女の子を助け:第一日(4)
薄汚れた小さな酒場の竈には、スープの鍋と油の鍋が火にかかったまま放置されていた。煮えたぎり、縁は焦げ、油のなかで泳ぐ魚の身は黒くなり、細く灰色の煙もあがりはじめている。
不穏な音と臭いを気にする者は皆無だった。おたまが床へ転がり、五つの卓とカウンターには、酒が入ったままのコップ、中途半端に手をつけた料理が、それぞれ置かれたままだ。つい先刻まで、場末ながらも賑やかな――下品な言葉の飛び交う――空間。人だけが故意に描かれていない風俗版画の世界だった。
静けさは店内だけではない。
一度だけ慌ただしく足音が通り過ぎていったが、それきりだ。静寂が戸板、床板から染み入り、押し包み、せせこましい店内をひたひたと満たす。
圧迫への反抗か、厨房で小さな爆発が起きた。鍋の周囲が赤々と彩られ、やがて卓の方へと静けさを駆逐していく。
鍋のなかでは、炭化した魚の身が暴れていた。
◆
シスル市街――路地裏。出会ったばかりの少年と娘は、動きの鈍くなった〈魔人〉から逃げ切ったものの、まだ町を抜けるにはほど遠い。
「こっちだ」
少年は、みすぼらしい絵看板に目を走らせると、金髪の娘の腕を引いた。抱き上げたときには気づかなかった華奢な――そして柔らかな――手応えに、慣れない脆さを感じて指の力を緩める。
その一方で、蹴り――木戸が一撃で弾け飛ぶ。
「まあ!」
娘が感嘆の声をあげた。
「見かけによらず力持ちですのね」
「蝶番が腐ってたんだろ」
揃って室内へ飛び込みながら少年は平然と返しつつ、ぐるりと見渡した。看板通りだ――革職人の工房。壁際に木槌、金槌、鑿、千枚通し、大小の刃物。「ひっ」と立ち竦む気配――娘の視線が一点へ――仄暗いなかに立ち並ぶのは、肘から先の人の手。
「木型だ」
「わ、分かってます」
道具を物色しながらの説明に、娘が手の模型へ顔を寄せる。さっきのは、決して恐怖におののいたわけではありませんのよ――という素振りだったが、その白皙の横顔はこわごわ覗き込む表情以外のなにものでもない。
木型には五指あるものの他にも、親指と残り四指がひとつになった鍋掴み風のものなど、いくつかの種類が木立をつくっていた。
「か、革手袋の職人のようですわね」
「そうだな。造船技師たちが買うんだろう」
金槌と鑿を手に少年は頷く――訊きたいことは山ほどあるが、まずは目先の問題を解決だ。娘の手枷を作業台へ載せ、留め金へ鑿の刃を打ち込む。あっさりと木が割れた。
「やっと自由になれました。お礼を申し上げますわ」
赤くなった手首をさすりながら、娘が明るく微笑む。わずかに小首を傾けた鷹揚な仕草と合わせて、主が従僕へかける言葉に聞こえなくもない。
さては良家のお嬢様か――。
少年はちらりと想像を巡らせた。言葉遣いが上流階級のものなのは、会ったときから気づいていたが。どうも自分とは住む世界が違いそうだった。本来なら出会うこともなかったのではなかろうか。とはいえ――。
「まだ気を抜くなよ」
口調を改める気もない。実際の主従ではないのだから。
手にしていた道具を投げ捨てる。娘に背を向け、入ってきた方向とは反対側にあった戸を開けた。
「それは?」
娘の問い――少年の腰の後ろに差した二本の千枚通しのことらしい。答えるより先に娘の視線が壁の道具掛けの一カ所へ――空いていることに気づいた。
「いつの間に……」
素直な驚き――それも、外へ出るまでの短い間だったが。
「なんですか? この臭い」
戸口で立ちつくした娘が、自由になった手で口元を覆う。
「火が出たようだな」
少年は素っ気なく伝える。左右、それから上方へ素早く視線を走らせ――同時に嗅覚、煙の臭い。聴覚、騒ぎは――なし。やはり町は無人なのか。触覚、風の向き。
「行くぞ」
娘の背を押して小路へ。風が吹き抜けていくたび、うっすらと漂う煙が見えた。何区画か隣で上がった火の手が灯り代わりになっている。
角を折れ、左右に灰色の壁の迫る道を抜け、なだらかな坂を下り、汚れた石段をあがっていく。起伏の多い特徴的な土地だった。そこへ家屋を並べた――建てた、と言うほどしっかりしたつくりではない。労働者、それも貧しい人が集まった地区なのだろう――から、道は自然と入り組み、夜の陰も手伝って迷路と化していた。
「あの塔にこの坂道に造船……ここは、もしかしてシスルですか?」
「ああ――」
頷いた少年は初めて――三叉路でさえ躊躇なく道を選択、誘導していた――足を止めた。
「お前、今まで自分がどこにいるのかも分かってなかったのか?」
「ええ――」
娘がきょとんとする。「当然だろう」という顔つき――一拍おいて手を合わせる。
「そうでしたわ。説明がまだでした。ですが、どこから語ればよろしいのか――」
火の手が迫っていることなどあっさり忘れた思案顔を、少年は手で制する。悠長に付き合う余裕はない。それに――。
「考えるのは後にしてくれ」
聴覚――聞こえる。苦しげに咳き込む息づかい。娘の碧眼に、たちまち緊張が満ちる。
「誰かいますわ!」
次の瞬間には駆けだしてしまった。
「おいっ」
置き去りにされ、しかたなく少年も走る。聞こえてくる咳は甲高く――女か、子供か――あの〈魔人〉が発しているとは思えない。用心にこしたことはないのだが。
小路を抜ける前に追いつく――その先、裏通りの一角で煙が逆巻いていた。風が滞っている。
路傍――半地下倉庫から咳。蓋戸を開けようとしているらしいが、無意味な努力だった。がちゃがちゃと閂が空しく鳴りつづけている。娘が跪いた。
「もう大丈夫です。すぐに助けて差し上げますわ!」
呼びかけに、ぴたりと蓋戸の動きが止んだのを確認すると、傍らを仰ぎ見る。
「さあ早く!」
お前の出番だぼさっとするな、と言わんばかりの身ぶりで急かされ、少年はまたしてもこみ上げてきた言葉を辛うじて嚥下する。無言で娘を脇へ押しやった。静かに閂を外す。そのまま逆手に構え、蓋戸をゆっくりと開ける――不審な動きがあれば、すぐさま突き入れる体勢。
しかし、現れたのは薄汚れた身なりをした赤毛の少女のみだった。
危険はなさそうだ。構えを解いた少年の横から、娘が白い手を差し伸べる。
「誰がこんな酷いことを……」
「忘れたー」
外へ連れ出し、埃を払ってやりながら憤慨していた娘が、少女の答えに息をのむ。
「ご両親は? お家はどこ? あなたのお名前は?」
矢継ぎ早に問われても、棒立ちでなすがままの少女の態度は変わらない。
「忘れたー」
「名前も? 自分の名前ですわよ?」
「うん。忘れたー」
平然と頷く少女を、まじまじと見つめた。
「この子、わたくしと――」
振り返った娘の語尾を、破壊の音が遮った――木戸。弾け飛び、割れながら向かいの壁にぶつかり、いくつもの木っ端に砕け散る。
つづいて――のそり。と、いびつな影が現れた。異形の肉体美。それを誇り、貧弱な者どもを見下す灰色の目。
〈魔人〉だ。




