永遠の生命を得たといったら、しかられるだろうか?

民話なんてそもそもしっちゃかめっちゃかで、錯綜したものが実態だ。

それだけでは余り感動もないし、第一、しりきれとんぼも多い。

そうした原話にグリムがよかれあしかれ筆を加えたからこそ命がふきこまれたということであろうか?

時代時代によっていかようにも読まれてしかも役立つ。

これが古典である証拠だ。

それがグリムにはあるのだ。

いわずと知れたグリム兄弟の集めた民話集である。

その理由の一端は先ほどから述べているようにグリムの「2次創作」による童話としての命の付与?である。


そしてこれほど全世界に膾炙した本もなく、あらゆる芸術の素材となっているものもない。

音楽、美術、アニメ、心理学の素材、など、あらゆる原鉱石となっている。

私の手元にあるだけでも、

「誰がいばら姫を起こしたか?」

「本当はこわいグリム童話」

など、の本がある。

心理学者の分析した、グリム童話の真相の本もたくさんある。

ドイツロマン派は、メルヒェンを多用したが、それも、

ロマン的イロニーに最適だったからという点もある。

ロマン派とは、現実描写ではないので、

ただに、自己の深層心理の表白が目的である。

それゆえ、童話という形式は、現実に拘泥されず自由に創造の翼を広げられるという、

メリットがある、ゆえに、ロマン派の作家はその形式を多用したのである。

ホフマンも「黄金の壷」を近代のメールヒェンと副題しているほどである。

ホフマンは、しかし、常に俗世に片足をつけていたから、限りなく舞い上がったりはしなかったが、

つまり、アトランティスの王、リンドホルストはまた、現実界では、古文書記録官でもあり、一様に

ホフマン的人物は、二重性に彩られてもいる。

ノバーリスにいたっては、メールヒェンこそ、王道というくらいだから、

どっぷりと、浸かりきっていて、思うさま、天空を駆け巡っている。

「ハインリッヒフォンオフターティンゲン」(青い花)しかり、

「ザイスの学徒」しかり、

しかし、結局ノバーリスとは、なんだったのか?という疑問が残る。

魔術的観念論とは?

自然の究明とは?

宇宙文学とは?

青い花はどこに?

鉱物的結晶の天井宮殿は?

夢はどこに、実現するのか?

そしてこの現実の生とはそもさんいかん?


さてグリム童話の作品のそれぞれの特徴であるが其れこそ多種多様である


残酷系もあれば

不条理系もあれば

ハートウオーミング系もあれば

血まみれ系もある。



そんな中で残酷系では

子供の無邪気ゆえのこわさを描いたものがある。


子供って本当は残酷?無垢ゆえの残忍さほど怖いものはない。

そもそも、、子供って大人の倫理やモラル道徳自制などからは完全に自由?ですから

ほっとけば子供ほど残酷な存在はありません。

しかも罪の意識というものが完全に欠落していますから

無垢にして、残酷というどうしようもない、次元に沸騰してしまうこともあるのです。

無垢にして純真な子供が平気でカエルを踏んづけて殺したり

カブトムシの角をニコニコしながら折ったり

トンボの羽をむじゃやきに?むしったり。

そういう事例ってよくあるでしょ?

彼らに罪の意識は皆無です。

だから、、より一層、、コワイ?とも言えますよね?

子供はほっとけば残酷です。しかも罪の意識もないのです。

さて子供の残酷さを無垢?という視点から取り上げたのが


グリム童話の


≪子供同士が殺し合いをした話≫


ですね。


この内容では、、もはや、、童話?ではない、、という結論でしょう。

残酷童話の臨界点をもう超えていますものね?

