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少年と出会い:第一日(3)

 シスルの町――静夜の街路。その石畳の一部が動き、浮き上がり、横へ滑り、地面から短い黒髪が音もなく現れた。

 夜陰に沈む周囲へ素早く目を配ると、ひと息で全身を引きあげる。淀みのない身のこなしで壁際へ。空を仰ぐ。雲間に覗く星を見ようとしていた。そのまま濃い闇に溶けこんでいたが、やがて微かに息をつく。

警戒心を残した歩みで通りの中央へ――より闇の薄いほうへ――と出た。

 若い――まだ十代の少年だ。ぐるりと体を巡らせる。おどけた素振りで――初舞台を踏む役者よりもぎこちなく――手を広げた。

「すみませーん。哀れな東洋人が迷子になってますよー」

 台詞も遠慮がちだったが、そもそも応答を期待していなかった。人の気配が皆無なのは、通りに出てきたときからわかっていたのだ。町並みだけが観客だった。爪先で、横滑りさせた石蓋を元の位置へと戻しながら、呟きを夜の底へと落とす。

「どうなってんだ……?」

 少年は覚えていることを遡る。

 この、シスルの町に着いたのは昼頃だった。往来、店先、どれもごく平穏な日常風景。その後、〈お務め〉のために地下――下水道に潜んだ。

 で、気を失った――。

 無意識に手を頭へ。

 身体の時計を信じるなら、夜半過ぎのことだった。なんの前触れもなく――微かな白光を見た気もするが――記憶が途切れている。襲われた感覚――例えば薬を嗅がされた――なし。目覚めたときは、片足を棺桶ならぬ下水へ突っ込み、倒れていた。しばし呆然と佇み、ようやく自分の状況に思い至り、いちばん近い梯子を使って地上へ出たのだ。

 いや待て――。

 街路へ出る直前、馬車の音がした。馬を急かす声も聞いた。進行方向から推察して、塔のある敷地内から市門へ行ったに違いない。馬車の主が町にいた最後の一人だったのだろうか。

 もしそれが、今夜は塔にいるという〈的〉ならば、逃がしてしまったことにもなるのだが……。

「ま、いいさ」

 自然と口元が弛む。

〈的〉? 〈お務め〉? それがどうした――。

「俺は」

 拳を握りしめ、開き、また握りしめ――ただそれだけの動きでありながら、己の意で操れることに――髪の先から胸の奥、腹の底、背骨の芯、足の裏、拳の中心、隅々まで意が行き渡ることに痺れるほどの愉しさを感じる。

 首輪を外され、解き放たれた興奮。

「俺のものだ」

 この感じ(・・)を上手い具合にひと言で済ませる言葉が帝国(このくに)にはあったはずだった。(さと)で教えられたときは、「わるいことば」のひとつに数えられていたが。

 頭の葛籠(つづら)をひっくり返す。

「ふ……ふりぃだん……ふりぃどむ……」

 たしか、そんな音だったが――まあいい。大事なのは、これが決して悪い言葉などではないことだ。

「〈お館さま〉や〈元締衆〉たちには『悪い』だろうけどな。都合が」

 独りごち、鼻で笑う。

 連中の都合なんざ知ったことか――。

 都合があるとすれば、これからは己の都合だ。なにが原因か――気を失ったことと関係あるのだろうが――はっきりしないとはいえ、どうやら縛りつけていたものから抜け出せたのは間違いない。

 せっかく解き放たれたんだ。この機を逃してたまるか――。

「……で?」

 はたと少年は立ちつくす。視線がさまよう。

「なにをすりゃいいんだ?」

 あえて言葉にして自問するものの、なにしろ初めてのことで皆目見当がつかなかった。呆然とする。

 居心地の悪さが、そのまま前途に立ちふさがる巨大な壁に思われた。四方を囲み、そのうえ粘つく不快なもので黒く塗り固められている。進みも退きもできず、よすがもなく――いや待てよ。

 まだ持っているものが――。

 再び握りしめた拳を見つめ、薄く自信に満ちた笑みを浮かべる。

「こいつがあった」

〈術〉――幼いころから郷で仕込まれ、鍛え、練られ、磨きあげられ、先人から受け継がれた業――体術、山野で生きる心得、外国の言葉と地理歴史に習慣の知識、戦いと隠行の法、そして――。

 人殺しの技。

 解き放たれた拍子に、それらの〈術〉まで雲散霧消したわけではなさそうだ。感覚でわかる。

「野垂れ死にだけは避けられそうだな」

〈術〉は、すべて常人には容易く真似できない域にまで達している。〈衆〉の中で、群を抜く才だったという自負もあった。だからこそ、こうして独りで〈的〉を追うことも任されているのだ。これを利用しない手はないだろう。

