少年は死闘し:第一日(5)
少年は、〈魔人〉と対峙するように通りの中央に陣取った。
「その子を連れて逃げろ」
空いている道を後ろ手に指し示す。時間稼ぎ程度なら〈魔人〉と真正面から渡り合える。それだけの力が自分にはある。
「ここは俺が足止めしておいてやる」
これまでの鬱憤を返すつもりで、あえて恩着せがましく。
「まあ」
娘が笑みを――背後なので表情は分からなかったが、対抗心丸出しの口調は芝居っ気の強い笑みを容易に想像させた。
「貴方がそうしたいのであれば、お止めいたしません。ご自由にさせてあげますわ」
「すまんが、その言い回しは外国人の俺には難しすぎるな」
意味を掴みあぐねるふり。ぐっと言葉の詰まった娘の気配に、少年はようやく溜飲を下げる。
「グズグズするな。さっさとしろ」
身構えたのと同時に、〈魔人〉が地を蹴った。間合いが一瞬にして縮まる。
「そこをどきなさい。イエロー」
見下した口調のまま拳が振りかぶられ、最後の一歩を――つんのめる。
転倒。
膝、手をつく。四つん這い。目を見開いている。視線が足の甲へ。呻き。驚愕。
「よく転ぶやつだな」
少年はせせら笑った――挑発。〈魔人〉の意識も自分に引きつけなくては。
「いくら〈魔力〉で強化しても、それじゃあ贅肉と一緒だ」
「贅……肉……だと?」
〈魔人〉が歯軋りの隙間から唸った。両足の甲から引き抜く。
千枚通しを。
地面に縫いつけ、平衡を奪った。この程度で決着するとは思っていないが、時間稼ぎには十分だ。少年は、ちらりと背後を確認。金髪の娘と赤毛の少女の姿は、もう見えない。
「少し教育が必要なようですね。東洋の田舎者にはっ」
〈魔人〉が立ち上がる。生々しい臭気が足元からのぼっていた。傷口が――千枚通しで貫かれ、血を噴いていた穴が、急速に塞がっていく。
「なるほど。馬鹿力だけじゃないってことか」
少年は呟いた。そういえば爆発に巻き込まれて負ったらしい火傷は、跡形もなく消えている。
「訂正しなさい!」
〈魔人〉の咆哮。
少年は横へ跳躍。直上からの拳がかすめ、未舗装の地面を抉る――直後に、舞い上がった土埃を破って肉塊。肩からの突進。予想以上に小回りが利くらしい。躱しきれずに、腕を交差。激突――あっさりと足が浮き上がる。背後の陋屋へ。壁が木製のうえに、薄く脆かったのは幸運だった。割れ、砕け、散り、ぶち破って、双方もつれながら屋内へ転がる。奥へ滑った卓上で、水差しが危うい踊りを披露した。
立ち上がったのは同時。
だが、手足の長さで〈魔人〉が勝った。右拳。受け――飛ばされる。部屋の隅へ叩きつけられた。今度は漆喰。突き抜けない。衝撃に歯を食いしばる。下から風圧。顔面へ。蹴りだ。両肘を盾に。骨のぶつかる鈍い音。頭蓋まで響く。またしても体が浮いた。天井へ。吹っ飛ぶ。剥き出しの梁にぶつかり、肺腑の息が絞り出され、わずかに意識が遠のいた。落下――その体ごと壁へ磔に。
「ぐっ……」
息が。首。男の右手が、壁に押しつけながら絞りあげている。窒息も頸の骨折もまぬがれたのは、〈魔人〉の小指をとって反り返らせているためだ。これで握力が殺せる。このときばかりは、自分の体に染みこんだ無数の〈術〉に感謝する。
直後、後悔に取って代わったが。
「訂正!」
〈魔人〉の一撃。空いている左拳が腹部へ。さらに――。
