朧気な過失と紫の暴力
毎朝、人形が私を迎えにくる。
午前七時ちょうど。
ドアを開くと、案の定人形が立っていた。
紺のブレザーとスカート。
制服姿で微動だにせず佇んでいる。
「おはよう、ミレイさん」
「ええ、おはよう。じゃあ、行きましょう」
怖い話みたいな表現をしたけど、やってくるのは高校のクラスメイトだから――まあ、ちっとも怖くはない。
「ごめん、今日も無理」
ミレイは不登校の私を、担任からお願いされて、毎日迎えにきてくれる。
「そう。どうして?」
「――うん、ごめん」
わかった。ミレイはそういって去って行った。
彼女が迎えにくるようになって、もう一週間ほどになる。いつも学校へ行こうといい、拒否すると理由を聞かれる。それにも答えないと、わかったといってミレイは登校して行く。
きっと担任からは、学校へ連れてくるよういわれていて、それが難しければ理由を尋ね、でも無理に理由を聞くなともいわれているに違いない。
馬鹿正直にそれを守っているのだ。
だから人形――といっているわけではない。
ミレイはとても綺麗な子だ。目鼻は整っていて、すらっと痩せている。肌は透き通るように白く、人形のように容姿ができあがった子だ。金髪でロングヘアーだったら、よりそれが強まるのだろうけど、あいにくミレイは黒髪のショートカットだった。とはいえ、彼女の魅力を損なうようなものではなく、寧ろ白い肌とのコントラストが美しさを引き立たせていた。
自分の部屋に戻り鏡を見た。
私はあの子と違って、どちらかといえばもったりした顔だ。ブスとも思わないが、他人を引きつけるような魅力なんて全くない。少しでも自分を飾ろうと髪を茶髪に染めたが、焦げたように見えてしまい、何だか冴えない女が無理をしている感が満載だった。
それに中肉中背。
ミレイとの差に情けなくなる。
そんな私とミレイだけど、共通点だってある。
無愛想。会話が下手。
唯一の共通点だけど、同時にその一点をもって、私たちは人生の明暗を大きく別けた。
私は水泳部に所属している。
得意というわけではないが、小さいころから泳ぎが好きなのだ。大会に出れないまでも、続けられればいい。そう思っていた。
しかし、部にいる女子の先輩二人に目をつけられた。
気持ち悪い。
下手くそ。
のろま。
そんな罵倒をされ、私が練習している最中も、大きな声で笑われるようになった。
最初は悔しかったけど、放っておけば害もないので、途中から無視するようにした。
一ヶ月くらい経ち、罵倒や嘲笑が一ミリも気にならなくなったころ、先輩たちのいじめの質が変わった。
靴を隠されたり、水着を汚されたり、直接的に攻撃するようになってきた。プールのなかへ突き飛ばされたこともある。
そのときはさすがに顧問の先生へいったが、現場を目撃していた人間が誰もおらず、注意も軽いものですんでしまった。
それに味を占めたのか、先輩たちは影で暴力を振るうようになった。
髪を引っ張ったり、腰を蹴られたり、あれ以来プールへの突き飛ばしも多かった。足を引っかけられて、プールサイドで転ばされ、足首が軽い捻挫にもなった。
精神的なダメージだけでなく、命の危険まで感じるようになり、学校へ行くのをやめた。
あいつらの思う壺とは思ったけど、強がって死んでしまうよりは遥かにマシだから。
平穏無事に生きることが、私にとっての最重要事項だ。
ドアを開けるとミレイが立っていた。
「おはよ。さあ、行きま――」
「ごめん、ミレイさん。もう迎えにこないで」
ミレイは、冷めた顔でこちらをぼんやりと見ている。
「いいんだけど、先生が行けってうるさいの」
正直すぎる答えだ。
少しは私への心配の言葉とかが出てくるかと思ったけど、そんな建前が使えるような子ではないのだろう。無愛想で無表情で、気を使うこともできない。
私がいえたような柄ではないけど、生きるのに苦労しそうだ。
「同じ部活の先輩にいじめられてるの。だから学校には行きたくない。怪我もさせられたし」
一瞬、眉間に皺を寄せると、わかった、といってミレイは私の前から去って行った。
不登校の理由を聞けば、担任も納得してミレイをいちいち私の家へ寄越すこともなくなるだろう。弱みを晒すようで、あまり伝えたくはなかったけど。
多少、事態が好転することも期待した。
次の日、ミレイは相変わらず私の家へやってきた。
「何で――もうこないでって。まだ先生に頼まれるの?」
「違う。今度はあなたの先輩に頼まれた」
ドクッと心臓が大きく脈打った。
体中から汗が吹き出る。
「ど、どうしてあいつらが――」
「チクってんじゃねえ、黙って引きこもってろ。覚えとけよ――だって」
淡々と、先輩からの伝言と思われるものをミレイは読み上げた。
遠ざけたと思っていた脅威が不意に現れたことも恐ろしいが、私への悪意を何の感情もなくいえるミレイには、別種の恐ろしさ――いや、嫌悪感みたいなものを抱く。
「そんなこと、わざわざいいにこないで! 何で先輩たちに伝わってんの――先生は何してんの?」
「先生が何かいったんだと思う。注意してくれたんじゃないのかな」
だとしたら、注意なんて全く意味がない。学校に押し込んでいたものが、外にまで漏れ出て私の首筋にまで届こうとしている。
「私、もう行くから」
私を学校に誘うこともせず、ミレイは先輩たちからの伝言だけ伝えて学校へ行こうとしている。
「ま、待ってよ。どうにか――」
――どうにかして。
彼女にいっても無駄な言葉が出そうになる。お願いしたところで、ミレイには何もできない。
ミレイは振り返って、私を見つめている。
「どうにか? どうにかして欲しいの?」
瞬き一つせず問いかけてくる。怒り悲しみ憐れみ。何の感情も浮かんでいない。
何でそんな大したことのないように振る舞えるのだ。
先輩もこの子も怖い。
現実的な暴力と、得も知れぬ恐怖。
「いい。学校行って――」
わかった、とミレイは背を向けた。
あなたって、私の友達?
