狩人は歓喜し:第七日(5)
エルムズパーク西寄りの緑地――〈教授〉は己の「狩人」としての勘と、「獲物」が垣間見せた驚きに、〈組織〉とやらの兵隊どもを逃がしてしまった溜飲をようやく下げることができた。
短い囁きを東洋人の若者が金髪娘へ――さすがに聞き取れない。ただ、その指示に従って、金髪娘が赤毛のお嬢ちゃんの手を引いて走り去っていく。
また、先に逃げるよう言ったのか。
〈教授〉は警戒に目を細める。
まあ、いい。目の前の「獲物」に集中するとしよう。注意を乱したままでは、遅れをとってしまう――過日のように。
「今度は飛び込む河が少しばかり遠い。大丈夫かね?」
「あの河では泳ぎたくない」
若者の素直な答えに、対峙したまま頷く。
「それはよかった。私もお勧めできないのでね」
自然と口元が緩む。歓喜――ようやく望んでいた「狩り」だ――はやる気を抑え、意識を足へ。長靴の中で爪先に力をこめ、次の瞬間。
解放。
地を蹴る。肉迫。文字通り瞬く間――良い動きだ――自画自賛。杖を振り下ろす――躱された。地面へと食らいつく。衝撃。丸く穿たれ、芝がめくれあがる。砲弾の破壊力。
若者が右足を杖の先へ――上から押さえ込む。左足――蹴り。手首へ。
「ぬんっ」
〈教授〉は「獲物」の体重ごと、地にめり込んだ杖を引き抜いた。
一見して細身の若者の体が、実はそれなりの重量を持っていることに密かな驚き。いったい、どれほど鍛えてきたのか――また、歓喜がわきあがる。
手首への蹴りに宙を切らせ、着地ぎわを狙う。横撃。足へ――この東洋人の最大の武器は俊敏さ。身軽さ。
若者が片足を伸ばす。地面へ。爪先が着地――と、同時に跳躍、側転。頭を中心に、ほぼ、その場から動くことなく一回転。
〈教授〉は目を見張る。予想以上の体術――これまでの認識を修正。
躱された杖の軌道を変更――鋭角に斬り上げ――若者の踏み込み。懐――激突。振り抜けない。体全体を使って杖の握り手から止められた。
拮抗――膠着。
「ふむ!」
満足と憤懣が混ざり合いながら吐き出される。
「君は、また逃げようとしているな」
初めの手首への蹴りは攻撃というより、逃走を想定した牽制だ。痛めつける気があれば、急所を狙うだろう。
「目立ちたくないんでね」
若者の平然とした肯定に、思わず嘆きがこぼれた。
「東洋人――特に極東の者は、名誉をことのほか重んじると聞いていたのだが?」
「そいつは、俺とは別の『階級』の話だ」
小さく首を振っている。
「もうひとつ説明してやると、名誉を重んじるのではなく『恥』を恐れる」
「目立つのは『恥』かね?」
「はにかみ屋なんだよ」
まだ日も沈んでいなければ、雨もない。人の目はすぐそばだ。数え切れない。数人は、すでに気づいているようだった。
「それに、前にも言っただろ? 日時まで約束していないと」
「ああ。しっかり覚えているとも」
〈教授〉は飄然と――一瞬たりとも力を緩めず――頷く。
「ところで、私の言ったことは覚えているかね?」
問いに、若者の眉が微かに持ち上がる。忘れているらしい。教えてやろう。
「別離を運命づけられた若い男女は詩的だ」
告げた途端、睨みつける黒い瞳に冷たい感情が宿ったのを〈教授〉は見逃さない。
いいぞ!
素晴らしい目だ。
騎士だとか暗殺者だとか、そんな子供だましはどうでもいい。狩るに値する「獲物」でさえあれば十分!
「今度は逃がさん」
〈教授〉は空いている左手で、上着の裾を跳ね上げた。腰へ――吊っていた縄――新調したものだ――握る。奥歯を噛みしめる。五体が張りつめる。
「ぬうっ」
最大出力。若者の両足が芝を滑り、平行線を描く。
杖を振り切る。
勢いを利用した若者が後方へ跳ぶ――それだ。狙い通り。待っていた。
縄を放つ――足元へ。
獲ったっっっ!
声なき確信――。
「なにっ?」
弾かれた!
