心海
女心は秋の空と言うけれど、僕の心はまるで冬の海だ。
穏やかに凪いでいたと思えば、突然猛々しく荒れ狂う。濃紺が空一面に広がれば、たちまち灰色の雲が陰影を落とす。僕はそれをどうすることも出来ずに、唯々心の赴くままに身を任せるしかないのだった。
僕という人間は元来、真面目で几帳面、その上潔癖症で神経質だ。友人と呼べる存在は少ないが、教師からは可愛がられ、要領も良い。
ただ、時々心の海に小さな波紋が生まれる。その波紋は徐々に大きくなり、荒々しい波となるのだ。そんな時、僕は何かと理由を付けては授業を抜け出していた。普段の行いと教師の信頼から、特に何も言われたことは無い。聞き逃した授業も、家で予習をしていれば、成績には全く影響は無かった。
クラスメイトは恐らく、僕の事を「病弱なガリ勉くん」とでも思っているのだろう。そして僕はそんなクラスメイトを、心の中で憐れだと哀れんでいた。
夏の暑さが素肌に絡みつく。屋外の中庭は夏の暑さに占拠され、さっさと帰ればよかったと今更ながら後悔する。鬱陶しさに顔を歪めると、今まで読んでいた小説の文字の羅列に灰色の影が落ちてきた。
顔を上げると、そこにはクラスメイトの日下千夏が立っていた。声ばかりが大きく、無作法で無神経、そして平気で校則を破る様なクラスの中心グループの一人だった。話したことは一度も無いが、日下は同学年なら誰もが知っているような目立つ人物だった。僕はあからさまに顔を顰めた。しかし即座に後悔し表情を戻す。変に目を付けられては後々面倒だからだ。だが、日下はそんな僕の様子を気にも留めていない様だ。それどころか興味無さそうに、自身の綺麗に巻かれた毛先を弄ってる。
「......日下?」
「ねぇ、それって何の本?」
桜色の指先から髪の毛が一束零れ落ちた。僕の呼び掛けを無視した目線の先は、僕の膝にある小説だった。興味があるのだろうか、文学にまるで興味なんて無いという風体だが、人は見掛けによらないのかもしれない。
「『向日葵の咲かない夏』っていう小説」
「へー、面白いの?」
「好き嫌いが分かれるけど、僕は好きかな」
「ふーん」
やっぱりあまり興味は無いらしい。なら、何故僕に絡んでくるのか。どうせ、こういう奴ら特有の『気紛れ』だ。煽りじゃないだけ幾分マシだが、その気紛れに僕を巻き込まないで欲しい。何だか無性に腹が立って腰を浮かせた。僕が立ち上がると、ほんの少し下に日下の旋毛が見えた。綺麗に右回りの旋毛だった。
「青田、帰るの?」
「帰るけど、」
すると、ひらりと規定よりも大分短いスカートを翻して、日下は校舎に駆け出した。走りながら大声で「ちょい待ち!」と叫んでいた。距離はあったはずなのに、僕の鼓膜を震わす程の大声は、普段静寂を好む僕にとって煩わしいものだった。数秒してから、僕はそれが自分に向けられた言葉だと理解した。一刻も早く帰りたかったが、何故だか僕は大人しくその場で待っていた。
それは夏の暑さのせいなのか、それともただの僕の『気紛れ』か。
校舎から出戻って来た日下は、先程まで持っていなかったリュックを背負っていた。そして、ほんの少し肩で息をしていた。
「ほら、帰るよ」
先に歩みを進める日下は、呆然とする僕を振り返って、呆れたように「早く!」と急かした。僕はぎこち無く足を動かし、日下の隣に並んだ。放課後の校庭を日下千夏と並んで歩いている。その事実が非日常過ぎて薄ら笑いすら込み上げてくる。僕は誰かに見られてはいないかと、辺りを見渡すが人っ子一人いない。落ち着きの無い様子の僕を見て日下は苦笑した。
「誰もこんな時間まで残ってないよ。」
「そうか...」
そして、沈黙。校門を潜ると焼け爛れた真っ赤な夕焼けが辺り一面を覆っていた。その光景に見惚れていると、徐ろに日下が口を開いた。
「夏なのに向日葵って咲かないの?」
「さっきの小説のこと?」