数日ぶりに家にきたミレイは、左目に眼帯をつけていた。
「怪我でもしたの? 大丈夫? それに、何?」
「あなたの先輩にいわれたの。あいつの友達なら、代わりに責任取れって」
微かに微笑んでミレイはいった。
「まさかその怪我って、あいつらにやられたの?」
石を投げつけられ、左目の近くをぱっくり切ってしまったそうだ。あまりにも出血が酷く、病院へ運ばれたそうだが、怪我の原因は転んだといって誤魔化したらしい。
「何で先生にいわないの!」
「先生にいっても、どうしようもないもの。それはあなたの件で嫌ってほどわかったから」
それはそうだが、ここまでの怪我はさすがに警察沙汰じゃないか。いじめにしても、度が過ぎている。下手すれば失明していた。
考えてみれば私だって捻挫まで行っているのだから、十分に警察沙汰だ。
私も感覚が少し麻痺していたのかもしれない。ミレイの怪我を見るまで、自分がどれほどのことをされていたのか、現状を正しく認識できていなかった。
「とにかくさ、ミレイさんも学校行かないほうがいいよ。そのうち、死んじゃう」
「そう――ありがとう」
ミレイは私の話なんて聞いていなかったかのように、いつもと同じ方角へ歩いて行った。
部屋に戻り、鏡で自分の左目を見た。
傷一つなく無事だ。
あのまま強情を張って学校に通い続けたら、同じ目に遭っていたかもしれない。
たらりと額から汗が溢れる。
ミレイは大丈夫だろうか。
彼女から先輩たちの言葉を聞かされ、家も安全な場でないと感じて以来、寝ても覚めても自分が傷つく可能性について怯えていた。
今度はミレイのことも気がかりになった。
私が受けるはず――いや、それ以上の悪意を一身に受けているのだとすれば。
夜になり、家を出た。
学校へ行くためだ。
ミレイをこのまま放っておくことは、とてもじゃないけどできない。
この時間になってしまったのは、学校へ向かう決心がつかなかったためだ。
やはり恐ろしい。
自分から危険に飛び込んで行くのだから。
学校へ近づくにつれ、私の肌はみちみちと不安に引き裂かれて行く。校門へ辿り着いたときには叫び出しそうになるのを抑えるのに必死だった。
――帰りたい。
ぐっと堪える。息がしにくい。
吸っても吸っても酸素が逃げてしまう。
裂かれた肌から漏れているのだ。
そういえば、ミレイのためといって出てきたのはいいけど、どこへ向かえばいいのだろうか。こんな時間にミレイは残っているのだろうか。そもそも、何をすればいいのだろうか。
わからないまま、ミレイの姿を探し回る。
教室、校庭、屋上。
プールまできて、足がすくんだ。
だって、ここにいる可能性が一番高い。
無意識のうちに、探すのを後回しにしていた。
プールには誰もいないが、夕方には部活が終わっているのに、更衣室に明かりが点いているということは、そういうことだろう。
なかへ入ろうとすると、ゲラゲラと先輩たちの笑い声が聞こえてきた。
汗が止まらない。吐き気もする。
ドアに近づくと、声が大きくなってきた。
息苦しく、手も震えはじめ、目眩もしてきた。
ドアノブを握るが、震えてしまい上手く回せない。ガタガタとドアが揺れ、その瞬間笑い声は途絶えた。
少しだけ安心した――のも束の間、ドアは勝手に開き、先輩が立っていた。
「何? 何々? きちゃったの?」
そいつの怪我見て慌てちゃったんだ、と先輩は私の髪の毛を掴み、更衣室に引きずり込んだ。
視界がぐるぐると回り、収まったと思ったら床に倒れていた。
顔を上げると、先輩たちが私を見下ろしていた。
先輩たちの顔はドス黒くなっていて、表情は一切わからなかった。何か顔に塗っているのかと思ったが、先輩たちが動くと、そのどす黒さが遅れて動くので、きっと私の恐れが二人の顔にフィルターをかけてしまっているのだ。
「ほら、お友達がきたよ。もう帰っていいよ」
先輩の一人が声をかけたほうを見ると、二人と対象的に純白の女の子がいた。
――ミレイだ。
先輩たちのようにフィルターがかかっているのではなく、肌の白さがそう見せる。だけど、純白だと思った肌は、額から流れる血が微かに汚していた。