「訂正訂正訂正訂正訂正訂正っ!」
連撃。自由な足で防御するが、急所を避けるのがやっとだ。おまけに汗で、握った小指が滑りかけている。
「さあ訂正しなさい。この体は贅肉ではないと」
額に幾筋もの血管を浮かばせ、〈魔人〉が顔を寄せる。
「美しい肉体だと褒め称えるのです。お前の態度次第では、これ以上、苦しませずに殺して差し上げましょう」
どのみち殺すつもりかよ――少年は頬を歪めて頷いた。
「わかった……認めるよ……あんた……醜い肉団子だ」
言い放った途端、〈魔人〉の青筋が膨れあがった。猛り狂った拳が再び腹へめり込む。肋が悲鳴をあげた。小指が――抜ける。息が。血が。気脈が。
こいつは、挑発の効果がありすぎたかな――。
全身から力が抜け落ちていく。金髪娘の顔が脳裏をよぎる。
助けてやる義理なんぞなかったのにな――。
調子に乗りすぎたのかもしれない、と思う。自在に動けるという感覚に酔いすぎたようだ。不思議と恐怖はなかった。死を前に見るという白い光が視界一杯に広がっていく。
「その手を――」
傍らから割り込んできた勇ましい声も、幻聴だと思った。
「離しなさい!」
微かな振動。木がへし折れる音。わずかに首の締めつけが緩む。充血し、朱に染まった視界に娘の姿。手にした角棒。ささくれ。折れたらしい。あれは――さっき助けた赤毛の少女が閉じこめられていた所の閂か。できれば〈魔人〉の顔面か、せめて後頭部を狙って欲しかった。いま、ささくれを目に突き入れてもいい。そのどれも不可能なら――。
「逃げ……ろ……」
空しく掠れた声は届かず――〈魔人〉の蹴りが娘に浴びせられた。軽々と吹っ飛ばされ、壁に叩きつけられ、床に突っ伏す。呻く。
「いたたたた……」
飛び方は派手だったが、体重が軽いだけあって衝撃も同様だったようだ。
結い上げていた金髪がほつれ――なにかが床に跳ねた――金属。繊細な音。
〈魔人〉の力が、今度は明らかに緩んだ。視線は娘へと注がれている。少年に、その理由はわからない。
俺の次は、この娘が殺られる――。
それだけが確実――体の内奥で留め金がバチンッと音を立てて弾けた。
奥歯。合わせる。軋む。首にかかった手へ自分の指を潜り込ませながら――〈魔人〉が抵抗に気づくよりも早く――横の壁を蹴った。反対側へ体がずれる。手を伸ばす。掴んだ。卓上で踊っていた水差し。渾身の力で〈魔人〉の顔面へ。叩きつける。よろめく――が、倒れない。首も外れない。水が飛び散る。
破片も。
無数に宙を四散する中から、少年の鋭い目は瞬時に必要なひとつを選び出す。
掴み取り、流れる動作で夜気を裂く。
初めから、水差しの欠片を手にすることが目的だったのだ。
断!
ぶつん、と〈魔人〉の手首の腱。死の軛から逃れた合図。やっと足が床へ。
〈魔人〉が、みずからの故障を顧みることなくもう一方の拳を繰り出してくる。血臭が渦を巻く。
断!
ぶつんっっ、と今度は肘。勢い余って平衡を崩す〈魔人〉の目に、驚愕が滲む。血が撒き散らされ、板壁を汚す。だらりと腕が下がった。
「ふぬっ」
床板を撓ませ〈魔人〉が踏みとどまる。
その支えた膝の腱へ、三たびの牙。
しかし手首や肘とは太さが違う――ましてや〈魔人〉の肉体――陶器の破片を突き立てた程度では――蹴り――足の裏で押し込まれる。
断!