「うん。私、向日葵好きだから、咲かなかったら悲しいな。」
真っ直ぐに前を見つめる日下の真意が分からない。ただ一緒に帰る人が欲しかっただけか、それとも話し相手が欲しかったのか。僕が返しに困っていると、日下は構わず話し続けた。
「私、夏って好きだな。ほら私、千夏って名前だし。」
「...確かに、日下は夏が似合うね。」
お世辞でも何でもなく、思ったことを言っただけだった。日下千夏はうるさくて、しつこい。まるで夏の暑さのようだ。しかし、でしょ!と笑う日下は想像していたよりも、ずっと普通の女の子だった。その天真爛漫に屈託無く笑う姿は、空を見上げる向日葵のようでもあった。もっと高慢な奴かと思っていたが、人は見掛けによらない。今まで偏見の目を持っていたことに、ほんの少し後悔した。
それから、時々沈黙にはなるけれど日下との雑談は悪くは無かった。女子特有の恋バナや、オシャレについての話をされたらたまったもんじゃないと身構えていたが、そんな話題は一切無く、他愛もない事を話していた。どうやら、日下は僕に話題を合わせてくれている様だ。その事に、僕は日下千夏という人物の認識を改めざるおえなかった。
「じゃあ、私こっちだから。」
そう言って駅を指差す日下は、何か言いたげに僕を見上げた。初めて、目が合った。空に向かってくるりと上がった睫毛に、胡桃色の真ん丸な瞳。淡く夕焼けを反射して、まるでガラス玉の様だ。
「あのさ、いつも青田って昼休み何処にいるの。」
「え、...西校舎の階段の踊り場だけ、ど。」
また興味無さげに返事をすると、日下は改札に姿を消した。最後に放たれた、じゃあね。という言葉が鼓膜の奥で反響する。何故、素直に応えてしまったのか。日下の瞳が予想外にも綺麗だったからかもしれない。一抹の不安を明日に抱えながらも、僕は日下の瞳を思い出していた。心の海に小さな風が吹いた。
「みーつけた」
次の日、西校舎の階段の踊り場でお弁当を食べていた僕は、日下に見つかった。手にはコンビニのレジ袋を掲げ、満面の笑みを浮かべている。昨日の不安はどうやら的中したようだ。
「いつもの人達は?」
「あぁ真希達のこと?委員会があるって言って、こっちに来ちゃった。」
真希は高橋真希の事だろう。中心グループのリーダー格である彼女は確か、気の強そうな猫目の美人だった。男をとっかえひっかえし、教師も手を焼く問題児。しかしその統率力とカリスマ性で彼女を慕う者も少なくなかった。正直言って一番、関わりあいたくないタイプだ。
「それで、日下は何で来たの?」
日下はレジ袋から取り出したメロンパンに齧り付いていた。ジェスチャーで、飲み込むまで待って!と言われた。教室では口にモノが入っていようがお構い無しに、大声で話していた奴が何を今更、と思ったが僕は大人しく待っていた。
「その、迷惑だった?」
飲み込んだ日下は、急にしおらしく項垂れた。迷惑なのだろうか、どうだろう。僕は一人が平気なだけで、好きという訳では無い。時々、隣のクラスの友人も交えて食べるし、何より日下のことは昨日よりも嫌いじゃない。僕は無意識に卵焼きをつついた。
「迷惑じゃないと言えば嘘になるけど、嫌では...無いよ。多分。」
小さく、そっか。と呟いた日下はもう先程の憂いは無く、晴れ晴れとした笑顔を浮かべていた。
「ねえ、千夏って呼んでよ!昨日も言ったけど私、自分の名前好きなんだ。青田のこと海人って呼ぶからさ!」
綺麗な胡桃色の瞳を瞬かせて、日下が詰め寄った。心の海が一瞬揺らいだが、生憎同じ手に二度はかからない。僕は冷静になるよう、落ち着きを払った。
「悪いけど、呼ばない。友達でもない異性を下の名前で呼び捨てにはしないから。」
日下は一瞬固まったが、次の瞬間控え目に微笑んだ。てっきり「今時考えが古い」とか言って笑われると思っていた。けれども日下は笑わず、自分自身にも言い聞かせるようにゆっくりと言った。