「先輩、ミレイさんに何したんですか――」
「うるせえよ、馬鹿! ちょっとお仕置きしただけだよ。ビビってんじゃねえよ」
そうだろ、といって先輩がミレイのもとへ向かい、胸ぐらを掴んだ。
「――ビビってるのはあなたたちでしょ。私が思ったよりも酷い怪我になって焦ってる」
ミレイはなぜか挑発するようなことをいい出した。
余計なことをいわないで、という思いも虚しく、先輩たちは取り乱したようにわあわあ喚きはじめ、ミレイの頬を何度も叩いた。
四発目でミレイの眼帯が飛ぶ。
先輩が、ヒッと声を上げて後ずさる。
眼帯の下は大きく腫れ上がっていて、肌は紫色に変色していた。
あまりの痛々しい見た目に、私は目を逸らした。
「お前が、その傷のことチクったから――私たちはもうお終いなんだよ!」
「私は何もいってない。誰かが見てたんでしょ」
「ああ! 同じよ! もう頭きた」
発狂したようにどす黒い二人は、更衣室内のものを手当たり次第攻撃しはじめた。ロッカーは殴られ蹴られ、テーブルはひっくり返され、パイプ椅子を鏡に投げつけ粉々に砕いた。
地獄だ。
あの暴力がいつ自分へ向くかという恐怖。
下半身が生暖かくなり、自分が失禁していることに気がついた。
ないに等しい勇気でこなければよかった。家で何もかもが落ち着くまで大人しくしていれば、恐ろしい目に遭わずにすんだ。
ミレイと目が合った。
こんな恐ろしい状況だというのに、平然とした顔で私を見ている。あんなに直接的な暴力に晒されているというのに、どこか達観しているようで、ミレイに対して空恐ろしいものを覚えた。
その顔に怯えの色がないかと探っていると、先輩たちがミレイの体を掴み、引き摺って部屋から出て行った。
しばらく体が動かなかった。
急に静かになった更衣室の無音が耳に痛い。
危険は去った。
誰かを呼びに行こう。先生がまだ残っているかもしれない。
起き上がり更衣室を出ようとドアノブに手をかけたとき、ドボンと大きな音と、先輩たちの雄叫びが聞こえてきた。
プールのほうだ。
不安で胸がいっぱいになり、外へは向かわず音のほうへと向かった。
また間違ったほうへ進んでいると感じたのだけど。
バシャバシャと暗い水面で、誰かが体をばたつかせている。
先輩たちはプールサイドで笑いながら眺めている。
「どうだ、夜の水って冷たいだろう!」
「早く上がらないとやばいよ」
水のなかで藻掻いているのはミレイか。
だけど、どうも様子が変だ。プールサイドに近づくこともしなければ、上がってくる様子もないし、そんなに水深もないはずなのに、立ち上がる様子もない。
そのうち、ミレイは身動き一つしなくなり、水面に力なく浮かびはじめた。
「ミレイさん! ねえ!」
呼びかけに反応がない。
慌ててプールへ飛び込み、ミレイのもとへ向かった。
ミレイは普段よりも一層白く――むしろ青白くなっており、呼吸もなければ、頬を叩いても痛がる様子はなく、無反応だった。
「溺れてます! 早く助けないと!」
私は声を張り上げたが、本当にやばいじゃん、といって先輩たちは逃げ出してしまった。
待って、お願い。
絶望的だった。
引き上げる力なんてない。
ミレイの体は冷たく、どんどん重くなっているように思う。私の体も冷えてきて、ミレイの体をいつまで支えていられるかわからない。
ここでミレイをプールへ放ったら、殺したのは私ということになるのだろうか――。
違う、私は助けようとしたのだ。
ここへきたのだって、怪我までしたこの子を放っておけなかったから。私の代わりに傷ついたミレイをそのままにしておくことができなかったから。
でも、結果的に先輩たちの暴力が悪化したのは、自分がきたせいかもしれない。私が学校へ行き、大人しく先輩たちの悪意の餌食になっていれば、ミレイは傷つくことも溺れることもなかったのかもしれない。
私はどこで間違えたのだろう。
ぴくりとも動かないミレイは本当の人形のようで、左目や額の傷がなければ、こんなに美しい姿を間近で見れることは幸せなのかもしれない。
「誰かどうにかして――」