 そうと決まれば、まずは――。

 金だ。軍資金――周囲の町並みを見回す。寒々とした気配。寝静まった、という表現では足りない。死に絶えたと言ってもよかった。理由は分からないが、人が消え失せているのは間違いない。ひとまず、目的はすんなり果たせそうだ。それから立ち去ればいい――不測の事態が生じたら、できるかぎり早くその場を離れること。身の安全を図り、しかるのちに状況を把握。次の策を講じる。そう〈術〉は教えていた。

 せっかくだ。金目のものが多そうな――。

 少年は丘の上へ目をやった。

 縦も横も他を圧する館の陰が、宵闇の向こうでうずくまっている。旧領主、現大地主の居館(カントリーハウス)。古くからつづく貴族、キルシウム伯のもの――事前に叩き込まれた子細が、漫然と頭をかすめていく。

 居館の傍には、石の塔。町のどこからでも見えるよう――建てられた当時はその逆の意図も兼ねて――聳えている。

 最上部から細い煙が夜空へ紛れながら立ちのぼっていることに少年が気づいたのは、そのときだった。これほどの長時間、見落としていたとは。

「まだ眠ってるのか?」

 自分を叱り飛ばすなり、走り出した。

 煙の――おそらく火も――出ている場所が問題だ。火種に事欠かない町中なら無視していた。しかし、周囲と隔たった塔。それも最上部のみ。いま状況を掴んでおかなければ、後から把握することさえ難しくなりそうだ。

 さらに。

 人が――。

 微かな声も風の中に聞いた――これも、以前ならすでに反応していただろう。解き放たれたのは良いが、喜びに浮かれやすくなっているのかもしれない。用心しろ。異常事態だ。敵。罠。いくつか警戒心を刺激する予測が脳裏をよぎる。

 塔の煙は、最上部にある明かり取りの窓から出ているようだ。炎の舌先も見えた。徐々に大きさを増していく。たちまち、目敏い者なら気づいてもおかしくない大きさに成長していくが、少年の駆け抜けていく町並みや邸宅からは依然として反応はない。

 実に奇妙だったが、原因探しは後回しだ。

 開け放たれたままの門を通り敷地内へ。手入れの行き届いた前庭を抜け、邸宅の裏手に。起伏に富んだ光景が、暗闇をまとって黒々とひろがっていた。丘の上なので、このほうが元の姿に近い。直線を幾度も折り曲げて構成された坂と階段を無視し、塀と石垣を跳び越え、まっしぐらに塔を目指す。最上部の火は丸屋根の頂まで舐め、もはや巨大な蝋燭と化していた。

 その、塔の下部。

 普通の邸宅なら二階部分に相当するだろうか。少年の五体同様に鍛錬された両眼が人影を捉えた。明かり取りから枷をはめられたままの手を振っている。さらに夜風に流れてきた声を両耳が。

「そこの方!」

 女か――。

「助けなさい!」

「はぁ?」

 少年は塔の根元へ辿り着くと、気勢を削がれた顔つきで見上げた。金髪娘――年の頃は自分と同じ十六、七だろうか。西洋人は大人びて見えることを考えると、もう少し若いのかもしれない。

 ともかく。

「誰だお前」

 こんな奴がいるとは聞いていないぞ、と腹の底で〈元締〉に文句をつける。

「それとな――」

 警戒しつつも、どういうわけか言わずにはおれなかった。叩かれれば鳴る。鐘と同じだ。

「俺に命令するなっ」

 その反応に、金髪娘が呆れた顔つきになる。

「見てわからないのですか? 緊急事態ですわ!」

「そこは二階だろ。あと一階――おいこらっ。待て!」

 少年の制止も聞かず、明かり取りから娘が身を乗り出す。

「しっかり受け止めてくださいな。覗いたら――噛みつきますからね!」

 一方的に切羽詰まった口調でまくし立てるなり、欠片の躊躇も見せずに宙へ身を躍らせた。その度胸に感心――する暇もなく。

 爆発。

 反対側。夜気の震え。轟音が耳朶を。火薬の匂い。そして爆圧――明かり取りから噴出。宙に出たばかりの娘の背を突き飛ばす。

 突然の衝撃に煽られながらも、仰ぎ見ていた少年の五体は猟犬の素早さで娘の落下点へ身をひるがえした。金髪の頭を抱きとめ、両腕で保護。体を捻り、勢いを殺す。自分を盾に地面へ――受け身。仰向けになった胸に衝撃。一瞬、息が詰まる。

 娘――跨っていた。

 裾を押さえながら見下ろしている。

「覗いていませんよね?」

 もちろんですお嬢さん――としか答えようのない口調。しかもその答えも待たず、すぐに立ち上がった。さすがに迷いもなく飛び降りただけはある。茫然自失で腰を抜かすほど繊細ではないらしい。

