ひとまず決着:第七日(6)
首都脇道――馬車の暴走はつづく。
狭い街路に沿って並び立つ左右の屋根に切り取られ、青い帯となった五月の空を、仰向けになったレディはむなしく掴む。
(落ちる――!)
レディは目をつむり、咄嗟に両腕で頭を抱える。馴染みのある感覚――ずっと昔、同じようなことをした気が――しかし、掴みかけた記憶の欠片までもむなしく一瞬で過ぎ去る。衝撃――着地――いや、違う。
「え?」
目を開ける。まだ、地面じゃない。
けれども、空を見上げた姿勢のまま。
足――片方だけだが――車体の側面にあった。支えている。体のすぐそばで、前輪の凶暴な回転。
もう一方の足は――ツクモ。
足首を掴み、片手で手綱を操り、前方を睨み――状況をついに把握。
「きゃあああああああああぁぁぁぁぁ!」
レディは、おそらく記憶を失ってからもっとも派手な悲鳴をあげた。いうなれば、馬車の側面に立っている格好。
しかも足を――嗚呼。なんと破廉恥なことか――足を広げて、だ!
しかもしかも男に向かって!
素早く膝を合わせる――が、ツクモが引き上げようと力を込め、辛うじて車体に載せた足場は不安定――じりじりと足を開かれる一方。
「見ないで! 見ないで見ないで見ないで見るなっ見るな見るな見るなっこっち見るなっ見たらコロス!」
上品な言葉遣いなど呆気なく吹き飛ぶ。両手で短くなった裾を引っ張り、空しい努力を繰り広げる。猛進する馬車を御するツクモに、覗くほどの余裕さえないのは頭の隅ではわかっているのだが――。
「そんなことより光の――〈光球〉を!」
「そんなことですってっ?」
思わず反論。しかし。
「「〈光球〉!」」
ツクモと声を合わせてポーチェにまで叫ばれる。
レディは、かの悪逆邪知な夫の仇に求婚された未亡人の覚悟で、両手を裾から手放した。自分の周囲をゆらゆらと漂う〈光球〉に手を差し伸べる。振動で揺れるたび、じゃれつく動きを見せた。
「捕まえられないっ」
「気にするな。手を振れ――投げる真似をしろ。〈教授〉の馬に当てるつもりで。その体勢なら後ろはよく見えるだろ!」
「ガス灯ー」
窓からポーチェが進行方向を指さす。向き直って確認する間もなく、ツクモが掴んでいた片方の足首を上へ――体は下へ――逆立ち状態。再び裾を押さえるレディの眼前を、ガス灯の鉄柱が黒い影となって吹き抜ける。
足が元通りに。体は水平に。
「なんて格好させるの!」
「嫌なら、さっさと投げろ!」
ツクモとの応酬に、ポーチェが期待の眼差しで窓から身を乗り出す。
「早く投げてー」
「もうっ!」
どうにでもなれだ。レディは全身を使ってできるだけ腕を伸ばし、馬車の背後へ付こうとしている〈教授〉の馬を目がけて、振り抜いた。
白昼の陽射しに負けじと輝く光の航跡が、馬の鼻面へと飛んでいく。
まっしぐらに。
◆
暴走馬車の後方――〈教授〉は街路を逃げ惑う人々を巧みに避けながら、飛来する〈光球〉を見て口元を歪めて笑う。
「その魔法は城跡で見た――」
杖を握り直した。無造作に打ち払い――炸裂。
閃光。
「なにっ?」
視界を白く覆われる――まだ昼だというのに。やられた! これが狙いか。そういえば、あの廃墟でも帰ってきたツクモに〈光球〉はついていなかったではないか。歯噛みする。
馬が驚愕の乱舞。振り落とされないよう、手綱を引き絞る。馬は前脚で宙を殴り、後ろ脚で見えぬ敵を蹴り、右へ左へと跳ね回るのを手元の感覚のみで捌く。
ようやく視界と馬の落ち着きを取り戻したときには、目の届く範囲にツクモたちの馬車の影も車輪の響きもなくなっていた。
「これで、諦めるとでも?」
不敵に呟き、すぐに馬を走らせる。通り抜けていった道は、往来の様子を見れば一目瞭然だ。裏町のこそ泥を追うよりも容易い。
もちろん、そのことは馬車の一行――特にツクモ――は承知の上だろうが。
「あの男なら、追いつかれる前に次の手を打つ」
そう独りごちた矢先に、目の前が開けた。
黒河。
「私としたことがっ」
〈教授〉は馬から飛び降りると、河岸に駆け寄った。
上流――旧王宮跡と大修道院の白い八つの尖塔。
下流――大きく蛇行する手前に吊り橋。対岸には陛下御用達――メドウズ伯の館の往復に使った首都南西間鉄道の駅がある。川面には船。帆が立ち、櫂が並ぶ。その間を泳ぐ投網と積んだ小舟は「浚い屋」か。
それから――煙――蒸気船。橋をくぐれるほど小型のものが――外国航路の大型船は、もっと下流に停泊している――行き来していた。
そのひとつ。
下流へ、ひときわ波を蹴立て、威勢良く黒煙をたなびかせ、黒い河に白い航跡を描く蒸気船があった。
側舷に、まず目に付いたのは鮮やかな赤。その傍らに陽光を照り返しそうな金。一転して、深く鎮まる黒。
赤――少女――ポーチェが大きく無邪気に手を振っていた。
「退路は常に考えておく性分、か」
黒――東洋人――ツクモの遠ざかっていく姿から目を離し、周囲を。すぐに見つけた。傷だらけになった馬車。ここから蒸気船に乗り換えたのだ。
「まあいい」
再び河へ。金――レディ。
「お嬢さんも、あの騎士がいれば、なにかと便利だろう」
洋杖をくるりと一回転。
「だが……逃げ切ったと思わんことだ」
身を翻す。馬の轡をとると、河岸を後にした。
小さな銀の一筋が、空を横切っていることには、最後まで気づかなかった。