「うん、そうなんだ。そうだね。やっぱり私も青田って呼ぶよ。...でも、いつか友達になったら呼んでね。」
「友達になったらね」
そんな日は来るのだろうか。まるで住む世界が違う僕と日下が。叶えられる保証が何処にも無い約束を、僕と日下はその日交わした。
その日から僕と日下の交流が始まった。すれ違いざまに言葉を一言二言交わしたり、ノートの切れ端に言葉を綴り、送りあった。日下は一週間に二回ほど、西校舎の階段の踊り場に顔を出し、二人でお昼を過ごした。
そうしているうちに、日下と僕の間に何かが芽生え始めていた。それは恋のように儚いものではなく、かといって友情と言うには優し過ぎるものだった。けれども心の海の冬がゆっくりと明け始め、氷が溶ける音がした。
ジリジリと照りつける太陽がいつもよりも鬱陶しくないのは、この氷菓のお陰だろう。僕の右手に握られた棒の先には、薄水色の氷菓が刺さっている。溶けだした表面に流れる水滴を舌先で舐め、僕は氷菓に齧り付いた。氷の冷たさと、かき氷のシロップのような甘さが脳を刺激する。痺れるような感覚に僕は驚いたが、案外と嫌いな刺激では無い。体の内側から氷菓が溶けて、冷えて、涼しい。
「あははっ、キーンってなった?」
「なった」
日下が楽しそうに笑う。その手に握られているのは薄桃色の氷菓。何でも夏の新作で、まるで凍らせた白桃そのままだそうだ。そうコンビニで力説する姿はいつもより幼く見え、僕が笑うと軽く小突かれた。
小突かれた脇腹が未だに鈍い痛みを感じる。最近分かったことだが、日下は案外力が強い。けれどもそれを言うときっと拳が飛んでくるだろうから、僕は口を噤んでいる。
「一気に食べるからだよ!まぁ、これが夏の醍醐味でもあるわけだけどね。」
そう言うと日下は氷菓を小さく一口齧った。口内でゆっくりと溶かし、舌で潰してゴクリと飲み込む。僕もそれを真似して食べてみるが、シロップの甘さが際立つ。余計に喉が乾く気がして、
アスファルトの道に浮かぶ陽炎、自己主張の蝉の鳴き声、頭上で見下ろす夏の太陽、溶けだした氷菓。そんな普通の夏が何だか今年は新鮮だった。
「そういえば、今夜花火大会だね。」
花火大会といえば毎年部屋でその音を微かに聞くぐらいで、見に行ったことは一度も無かった。第一人混みが嫌いなので、わざわざ行こうとも思わない。
「ねぇ、一緒に...」
「無理」
日下の言葉に被せた僕の言葉に、日下は苦笑する。だがすぐに、日下は満面の笑みを浮かべて僕の腕を掴んだ。溶けた氷菓の水滴がアスファルトに落ち、灰色のシミを作って消える。それを視界の端に捉えながら、僕は心のどこかで諦めた。
日が暮れかけ、月が薄ぼんやりと主張し始めた頃。僕は駅前で立っていた。日下に「三時間後、駅前集合!時間厳守ね!」と半ば無理矢理約束させられたのだ。日が暮れたというのに、周りにはこれから花火大会に行くであろう浮き足だった人達が大勢いる。不特定多数の人達に心の中で悪態を付きながら、僕はその光景を流し見る。そうしていると、不意に肩を叩かれた。
「ごめん、遅れちゃった。」
そこには私服の日下が申し訳そうにいた。もしも、無理矢理約束させてその上遅刻までして、悪びれずにいたら小言の一つや二つ言おうと思っていたが、それは止めにすることにした。
「もう既に帰りたい。」
「まぁそう言わずに」
アスファルトに灰色の僕の影が伸びる。それは祭りの灯で朧気に歪んでいた。影は不安そうに僕に寄り添っている。沢山の人と音と光に狼狽えているようにもそれは見えた。不特定多数の他人に踏み付けられて窮屈そうだ。居心地が悪いんだよな、僕もだよ。今まで自分からこんな所に来たことなかったもんな。僕はいたわるように同情するように、心の中で影に話しかけた。すると、僕の灰色の影に覆い被さるように伸びる影が一つ。顔を上げるとかき氷を手にした日下が楽しそうに笑っていた。