さすがにグリムも、、まずい、、と思ったのか第2版では削除されました。

初版にしか載ってないお話です。無垢ゆえに、、全く罪の意識もないという、、このこわさ

無垢は、、すなわち、、倫理道徳ではない、、という恐ろしい現実ですよね。


それはこんなお話です。


、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


あるところに父親が豚を屠殺するのを子供たちが見ていた。

子供たちは午後になると遊びを始めた。

一人の子供が弟に

「お前は子豚になれよ、僕は屠殺人になるから」と言って

小刀を手にして弟の首を突き刺しました。

血が噴き出て弟は即死です。

ちょうどそのとき母親は赤ん坊を行水させていましたが

叫び声を聞いた母親があわてて階段を駆け下り

何事が起ったかと見ると、、、

頭が真っ白になって思わず子供から小刀を奪うと

屠殺人役の子供の心臓にそれを突き立てました。

それから盥の中の赤ん坊はどうしたかと思い出して駆けつけてみると

赤ん坊はお湯の中でおぼれ死んでいました。

母親は気がくるってしまい

そこにあった縄で首をつって自殺してしまいました。

しばらくして畑から帰ってきた夫は

この惨状を見て

気が狂い、自分も首をつって自殺してしまいました。



、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


さてこれが、、童話でしょうか?

ありそうな?事件?ともいえるこのお話し。でも全く救いがありませんね。

一家が子供の無垢ゆえに破滅してしまったのですから。

そもそも、子供とはほっとけば、平気で残酷なこともしでかすのです。

無垢ゆえに罪の意識もありませんからそういう意味では子供ほどコワイ存在もありませんよね。


明かりをつけたら消えちゃった。

お花をあげたら枯れちゃった

五人囃子は死んじゃった

今日は悲しいお葬式。


子供たちは楽しそうに

無邪気に

全く罪の意識もなく

こんな替え歌を今日もどこかで歌っているんでしょうね?



さて次は人生の不条理というか因果というかカルマというか

そんなお話です。


安易な人間の浅知恵?で

人生というこの、底なし沼?を即断することなど不可能なのです。

人は人生の全貌など見通すことは不可能です。

人生はいくつもの偶然と必然が複雑に絡み合い

綾なし、裏をかき、建前をせせら笑い?

時として、偶発を装って必然をぶちかまし

必然なのか?と思わせて、それは偶然に過ぎゆくばかり。


まさかそんなことが、、ということが全くの庶民に突然、降りかかり

あるいは、想定外の大事件がある日、全く予兆もなく

平凡なあなたの前に降ってわく。

それが人生なのです。

私たちの人生においては

一見、いかにも幸運と思われるような事案も

後から振り返ってみたら


≪あの事のために、後々、ひどい目にあったなあ≫ということって、結構ありますよね。


逆に、えらいひどい目にあって、不運だなあと、その時は思ったのに、

ゆくゆく、時がたって振り返ってみたら、

「あの不幸は実は俺のためになっていたんだよなあ」

というような経験も多いはず。

あなたを襲った、その事態がほんとに幸運だったのか

それとも不運だったのか、

それは後になって冷静に振り返ってみなければ確定できないんですよ。

格言にこうあります。


「棺の蓋を覆うまでは、その人の一生がどうだったとかの評価はしてはいけない」


つまり

あなたも私も

死ぬまでは、

人生の全貌なんてわからないって、ことですよ。


例えば、、、

30歳くらいで、人生の絶頂期を迎えて、大豪邸に住み、、美人の奥さんがいて

年収5000万。

まさに飛ぶ鳥を落とす勢いですよね。


でも


じゃあこれが老いるまで、、、

死ぬまでずっと、続くのか、、


と、言われれば、一寸先は闇でしょう。


明日、家宅捜索が入り、逮捕されるかもしれないし、

明日、不慮の事故死を遂げるかもしれないし、

人間なんて明日どうなるかは、神のみぞ知る、、ということですよ。


だいぶ前置きが長くなりすぎました、


それでは早速、、、


そんな人生の、、あなたが知らない全貌を諭した?こんな寓話はどうでしょうか?


