騎士は帰還し:第六日(8)
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大路を人と馬車が行き交い、喧噪が左右の建物に跳ね、渦を作り、四散していく。
翼に音の飛沫を浴びながら、銀の梟は首都の淀んだ午後の空を滑っていた。ガラスの瞳は、その中心に辻馬車。乗客は大監獄の前で拾った長躯の男、金髪の娘、それと赤毛の少女――外を眺めている顔が見えた。
辻に差しかかると、東西南北めいめい勝手に進もうとする流れでわずかに遅滞――阻むもののない中空の銀梟は、馬車の動きに合わせようと体を傾け、大きく旋回を始める。
と――首が動いた――訝る――小首を傾げた、というところか。
ガラスの目玉が辻馬車ではなく、一人の東洋人を捉えていた。北から西へ――エルムズ・パークの方角へと、足早に歩いていく。辻を斜めに横切り――ガラスの目玉が東洋人を視界の端へ。辻馬車を捉え直す。馭者が鞭を持ち上げ、行く手を塞ぐ人々に注意の声をかけながら南から東へ斜めに辻を進ませる。
馬車と東洋人が接近――すれ違った。
双方とも気づいていない。一瞬のことだった。とくに東洋人のほうはたちまち人混みに紛れ、銀梟の空の目でも――馬車に焦点を合わせていたとはいえ――もはや探し出せない。
くいっ。
再び、銀梟が小首を傾げた。無機質な瞳に感情の閃き――頭を東へ向ける。気を取り直した、といった微かな動作。
改めて眼下の馬車を追う翼は、これまで通り、虚ろに悠然としていた。
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東端地区――夜。先日と同じ酒場に、レディたちは腰を落ち着けていた。
「どうやら営業妨害で訴えられずに済みそうだ」
〈教授〉が口髭を撫で、周囲を見回す。客が戻っていた。まずまずの賑わいと言えるだろう。「狩り」はしないという〈教授〉の言葉を信じた者、あるいは彼の獲物として認められるほどの悪漢ではない客が、酒の魔力に抗しきれず卓を囲み、杯を傾けていた。
ツクモは、まだ戻っていない。
時折、揃って席を立ち――安全のためだ――宿を覗きに行ったが、ツクモのツの字の影すらなかった。
「もうしばらく、付き合っていだだくことになりそうですわね」
腰をおろしたレディは、方形卓の空白の一辺にちらりと目をやると肩を小さく竦めた。
「構わんよ。予定などないし、お供をすると約束したのでね。それに――」
〈教授〉の目が細められる。
「君の騎士殿が約束を守らん男だということも、身をもって知っている」
「まあ――」
レディは目を見開く。
「ツクモは、もう帰ってこないと?」
小首を傾げた。〈教授〉が無言の肯定――手元の麦酒を飲み干し、付け加える。
「彼は〈組織〉に追われる身だろう?」
「帰ってこられないと?」
「可能性は色々とある」
「そうでしょうか?」
レディは、今度はしっかりと空白の一辺に目をやった。首を振る。
「想像できませんわ」
「そうかね?」
「ええ――」
レディは〈教授〉に向き直り、うっすらと笑みを湛えてつづけた。
「貴方が、本当にわたくしの騎士となっている姿と同じくらいに」
今度は〈教授〉が目を見開く番だった。咄嗟に言葉を探しあぐね、髭を撫でることで虚しく開閉する口元を隠すのが精一杯のようだ。
「ツクモを心おきなく『狩る』ために、わたくしたちを引き離したいのが本心でしょう?」
「お見通しというわけかね? いや、ここで否定するのは潔くないな……君の推測は妥当なものだと答えておこう」
ふっ、と〈教授〉が笑う。髭が歪む。
「だが私の推測――可能性のほうも――」
「ありません」
レディの断言に、おそらく帝国の全悪党から恐れられてきた賞金稼ぎが小さく諸手を挙げて――わざわざ洋杖を手放してまで――降参を示した。
「どうして、そこまで信じられるのかね?」
「『どうして』? だって彼は騎士ですもの」
レディはゆっくりと――物覚えの悪い教え子へ優しく語る女教師の口調で――答えた。
「守るべきもの――わたくしたち――のために命を賭けることはするでしょうが、いまや用のない〈組織〉などを相手に危険な橋を渡るとは思えません。それに――」
レディは胸元を揃えた指先で押さえる。
「わたくしに言いましたわ。『騎士扱いしたいなら』と。彼を騎士にするのは、彼自身だけではありません。そう見なす人が――とくに主人たるこのわたくしが――それに相応しい振る舞いをしなければ」
今度こそは。
レディは密かに、しかし強く自分に言い聞かせた。
もう三度も主らしからぬ振る舞いをしているのだ。初めはシスルの町で――あれがほんの数日前とは信じられない――塔の瓦礫の傍らでツクモを待ったとき、「帰ってこないのでは」と疑ってしまった。昨晩はメドウズ伯の館へ行くのを恐れ、躊躇した。そして、なにより魔弾を撃ったとき――。
「主人ってところは否定しそうだけどねー」
思考を遮って、不意に口を挟んだのはポーチェだ。それまで黙々と、皿に横たわる海峡鮃の骨の分離作業に没頭していたのだが。もしかすると、沈んでいきかねない気配を察知して引き止めてくれたのかもしれない、とレディは思う。