驚きが、鼻先を猛然と駆け抜ける蹄と馬車の轟きに踏みにじられる。
馭者台――金髪の娘。車内に赤毛の少女。ひたすらに去っていく。
若者――いない。
すり抜けざまに、車台へと飛び乗ったらしい。乗合馬車にただ乗りする下町の子供を思い出す。
「逃がさんと言ったはずだぞ」
いまだ興奮さめやらぬ人々の、悲鳴と罵声の帯を見定めると、〈教授〉は投げ縄を拾いあげた。歩き始める。
足取りには、微塵の焦りも見当たらなかった。
◆
水晶宮内――中央広場。
「お呼びでございますか? 殿下」
〈科学卿〉ことベンジャミン・ディルが、収まりつつある混乱を分け、髪を撫でつけながらアルバロサ公の前へ立った。ずれたままの襟飾りが、先刻までの狼狽ぶりを声高に物語っていた。
これまで散々に〈魔法卿〉を嘲弄の的としてきた男だ。報復として真っ先に〈消滅〉の餌食となってもおかしくはなかった。
本人も、それが分かっているからこそ、ここまで取り乱したのだろう。死にものぐるいで逃げ出す算段をしていたに違いない。
その醜態を目にすれば、〈魔法卿〉も溜飲を下げて、あるいは〈魔術〉の発動そのものを思いとどまっただろうか?
アルバロサ公が微笑を浮かべた。もはや考えたところで意味はない。背後へと道を空けながら、妻――女王を無言で示す。
途端に〈科学卿〉の顔が輝いた。
「陛下! お怪我もなくなによりでございました!」
改めて身なりを整え――やっと襟に気づいた――強引に乱れをねじ込みながら、笑顔で取り繕う。
「いやはや、私もこの有様でございます。しかし、これで〈魔術〉がいかに時代遅れで危険な代物か――は?」
「ひとつ、訊きたいことがあります」
優美な衣装さえ霞ませる笑みを湛え、女王が〈科学卿〉の前へ一枚の――東洋人の少年から受け取った――ツクモが〈組織〉の元締めの家から盗み出した――紙を広げてみせた。
暗殺契約書。
「この署名は、貴方のものですね。ベンジャミン・ディル卿」
「それは――」
短く叫びをあげたきり、〈科学卿〉が絶句する。
あらゆる報告書、請願書の最後の一文まで目を通し、決して疎かにしないことで知られる女王だ。当然、各大臣、名士の署名も頭に入っている。
「もちろん、貴方にも言い分はあるでしょう。この件は議会で取り上げてもらいます。そこで存分に主張してください。身の処し方を考えておくこともお勧めしておきます」
穏やかな口調だが、宣告に等しかった。
すとん、と〈科学卿〉が床へ尻を落とす。膝の力が抜けてしまったらしい。
偽造だと言い張ることはできた。
しかし、相手は英邁の誉れ高い女王だ。その、彼女の主導で調査が行われる。よしんば言い逃れが通用したとしても、他の貴族、議員、名士たちは、この手の醜聞をなにより嫌う。新聞雑誌にいたっては、さらに誇張して書き立てるだろう。下手をすれば、歴史に名を残す大悪人となる。
背を丸め、呆然と座りこむ〈科学卿〉を遠巻きに、紳士淑女たちが秘やかな言葉を交わす。輪が広がり、虚実定かならぬ噂が浸潤していく。
彼の前途を先取りし、予見する光景だった。
◆
首都街路――エルムズパークから東へ。
「追いかけてきたー」
風に踊る炎――馬車から顔を出したポーチェの赤毛が、激しくなびく。
「速いねー」
例によって緊迫感と抑揚に欠けた感想。
「〈教授〉ですわ。馬に乗ってます。やっと、お望みの騎士というわけかしら?」
馭者台に立ち上がり、屋根越しに鞍上の賞金稼ぎを確認したレディが付け加える。
未舗装の裏街道と違い、石畳の疾走は馬車も馬もひとしく滑りやすく困難だが、それでも、より軽く小回りの利く〈教授〉のほうが有利であるのは自明だった。
「ポーチェ!」
ツクモは開けっ放しの仕切窓から車内へ怒鳴る。
「あの、光の球を作ってレディへ渡せ。できるだろ?」
「ちょっと!」
ポーチェの返事より先に、レディが頭上から噛みつく。
「どこから話しかけてるのっ!」
「お前の足の間だっ」
「真面目に答えないでっ!」