こんな人生の寓話をグリムからどうぞ。





≪おばあさん≫  (ダイジェスト)



むかし、、むかし、、


あるところにとっても不幸な老婆が住んでいた。


その老婆は今は全く一人ぼっちでまさに独居老人、。


その老婆は夕方になると一層わびしさが募ってこんなことを

振り返り悲しい思い出にふけるのだった。


「ああ振り返れば、、最初に亡くなったのが夫だったねえ、

私が25歳で子供が男の子二人もいて、、。

それなのにある日、夫があえなく病死さあねえ」

で、、、、

「それから私はもう、基地外みたいになって子供二人を養うために身を粉にして働いたのさ、」

「でも、、それから、10年後には、相次いで子供二人があえなくこれまた病死さ、上の子は12歳、

下の子は10歳だったよ」


「そうして絶望の淵からもう生きてるのも嫌になって何度死のうかと思ったことかしらねえ」


さらには生存してた唯一の身寄りの私のいとこも、事故死さあね。まったく神様はどこに目をつけてるんだろうねえ。こんな私ばっかり、苦しめてさあ」


「これでもう世界には私の身寄りは全くいなくなって、、


それからずっと私はこうして独りぼっちさ、気が付けばもう私も70歳さあ」



老婆はあまりにも悲しくって、、特に何の罪もない息子二人をあえなくも奪い去った神様を恨めしく思って、

「神様いったい私が何をしましたか?私はなあんにも悪いことはしてませんよ、

それなのにこの仕打ち、いいえ、、夫の病死はそりゃあ大酒飲みですから自業自得で仕方ないでしょうよ。

でも、あの罪とがもない、息子二人は?どうして私から奪い去ったのですか?かみさま?」


そうしてじっと考え込んで、ものおもいにふけってると、

いつしか外が明るくなってきて、、


「あれ?もう夜明けかい?それにしてもはやいねえ」


老婆はゆっくり身を起こして外に出てみた、

外は、なんだか異様に?妙に薄ら明るかった


遠くで礼拝の声が聞こえてきたので、教会へ行ってみることにした。

行ってみると教会は、開いていて入ってみると、

何人かの人々が妙に黙って席に座っていた、

おばあさんもちょうど空いてた席に座ってあたりを見回すと、

そこに座っているのはみんなおばあさんのとっくに死んだ親戚ばかりだった、

青白い顔をして、、昔風の衣服で、、そう、それはみんな死人だった。


おばあさんは内心、ぎょっとしたが、努めて冷静を装い、一心に心の中で祈っていた。


やがてその中の、昔、亡くなった親類の女の人がおばあさんに近づいてきて


「ほらあそこの祭壇のほうをごらんよ。あんたの息子さんたちが見えるでしょ」


言われて、、おばあさんがそっちを見ると、、

面影のある、自分の息子二人が、すっかり青年になって、、、そうして、、、、

処刑台の首つり台にぶら下がっていた。


親類の女の人が言った、。


「見てごらん、もしあの子たちが生き続けて、、、神様が、罪とががない子供のうちに御許に呼んでくださらなかったら、二人とも悪に手を染めて、あんな目に合う運命だったんだよ」


おばあさんはそれを聞くと震えあがって、教会を飛び出し自宅へ戻り、

小さな自宅の祭壇に額づいて一心に祈った。


「神様。ありがとうございました、馬鹿な私が思いもしないようなところで、神様、あなた様は

いいようにお計らいくださったのですね」


そうして、、ひたすらおばあさんは祈り続けるのだった。


、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


朝が来て近所の人がいつも通りおばあさんを朝の礼拝に誘おうと


来てみると、、おばあさんは囲炉裏の前でじっと動かず、、、、、


近づいてみると、、、、もう死んでいたのだった。



おわり





このお話は、、実は、、グリム童話集からの、引用であり

私が脚色して二次創作??したものです。

グリムってシンデレラや赤ずきんちゃんだけじゃなかったんですね。

こんなお話もあるんですよ。



さて次は、、


白雪姫、  です。  


白雪姫をおさらいしておきましょうか?