「そこのところは、一度はっきりさせないといけませんわね」
内心で感謝しつつ、いたって真面目に頷く。〈教授〉が首を捻った。
「つまり、君は彼を騎士と見なしてその言動を信じ、彼は約束通り戻ってきて君たちを守る、と?」
レディは答えない。だが、それは紛れもなく肯定だった。
「うぬぼれかもしれないが、彼よりは有能だと思うのだがね。まあ少しばかり『老けて』いるのは認めるが」
〈教授〉が赤毛の少女を一瞥――ポーチェが肩を竦めた――あたしを巻き込まないでよ、といったところか。
「歳なんて。関係ありませんわ」
レディは首をふる。
「ツクモは騎士で、貴方は騎士になれない。それだけです」
その調子には、非難も挑発もなかった。淡々と事実を告げる確信のみ。
「なぜ、そこまで君のお眼鏡に適わないのか是非とも知りたいのだが」
「ああ――誤解なさらないで」
レディは胸に手を重ね、ようやく自分が辛辣な言動をしていたことを悟る。
「貴方が強靱で有能で頼りがいのある方だということは否定いたしません。今日だって感謝しかありませんもの」
「しかし、騎士ではない」
「残念ながら」
理解できない、といった〈教授〉の顔つきに、レディはつづける。
「娘さんがいると仰いましたわ。ということは、奥様も」
「たしかに……長い間、会いもせずに離れて暮らしているというのを問題視しているのかね? 言ったと思うがこの稼業は人に恨まれることも多い。私だけならともかく――」
「ならば、どうして辞めなかったのです? 貴方ほどの人なら他の仕事でも――例えば治安判事や首都警察の捜査官とか――できたはずです。それなのに、どうして続けていらっしゃるの?」
〈教授〉が例によって少しばかり芝居の入った仕草で胸を張った。
「いまの仕事に誇りを持っている。悪いかね?」
「素晴らしいですわ。でも――貴方は、こうも仰った。昨日わたくしが、これまでの経緯を話したときです。『彼女たちの一件を片づけないまま狩りをしては、かえって厄介なことになりそうだ』と。そのときは『厄介』という意味が分かりませんでした。でも、後で娘さんがおられたこと、もう十年も会っておられないことを聞いて納得しました」
〈教授〉の表情は動かない。じっとレディの言葉に耳を傾ける。
「ご自分以外の人を守るのは、厄介だと考えておられる。いまツクモを捕らえてしまっては、その後のわたくしたちの面倒を自分が見なければならない――それが、厄介」
〈教授〉の口髭が微かな笑みの曲線を描いた――肯定。
「貴方が冷たい人だとは思いません。むしろ、責任感があるのだと思います。だから面倒を見る必要に迫られれば、そうなさるでしょう。ただし、長続きはしない」
「長く続けられない、と言うべきかな」
「そのように、ご自身のことを極めて正確に把握している。だからこそ、自分以外を守るという状況にならないよう動く。奥様や娘さんと離れているのも、そのため。ですが――」
「そういう人間は騎士になれない、と。ふむ……」
〈教授〉が頷いた。そこに怒りはなく――感嘆。
「的確な評だ。騎士には献身の心が必要で、私にはそれがない。いや、待てよ。仕事にしか身を献じられない、ということにしておいたほうが、まだしも聞こえはいいかな?」
どこまでが本気で、どこまで冗談なのか――掴みどころのない言葉を繰り出しながら、〈教授〉がレディを見つめ、呟く。
「その眼識が彼を騎士に選んだか……」
「あ……」
レディは、思わず声を洩らした。
(言われてみれば……)
初めて気づいた。ツクモが〈魔人〉と渡り合うほど強く、人々の消失した町で他に頼れなかったとはいえ、あっさりと――まだ名前すら訊いていなかったのだ――自分が見知らぬ東洋人を受け入れていたことを。
その様子に、じわりと〈教授〉の笑みが大きくなる。
「だが、私は『狩る』よ」
「どうぞ――」
レディは我に返って応え、すぐに苦笑。
「と、本来なら言いたくないのですが……止めるのは無駄だと。わたくしの眼識が」
「ああ……私のことはともかく、彼に対しては眼識などという味気ない言葉は似合わないな。『愛』とか『誓い』という詩心のある言葉にしたほうが――」
「い、た、し、ま、せ、ん」
レディは即座に断ると、わざとらしくそっぽを向く――これでも感謝だ。混ぜっ返すことで、ツクモが戻ってくるまでを深刻ぶらずに過ごす――〈教授〉流の優しさに。
「このさいだから言っておくがね、詩というのは――」
「ねえ、パイ頼んでもいいー?」
ポーチェのひと言で講釈の出端を挫かれた〈教授〉が、大仰に天井を仰ぐ。
その長躯の向こう――四角に夜の闇を区切った酒場の出入り口に、漂う煙の静けさで黒髪の姿が現れたのは、さらにずいぶん経ってからだった。ようやくの、ご帰還だ。
思わず腰を浮かせかけ、慌てて表情を引き締めつつ、取り繕う。
「首都めぐりは愉しめまして?」
必要以上に口調が冷たくなってしまうが、どうしようもない。
「堪能した」
短く、黒髪の〈騎士〉が答えた。空いている卓の一辺につく――これで揃った。全員。