ぶつんっっっ。ひときわ響く破壊の低音。〈魔人〉が膝をつく。前のめり。支えられない――両腕はすでに壊されている。床に――倒れることもさせない。
「誰が寝ていいと言った?」
少年は冷酷に言い放つ。
膝蹴り。
前のめりになっていた男の顔面、鼻を中心に潰す。巨躯が仰け反る。噴血が弧を描く。貫手、喉、苦鳴さえも奪う、渾身の突き、真横、こめかみ、振り抜く。〈魔人〉の体が床へ叩きつけられ、散らばっていた水差しの破片がいっせいに乱舞。追い打ち、踵蹴り、頸骨へ、直下。〈魔人〉が身をよじった。自慢の肉鎧に阻まれる。軸足変更、後頭部へ。蹴撃。〈魔人〉の目が焦点を喪失。灰色の髪を掴んで引き起こし、顎の下へ腕を絡め、首に捻りを加え――〈魔人〉の、生き物としての本能的な抵抗が伝わってくるのも冷然とやりすごし――曲げる。捩る。
――殺せ。
裡なる〈術〉は粛々と命じる。
「ストーーーーーップ!」
鋭く甲高い叫びが耳元で爆ぜた。頭の芯に刺さる。全力で腕を〈魔人〉から引っぺがされる。もつれ、倒れ――。
「もう十分です!」
馬乗りで、胸ぐらを掴まれ、激しく揺さぶられ、息がかかるほどの間近で怒鳴られた。顔をくすぐるのは、金髪。
――でも、まだ殺してないぞ?
少年は応じかけて、やにわに娘を押しのける。飛びすさり、床に横たわった異形の男を見下ろした。分厚い胸が上下している。息はあるようだ。そこまで確認した途端、経験のない冷たい汗が全身に噴き出した。
いつから――。
おそらく危地を脱したあとだ。淡々と急所を攻め、五体を的確に破壊し、死に至らしめる。手順通り。
自分に望み通り時間稼ぎをする力が――そして自分の想像とかけ離れた力が――あったことを思い知らされ、ぎくりと身も心も竦ませる。
蠢動。
体の底。
深く、どろりとしたわだかまり。暗く、冷たく、不定形な――『沼』と呼ぶのが一番しっくりくる――感覚。
なんだ、こいつは――。
おののく少年の疑問に、あぶくがひとつ弾ける。
――まさか、解き放たれたと信じてたのか?
『沼』が腐臭を放ちながら嗤っていた。黒い水面から無数の手が伸び、覗き込む少年の五体をかき抱く。ねっとりと絡みつく。もがく――解けない。『沼』が迫る。湿った冷気まで、はっきり感じ取れた。
自然と歯が鳴る。
かちかちと小刻みにつづく。止められない。喉が絞られる。〈魔人〉よりも強く。
「くっ――」
溢れかけた叫びを辛うじて堪えたのと、頬が痛々しい音を立てたのは同時だった。
「しっかりなさい!」
まただ。
その声は、頭の芯まで届く。『沼』が一瞬にしてかき消えた。何本もの黒い手も――少年は汗にまみれた顔をあげる。目の前に娘。頬が熱い――ひっぱたかれたらしい。
目が、合った。
「気がつきまして?」
碧眼からの真っ直ぐな視線が、せめてもの救いだった。怯えられたら、この場から逃げ出していたかもしれない――が、見つめていることもできず。
「逃げろと言ったはずだぞ……」
目をそらす。こぼれた言葉が床に散るままに――構ってる暇はないという素振りで――娘の手にしていたものが、鼻先に突きつけられた。
「これ、なんだかご存じ?」
銀鎖。古ぼけた鍵が下がっている。持ち手は少し凝った植物装飾――西洋柊か。中央に小さな赤黒い石。
「鍵……首飾り、か?」
娘の勢いに飲まれつつ、答える。
「それでは見たままですわ」
露骨に詰まらなそうな表情をされた。どうやらお気に召さなかったらしい。鼻先でぶらぶらと揺れつづけるのは目障りだ。
「じゃあ、なんて答えりゃ――」
細い腕を脇へ押し退け――変更――掴む、引き寄せ――床が震え――木窓が粉砕。流れ込んできた夜風、煙の臭い、ゆらめく火影を身にまとい、逃げ去る〈魔人〉の背中が暗闇に埋もれていく。
一瞬の出来事だった。
「もう動けたのか……」
不意打ちを仕掛けてこなかったので、まだ戦える状態ではなかったのだろうが。その怪力以上に侮れない回復力だ。
「お会いしたときから気になっていたのですが――」
劇的に風通しの良くなった窓を呆然と見つめていた娘が、気を取り直して言う。黙っていれば、整った部類に入る顔をきゅっとしかめた。
「あなた臭いますわよ」