悪い後妻 (ステップマザー)のために城を追い出された白雪姫、


でも初版グリムでは後妻ではなくて本妻、


つまり白雪姫の実母です、


美しく育った実の娘、スノーホワイト(英語)に嫉妬を抱くというなんとも、恐ろしいダークファンタジーです。


童話とはそもそも残酷なものであり、無慈悲なものが本質です。


いま映画やら小説やらでは、ダークファンタジーなどという分野もてはやされて?いますが

そもそも童話とか民話はすべてずっと昔から

ダークであり

ブルーであり

無慈悲であり

残酷だっということです。



さて、、、


白雪姫、、ドイツ語では、、「シュニー・ヴィットヘン」、、と言います。


直訳すれば、、「雪姫様」、、ですね。「スノーホワイト」、、ではないです。


グリム原話には、、、白という、、フレーズはありません。


だから「雪姫」、、が正解でしょうね?


グリムには

「ゆきしろとばらべに」というお話もありますが


この原語は

シュニーバイセヒェン  ウント  ローゼンロート


です。英語で言えば、、


スノーホワイトとローズレッド、、ですね。


こちらのほうがむしろ、、白雪姫?でしょうか


ま、、、


でも今では、、白雪姫が一般的ですからね。


シンデレラ、が、、本当は、、「灰かむり」、では、、興ざめ?ですものね?


意味は、「灰まみれの汚い娘」、、というものですからね。


、、、寄り道はこのくらいにして、、


さて本題に戻ります。


白雪姫は森の7人の小人に助けられて


つつましく小屋で生活するが、、


それを鏡の託宣で知った王妃は(つまり実母)は


物売りに化けてきれいな組みひもやら

毒リンゴやらを


持って小屋を音連れて白雪姫を殺しにかかります。



で、、とうとう死んでしまい


小人はガラスの棺に納めて、

森の礼拝堂に飾ります。


そこへ通りかかった王子様があまりの美しさに


どうぞ、この棺を私に譲ってくれないかと小人に頼む。


え?


ガラスの棺を開けて、王子様がキッスすると

姫が生き返るんじゃなかったの?


それはあくまでもウオルトディズニーの、、リライトですよ。



原話は、、もらい受けた棺を運ぼうとして家来が持ち上げて

歩き出すと、、けっつまづいて、、棺を落としてしまう。


と、その拍子に毒リンゴが喉から抜けて姫は生き返る、、ていうお話です。



死んでてもいいから、、死人の姫がほしい?


これって深読みすれば?  「ネクロフィリア」、、でしょ?


この王子さまってやばくないですか?


まあ生き返ったからいいようなものの、、

王子様の本心は、、案外、


「生き返っちゃたのかよ、、なんだ、つまらないなあ」


かも?知れませんよね?


さて


結末は、、

悪い王妃は真っ赤に焼かれた鉄の靴を履かされて死ぬまで踊り続けなければならなかったとさ、


そうしてすえながく、、、王子様と白雪姫は、幸せに暮らしましたとさ、


これでこのお話は終わりですが実は後日譚があったのです?



ここからが後日譚になります。(もちろん私の2次創作ですよ)



それから数年後のことです。

白雪姫は身ごもり


10か月後には

雪のように白くて

黒檀のように黒い髪で

真っ赤な血のような唇の


かわいい女の子を生んだのです。


その姫様はすくすくと育ちやがて白雪姫をしのぐほどに美しくなったのです。


とうの白雪姫はといえば、、今やすっかり幸せ太りで中年になり

かってのあの輝きはどこへやら、

いまや、、完全な中年おばさんです。

王様も今はすっかりこの姫様を溺愛して白雪姫のことなど蚊帳の外です。

家臣たちもこの新しい姫様ばかりになつく始末。


次第に、、白雪姫はこの実の娘に嫉妬をたぎらせてゆくのです。



白雪姫は、、ふと思いました、



「ああそうだわ。、昔、、私もお母さまからこうしてねたまれてころされかかったのよね。

今になって私にもお母さまの気持ちがわかるわ。

だってわたしは、、お母様の実子であり、お母様の血を引いてるんですものね」




さて


これからこの後日譚がどうなるのか?



それは読者のご想像にお任せします。


お母さまのようにこの姫様を追い出して殺してしまうのか?


それとも自制して、、和解できるのか?



さあ?


あなたなら


どっち?