「見て見て!ブルーハワイとオレンジ、両方かけて貰っちゃった。」
氷の山を覗き込むと右側にブルーハワイ、左側にオレンジがかかっていた。青と橙、お互いを混ざり合わせると濁った灰色になってしまう色。けれど、隣に置くとお互いがお互いを引き立たせる色。そのかき氷はまるで僕達の様だった。
「オレンジのシロップって珍しいね。」
「だよね!何か沢山種類があってね、他にもキウイとかリンゴとかあったよ。」
一口もらったブルーハワイは、口内ですぐに溶けて消えた。氷菓よりも強い甘さと、祭囃子に何だか酔ってしまいそうだ。僕達はそのまま木陰で人混みを眺めていた。
まるで非日常な光景なのに、何だか懐かしく感じるのは日本人の性なのだろうか。浴衣に泳ぐ金魚、忙しなく鳴る鉄板の音、夜空に浮かぶのは仄かに橙色の三日月。あんなに嫌厭していた祭りが手の届く目先に存在する。日下千夏が隣に座っている。去年の僕が聞いたら顔を顰めそうな状況だ。けれどこの状況を楽しんでいる僕も、確かに存在する。
「そろそろ移動しようか。花火が良く見える穴場とか知ってる?」
日下が食べ終わったタイミングを見計らって声をかけた。日下はニヤリと笑うと、意気揚々と立ち上がった。
日下に連れられたのは、小高い丘。祭囃子から遠のいたが、その分人も少なく穴場と言えるだろう。花火まであと、数分。夏の終わりまであと、数日。
「日下、疑問に思ってることがあるんだけど。」
「なに?」
出会った時から抱いていた疑問。答えが何であれ、今が変わるとは思わない。どうか杞憂であってほしい、この今が紛い物ではありませんように。
「最初に僕に声をかけたのは、何故?」
日下の息を飲む音が聞こえた。数秒の沈黙、日下の躊躇いが空気を通して伝わってくる。先程よりも白くなった顔色と、泳ぐ視線。Tシャツを握る右手は力が入り過ぎて真っ白になっている。その姿が全てを物語っていた。その事実に怒りや驚きは湧かず、ただただ悲しかった。けれど心のどこかで「やっぱりな」と納得する自分もいた。心の海では水平線は揺らめかず、風も吹かない。けれどそれは平穏とは言い難く、まるで泥水の水たまりの様だった。
上空で大きな音がする。大輪の花火は夜空を彩り、人々を照らした。僕と日下も例外ではなく、花火に照らされた僕らの後ろに灰色の影が伸びた。その影は濁っていて汚い。ほら、青と橙色は補色だから混ざり合うと汚くなるんだ。混ざり合わず、平行線のまま並びあっていれば綺麗なままだったのに。混ざり合わせたのは僕だ。けれど、濁らせたのは日下だった。
今日一番の花火が咲き誇る。日下の零した言葉は花火に消されて僕には届かない。僕はそれを聞き返さなかった。それが僕にとって都合の良いものであれ、悪いものであれ、今は何も聞きたくない。今はこの花火を目に焼き付けていたい。きっと一生忘れない、忘れられない。最初で最後の僕の夏だから。そして今夜、僕の夏は終わった。
窓を打つ雨の音が、遠くの地鳴りのように聞こえる。図書館には紙を捲る音だけが鳴り響いていた。雨の日の校舎は物悲しく、哀愁が漂っている。何人もの未来ある学生を見届け続けた歴史が浮き彫りになっている。
僕は案外雨が好きだった。雨が窓を叩く音、傘で跳ねる音、そしてどこか懐かしいペトリコールのにおい。図書館の扉がゆっくりと遠慮がちに開かれた。顔を出したのは日下だった。あの夜以来日下とは話していない。クラスの中心グループで人気者の日下千夏と、根暗で病弱ガリ勉な青田海人は混ざり合わない。僕らは元の関係に戻っていた。日下は僕の隣に座り、『向日葵の咲かない夏』をおもむろに取り出し読み始めた。紙を捲る音は二重になり、雨音に消えた。
「私の話、聞いてくれる?」