レディが身悶えしつつ、悲鳴まじりの抗議。馬車が左右に大きく揺れつづけるために、なかなか掴んだ屋根を手放せず、隠すこともできない。しかたなく内股気味になるのだが、今度は踏ん張りが利かなくなる。
「よくって? ぜっっったいに目を上げないでっ。見たら蹴り落としますからね!」
ツクモはレディの厳命を聞き流した。答えている暇はなく、ましてや中を覗こうなどと考える余裕も、その気もない。
馬へ鞭を入れるごとに車輪は滑り、車体は跳ねる。
街路に疾駆の雷鳴を響かせ、往来の人々を逃げ惑わせると、その動きに馬のほうが驚き慌てた。対向する馬車が、手綱を操りきれずあらぬ方向へと馬首を巡らせる。
道路清掃の少年たちが箒を肩に追いかけ、ゴミ回収夫が路上に石炭ガラをぶちまけて罵りをあげ、警官が笛を吹き鳴らし、野良犬が吠えたて、野良猫がわざわざ前を横切って反対側へと走り抜けていく。
ツクモは歯を食いしばって手綱を絞り、弛め、鞭をあて、宥め、すかし、馬首を定め、横滑りする車体を立て直す。
おまけに、追っ手は〈教授〉ときている。
真横――右側――に回り込もうとしていた。杖を振り上げ、馬を寄せてくる。併走――一撃。
馭者台の端が消し飛ぶ。
「展示品の鉄槌でも持ち出してきたのっ?」
レディが驚愕の悲鳴。
逆にしてるのか――。
ツクモは、しっかり見極めている。石突きの側を持ち、握りを叩きつけているのだ。それにしても、レディの言葉に納得しそうな尋常ならざる破壊力だったが。
「ツクモ! この馬車壊れますわ!」
座る機会を失ったまま、白い足を晒しているレディが、その踏みしめていた部分を爪先で蹴る。
止むことのない振動と過酷な運転で、馭者台が苦痛の呻きをあげていた。
亀裂――。
前輪は馭者台より前方にあるので、下手をすれば、このまま前後に真っ二つという想像が働くのも無理はない。
「まだ大丈夫だ」
ツクモに焦りはない。四輪二頭立ての屋根付きクーペ型。そうそう簡単に分解するほどやわな作りはしていない。さらに――。
「信じろ」
「あなたを?」
「〈教授〉も」
「なぜっ?」
レディが、ごく当たり前の反応を見せた。
「賞金稼ぎの美学ってのも、ときに厄介だな」
ツクモは、街路の悲鳴と騒乱を貫いて併走をつづける〈教授〉を一瞥。
「『狩人』と呼びたまえっ」
訂正の求めには応じず、前方を注視、頭の中で首都の街路図を辿りつつ。
「車輪を壊そうと思えばできるのにしなかった。ポーチェとお前が乗ってるからだ」
夜の城跡のときと同じだ。ついさっき水晶宮でも明言していた――「ご婦人や子供に手を出す輩は、その理由を問わず、潰すことに決めている」と。
それは、〈教授〉自身の行動にも適用されるのだ。馬車を転覆させて往来の老若男女を無差別に巻き込む危険も、攻撃を手加減する一因だった。
これが〈組織〉の追っ手なら、いまごろ惨憺たる有様になっていただろう。
「お気遣い心から感謝します、というのはヘンかしら?」
レディの言葉に〈教授〉が微笑。
「なに、礼には及ばないよ。お嬢さん!」
太く返答を響かせる。手に、ついさっき使い損ねた投げ縄。
「道は、険しいほうが進み甲斐がある」
縄が弛む。垂れ下がり、跳ね上がり、〈教授〉の頭上で一回転。レディが半ば感心しながらおどけた。
「前向きで大変けっこうですわ!」
「しっかり掴まってろ!」
ツクモはひと吠えすると、手綱を左へ――馬首が左、車体は右に――横滑り。〈教授〉へ肉迫。またも投げ縄が弾かれる。
「くっ」
〈教授〉が手綱を引き絞った。急停止。嘶き。棒立ち。宙を掻きむしる前脚をかすめ、車体後部が店の軒先を蹴散らし、ガス灯の基部に砕かれ、破片を街路へ散りばめる。
「そらっ」
ツクモは中腰で手綱を引く――今度は右折。左へ曲がりかけていた二頭の馬が、荒っぽい進路変更に不満の鼻息を吹きながらも、健気に従う。
「できたー」
弧を描き、右車輪を浮かせて大胆な踊りを披露する車内から、場違いに暢気な声。
「ひゃっ?」
レディが仕切窓から飛び出してきた光の球に驚き――手元が疎かに――跳ねた屋根に弾かれ――。
「しまっ――」
宙に爪を立てる。
ツクモは、すかさず手を伸ばし――届かず。