童話、ヘンゼルとグレーテルを知らない人はいないだろう。

グリム童話が原作だが


飢饉で食うものもなくなった夫婦が実の子のヘンゼルとグレーテルを森に捨てに行くというお話しである。

実はこの夫婦。森に捨てに行く前に殺してしまうという相談もしているのである、。

でもお父さんがそれは忍びないとお母さんを説得して

森に捨てるということで決着したのです。


イヤー、そうだとすれば飢饉の壮絶さがひしひしと伝わってきますよね。


それから、、おやっと?と思われた人のいるかも?

この夫婦って、母親は継母でしょう?という


実は初版グリムでは実母なんですよ。


改訂版で継母に修正されてるんです。


白雪姫も継母ではなくて、、本当は実母です。


そう知ると、、まさに

「本当はコワイ、グリム童話」ですよね・


ところでこのおはなし、宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」の冒頭とよく似てますね。

ブドリとネリも森で幸せに暮らしていたのですが

ある年、、飢饉が襲い、食べるものがなくなり、

ここでは子供捨てるのではなくて

子供の食べる分を残すために

お父さんとお母さんが森に死にに行ってしまうのです。


さて、、そもそも民話って、、残酷でおどろおどろしくて。怖いものなんですよ。



そんな残酷でで血まみれのグリム童話をどうぞ、


マザーグースにこんな歌がある。






僕の母さん僕を殺した

僕の父さん僕を食べた

僕の妹、僕の骨を拾い

バラの木の下に埋めた。

キーウィット、キーウィット、僕はなんときれいな鳥だろう。







いわゆる「残酷童謡」ですね。


でもこういう系等の童謡ってヨーロッパ全域に伝承してるんですよ。


もちろん、、、グリムにもあります。


グリムではそれは「ねずの木の話」というのです。


その物語の中で歌われるのはこんな歌です。




僕の母さん僕を殺した

僕の父さん僕を食べた

僕の妹のマリーが僕の骨を拾い絹に包んで

ねずの木の下に埋めたのさ

キーヴィット   キーヴィット

僕はなんてかわいい小鳥でしょう。




これがロシアに行くと



樺の木になります。

ほかの歌詞は同様です。





「ねずの木の話」


では


継母が先妻の子の首を切り落として殺し

みじん切りにして

それでシチューを作って帰ってきた旦那に食べさえるという


恐ろしいお話です。


さすがに連れ子のマリー(後妻の子です)は恐ろしくなって

ボロボロ泣きながら真実を言えずに

その骨を集めて絹の布にくるんで、ねずの木の下に埋めるのです。

すると木から見たこともないきれいな小鳥が飛び立ち

さっきの歌を歌うんですね。


小鳥は様々なところでその歌を歌い

自分の死の真実を訴えるのですね。


そして石屋からもらった石臼を首にかけたその小鳥は

あの後妻の家に飛んできて


出てきた鬼母に石臼を上空から落とすのです。


その石臼はちょうど鬼母の頭に当たり即死です。


すると呪縛を解かれた小鳥はもとの少年の姿に戻るのですね。


こういう残酷童謡は


どこの国にもあって

それが意味するのは、、


おそらく、、


遠い過去の


カニバリズムやら

子殺し間引きなどの


民族の集団意識集団記憶の


幻影的なビジョンなのでしょうね。




さて以上いろいろと雑駁にグリムがらみで述べてきたが最後に


こういう物語文学というか


民話というか全般について述べて終わりとしたい


物語文学という世界についてすこしだけ述べたい。



世界の何処にも物語文学がある。


日本には今昔物語 宇治拾遺物語、御伽草子 など


中国には、捜神記、唐時代の伝奇物語、聊斎志異、三言二拍、など


インドには鸚鵡七十話 七曜妃物語ペルシャ,屍鬼25話など、


イタリアには、デカメロン、ルネッサンス巷談集、ペンタメローネ、イタリア民話集カルビーノ


フランスには、サン・ヌーベル・ヌーベル、エプタメロン、ペロー童話集など


イギリスには、カンタベリー物語


ドイツはグリム民話集


アラビアには千夜一夜物語


こうした物語文学には、