胡桃色の瞳は、目の前の文字を写していない。その奥の遠い景色を写していた。僕の瞳も、もう目の前の文字を写していない。
「花火の時の質問、すぐに答えられなくてごめんなさい。...青田に声をかけたのは罰ゲームだったの。」
図書館に日下の囁き声が響いた気がした。覚悟していた筈だけれど、その言葉は重くイカリのように心の海に沈んでいった。海は冷たく、そして氷が薄らと張り始めていた。真冬の海だ、溶けかけた海がまた氷始める。そんな音がした。
「罰ゲームは僕に声をかけることだけ?」
僕の声は驚く程に大きく、そして冷たい響きを持っていた。僕の言葉は真っ直ぐと日下に刺さり、瞳に浮かんだ涙を必死に零さまいと耐えている姿が痛々しかった。
「友達に、なること。...が、罰ゲームだった。」
区切りながら話す日下は消えてしまいそうだった。僕は消えてしまいたかった。
僕は何も言わずに席を立ち、図書館を後にした。今は雨音が疎ましく、逃れる様に歩を速める。僕は傘をさし、雨の中に足を踏み入れた。跳ねた泥水は僕のローファーに大きなシミを作る。水を吸った靴は足枷となり、僕の足取りを重くした。僕は日下の言葉を思い出して自嘲気味に笑った。乾いた唇から乾いた笑いが零れて、雨音に消えていく。家に着いた僕はシャワー浴びた後、ベッドに寝転んだ。体が鉛のように重い。徐々に落ちる瞼に抗いもせず、僕は瞳を閉じた。どこかで氷が軋む音がした。
寝苦しく目を覚ますと、開かれた目に淡い光が差し込んだ。ぽっかりと浮かんだ満月が窓の外から夜の部屋を覗いている。丸々と満ちた乳白色の光は、日下の瞳にすぐさま摩り替わる。今、どうしているだろうか。とっくのとうに夜更けだ。普通に考えれば今頃は、あの空に向かってくるりと綺麗に上がった睫毛を伏せ、夢の中にいることだろう。しかし今日の様子だと、後悔の念に押しつぶされて、眠れていないんじゃないだろうか。そんな心配を満月に馳せた。
流れる雲が気まぐれに月をよぎり、部屋がしばし薄闇に包まれる。僕は瞼を閉じ、日下のことを思い出していた。日下の軌跡に種が落ち、芽吹き、開いた大輪の花が、かつて灰一色だった僕の世界をたおやかに彩った。明るく、そして案外と思慮深い向日葵。その種が自分の胸にも根を下ろしていたと気付いたのは、最近のことだった。手を伸ばし、白い光が落ちるシーツに触れてみる。気付けば、先程までの漠然とした不安は消え失せ、日下のことばかり考えている。心の海で、波頭の泡粒が美しい音楽を残しては消えていった。
今日の事を思い出す。零れ落ちそうな涙を浮かべた瞳は、儚く、触れたら壊れてしまいそうだ。今更手を伸ばしても、掴むのは真夏の疎ましい空気ばかり。僕は伸ばした手をきつく握りしめた。
本当は気が付いていた。始まりはどうであれ、日下が僕と心から友達になりたいと願っているのは切に伝わっていた。取り繕うのが下手くそで、嘘も苦手な日下だ。僕に向けられた笑顔は罰ゲームなんかじゃ無かったはずだ。罰ゲームだと告げた時の悲痛そうな姿がそれを物語っている。けれどもそれを伝えられなかったのは、僕の弱さだ。日下を信じきることの出来なかった僕の弱さ。僕はいつの間にこんなに臆病になったのだろうか。後悔の波が僕を襲う。それともあの笑顔も嘘だったのだろうか、あの笑顔の裏で高橋達と僕のことを嘲笑っていたのだろうか。不安は次から次へと水泡のように浮かんでは消え、浮かんでは消えた。そんなことを繰り返していると、考え過ぎた脳は熱を帯び始めた。それでも浮かぶ不安に耐えられなくなったのか、僕が出した答えは至極単純で、核心をついていた。
始まりがどうであれ、僕は日下と友達でいたい。
自分でも驚くほど無垢で混じりけの無い言葉が、心の海に投げ入れこまれた。その言葉はじんわりと暖かくて、冬の海を徐々に溶かしていった。冬が明ける音が聞こえる。頬を伝う雪解け水を拭うことも無く、僕はそっと瞼を閉じた。 明日、日下に伝えることを今夜の満月に誓って。