「火薬を仕掛けたのは、お前か?」

 少年は上半身を起こした。そこへ目を合わせた娘が手を――枷をつけたままなので、両手を――差し伸べる。

「感謝いたしますわ」

「質問に――」

「さあ、早く立ってください」

 有無を言わせぬ催促――いや――これは命令と言ったほうが正確だろう。強引に腕をとられた。ぐいぐいと引っ張り上げようとする。

 その傍らで、ミシミシと塔が不気味に呻く。

「焦るな。こっちは安全だ。倒れるなら向こう側だろう」

 渋々立ち上がった少年は顎で塔を示した。爆発のあった――二人から見て正反対の――方向へと傾いていく。

「それからな、俺に、命、令、を――」

 言い終えるよりも先に塔の断末魔が響いた。砕片と土埃、加えて腕を引かれる強さと、かざした娘の白い指――だいぶ汚れてはいたが――の隙間から覗く警戒に彩られた碧眼に、主張を遮られる。視線を辿った。

 臭気――もうもうと立ちこめる土埃から。

 これは――。

〈お務め〉で何度か嗅いだことがある。肉の焦げた臭い――それも、食欲をそそる獣肉にはほど遠い。

 人の肉。脂。

 断じた直後、薄れゆく埃をまとったそいつ(・・・)と目が合った。

 訝しげに、炎で爛れた首を捻っている。

 ああ、そうだろうよ。東洋人の若いのが、こんな夜更けに、こんな所をうろついているのは、たしかに場違いだよ――。

 が。

 その(ツラ)をしたいのは、こっちのほうだ――。

 少年はそいつ(・・・)から目を離すことなく、傍らの娘に話しかける。

「知り合いか? あの生焼けの筋肉男は」

「だから早く立つようにと……」

 娘が不服そうな呟きをこぼし、首を横に振った。

「存じ上げません。急にモコモコモコー! と」

 娘が肩を揺らし、いからせる。その身振り付き解説から、少年はなんとか推察。

なるほど(あい・しい)。〈魔人〉の一種か……」

 舌打ち気味に呟く。穏やかな状況とは言い難い。蒸気機関が幅を利かせるこのご時世に、南洋の植民地などで特殊兵器として利用される〈魔人〉化までしているのだ。戦い、もしくは殺戮が念頭にある。この場合、標的は?

 やっぱり、こいつ(・・・)だろうな――。

 少年は、掴まれたままの腕に伝わるぬくもりに意識を向ける。成り行きとはいえ助けてしまった自分も、おそらく勘定に含まれてしまったに違いない。道理で、すぐに立ち去るよう急かしていたわけだ。

 それは、「爆発でも〈魔人〉はくたばらない」と娘が見抜いていたことにもなる。

 少年には、むしろそっちほうが興味深かった。

 お上品な身なりのわりに鋭いな――。

 素直に感心する。〈魔人〉の筋肉は怪力だけではない。文字通り、肉の鎧と化す。真正面から当たっても勝算はない。厄介な相手――と、掴まれた腕へ決意の力がこもった。

「……仕方ありませんわ」

 傍らで娘のため息がひとつ。

「わたくしの合図でお逃げなさい」

 早口で囁く。逆らうことを許さない、毅然たる口調――が。少年は聞き流す。

 震えてるのか――。

 掴まれた腕への感触。こちらを信じた。口調と表情にはおくびにも出さないのだから、強がりもここまでくれば立派だ。第一、そう強く握りしめられては逃げようにも素早く動けない。それから――。

「あのな」

 少年は――我ながら驚異的な粘りを褒め称えつつ――これで三度目になるはずの言葉を繰り返した。

「俺に命令――」

 最後まで残しておいた視線を〈魔人〉から外す――まさに、その機を狙って肉の巨体が地を蹴った。埃の薄絹(ヴェール)をひきずって、ひと息で肉迫。

「その娘を渡しなさい。イエロー」

 人の頭ほどもある拳が、異常に発達した筋肉と体重と勢いを加味して放たれる。

「やだね」

 少年は冷然と応じた――その黒瞳には、微塵の恐怖も宿っていない。

「ひゃっ?」

 娘が妙な声をあげるのも構わず、片腕で軽々と腰から抱き上げ――。

「どいつもこいつも――」

 怒りも露わに吐き捨てた。同時に身を沈め、拳をやりすごし、旋回。足払い。重心のズレを捉える。膨れあがった〈魔人〉の巨躯が小鳥の軽やかさで跳ね上がった。頭からの落下。鈍い音。

「俺に命令するなっ」

 とどめに言い放つ。

〈魔人〉が呻いた。頭を振って土を落としている。気絶してもおかしくない勢いだったはずだ。太い首が衝撃を減らしたのかもしれない。ただ、さすがに動きは鈍かった。

 まだ自分の腕のなかにいた娘と、息がかかるほどの至近で顔を見合わせる。どちらからともなく、言った。

「逃げよう」

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