その民族や人種に語り継がれてきた、


心情や感性、美意識、伝承などが色濃く反映されていて、


一大民族ワールドを作り出している。


つまり民族の、無形財産。国宝である。


だから、、これを失ったとき、その民族は、文化を失うのだ。


アイヌの「ユーカラ」も民族文化の見本だ。つまり宝である。


そして何より


物語文学には、豊富な、お噺の原鉱石が含まれているという事が重要だ。


それは人を常に刺激してやまない


好奇心の塊、小説の永遠のネタ、とも成りうる。


事実これらから触発された、創作小説もある。


芥川龍之介の「鼻」『芋粥」「偸盗」など、


太宰治の「竹青」など


そのほかあげればいくらでも出てくるだろう。


物語文学はとにかく豊饒である、


満ち溢れている、


現代人の貧困な発想力を遠く凌駕しているのである。


現代文学はこれらの物語を古臭いたわいもないものとして切り捨てることを持って自分の存在意義を確立しようとした、


実験文学、などと称して


言葉をもてあそんだだけの、意味不明無味乾燥な小説を作り出した。


言葉の無意味な羅列、さもなけば、オノマトペか、新語?のでっち上げ?


時系列の無視?を斬新という、自分よがり。


『俺の新文学がわからないのは、お前がアホだからだ」という思い上がり、


あるいは意味深な?複雑な心理描写だけの心理小説。物語性はゼロ。


筋の展開も、プロットもない。


だがこれらは本当に文学なのだろうか?


単語をもてあそんでいるだけでは?


現代小説に欠けている、物語性のなさ、無味乾燥、つまらない、夢がない、平板、などの


対極にあるのがこれらの物語文学なのである。



平凡な市井日常描写の私小説の類の氾濫した現代文学、


あるいは、延々と続く心理描写だけの心理小説。


こじんまりとした俗世間の小市民小説、


あるいはわざと、難解な?独りよがりな前衛文学。


もうそんなものに付き合うのはこりごりだよ、


楽しみたい、物語を、


わくわくしたい、


波乱万丈の冒険で。


夢踊るファンタジーで宇宙にはじけたい、




そうした、要望にかなうのが、こうした人間の原始心性に訴えかける物語文学なのです。。



まさに宝石箱をひっくり返したような面白さ、


天馬空を行く奇想天外な展開。冒険また冒険の面白さ、


幻想の奔流、マジカルエワールド、


美男美女がいて、熱烈な恋があり、


純真な一途な初恋もあり、


そこでは夢が叶い、


不細工な娘が、魔法使いによって美少女に変身し、


王子様と恋に落ちる、、、。





リアリズム小説の対極ですね。


でもリアリズムってなんでしょう。、




貧民階級に生まれた娘がこき使われて、


両親は餓死、


挙句、本人は売笑婦に転落、


やっと見つけた恋人はいざ結婚してみれば酒浸りで働かない、


やがて夫はアル中で廃人になって死亡して


自身は客から梅毒を移されて


気がくるって死んでいく、、、。




そんな、リアリズム小説を私なら、


金出して本買ってまで、読みたいとは思いませんね。




夢物語で結構、


絵空事で結構、


私たちは現実で十分リアリズム社会を生き抜いているのですからね。


せめて小説だけは楽しく、ありえない夢の物語であってほしい、、、。




今、ハリーポッターがもてはやされ

ロードオブザリング(指輪物語)が映画化され


さらにはナルニア国物語までもが、満を持して映画化されたのも、


現代人が平板な私小説や風俗小説、やたら難解な前衛文学、


心理小説などににうんざりした結果でもあるのでしょうか。






(注)グリムについて記憶違いや誤記がありましたらお許しください。




わたしが読んで参考になったと思えるグリム童話研究書リスト


マレ  「首をはねろ。童話の暴力」


河合速雄  「昔話の深層」


マリアタタール  「グリム童話」


イーリング・フェッチャー 「誰がイバラ姫を越したか?」



鈴木晶   「グリム童話」


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