いつも通り、日下とは何も無い。花火の日から途絶えた日下千夏との交流が何だか昔のことのように懐かしい。ゆっくりと二人きりで話す機会を探すが、日下はいつも誰かと共にいた。
僕が躊躇している内に時間は無情にも過ぎ去り、一時間、二時間、そして遂に放課後になってしまった。僕は一人、教室で瞼を閉じた。浮かぶのは向日葵と、日下と、そして昨日の満月。心の海は冬が明け始め、水温は上昇していた。僕はスクールバッグをひったくると、勢い良く教室を駆け出した。中庭、階段の踊り場、図書館...。そして僕はようやく、放課後の下駄箱で談笑をしている日下を見つけた。辺りは既に茜色と金色に包まれている。僕は足を踏み入れた。チリリと夏の暑さに混じって、高橋達の視線が僕の肌を刺す。少し前の僕なら、こんなことは絶対にしなかっただろう。僕をこんな風に変えたのは、紛れもなく向日葵の様に真っ直ぐで上向きな日下だった。
「日下」
人前で声をかけるのは、これが初めてだ。日下は少し目を丸くし、身体に力を入れている。日下の隣にいた高橋達は、そのギラギラとした瞳にありありと意地の悪い好奇心を滲ませていた。もう一度日下の名前を呼ぶと、目を逸らされた。心の海がざわめき立つ。僕は日下の手首を掴むと、無理矢理引っ張った。日下は何も言わない。抵抗もせずに、ぎこちなく足を動かし僕に着いてくる。背後から高橋達の甲高い声が聞こえたが、音を言葉と認識せずに僕はそのまま歩き続けた。
日下がいつも乗る駅に着くと、僕は切符を勝手に買って日下に押し付けた。日下は何も言わずに、僕と一緒に電車に乗り込んだ。行先は、海だ。僕の心と同じ、海。車内には夕暮れの瞑色と沈黙が占拠していた。日下は今、何を思っているのだろうか。ほんの少しでも良い、僕と同じ事を考えていて欲しいと密かに願った。
電車を降りると、そこは寂れた無人駅だった。錆びた鉄柵が物悲しい。それでも目の前の海は美しい瑠璃色で、縹渺と無辺際に広がっていた。
「どうして、」
日下は海を見つめたまま言った。僕は口を開くも、喉の奥に言葉が張り付いてなかなか音にならない。潮風が日下の前髪を撫で上げる。顕になった睫毛は、今日も空に向かってくるりと上を向いている。
「...千夏」
これが今の僕の精一杯だった。ゆっくりと日下がこちらを向いた。空に向かってくるりと上がった睫毛に縁取られた瞳は、薄らと膜が貼っていた。
「空、綺麗だよ。」
空に目線を促すと、雲一つ無く、澄んだ群青色のベールが掛かっていた。ブルーモーメントだ。青い光が日下の瞳を照らしていた。お互いの間に流れる沈黙は、先程までとは打って変わって柔らかいものだった。ブルーモーメントは数分で終わり、空はすっかり濃紺に染まる。そして、月が躊躇いながらも登っていった。
「...なんで?」
「始まりがどうであれ、僕は日下と友達でいたい。あの笑顔が嘘だとは思えない、思いたくない。...信じても、いいかな?」
遂に胡桃色瞳から涙が零れた。ぽろぽろ、と玉のように流れる涙を、僕は見つめているだけだった。その涙の玉一粒一粒に今まで日下千夏を構成してきたモノが詰まっている気がした。真っ直ぐに千夏を見据えると、その瞳がゆらりと揺れた。頬につたう、最後の涙の玉が落ちた。
「...ありがとう、海人。」
淡い月影に照らされて、僕と日下は海を見つめた。繰り返し奏でられる波が寄せ返す音、そして優しい潮風。それは目の前の海からだろうか、それとも僕の心の海からだろうか。きっと両方からだろう。冬は明け、潮風と共に春風が吹き込む。この、心が暖かくなる感情の正体はまだ良く分からないけれど。きっと僕が日下を思う心は、満月が写り込んだ夜の海だ。引力に惹き寄せられては、鼓動に似た白波を繰り返す。その光景は見惚れるほどに美しく、そして何よりも尊いものなんだ。