蝶は大監獄へ:第六日(5)
大監獄――その地下。左右に独房を並べた通路は、申し訳ていどの外光と汚水の臭気、肌にまとわりつく湿気が三位一体となって淀んだ気配を絶えず醸成していた。
レディは不快感に、鼻梁と眉間をきゅっとしかめる。
「刑が執行される前に、この毒気にあてられて弱ってしまいそうですわ」
思わず愚痴がこぼれてしまう。先頭で洋杖を鳴らしていた〈教授〉が大いに頷いた。
「実際、そういう者も多い。不摂生な生活をしていたツケだ――なあ、ジョナサン?」
通りがかった鉄格子を、目もくれずに杖で小突く。
「へえ。ダンナのおっしゃるとおりで」
かの大悪党と同じ名で呼ばれた男が、両膝をつく寸前まで腰を低くして答える。薄汚れ、肺病患者の顔つきを背に、ぬらりとした石の廊下を進む。
「飲み食いですら己を律することができぬ連中のなれの果てが、この姿というわけだよ――そう思わないか? ディック」
今度は逆側の鉄格子。
「はい! まったく……まったくその通りでございます」
日焼けした長身の男が即答する。
そして――静寂。
すべての独房に囚人がいると、レディは事前に聞かされていた。その大半が追いはぎ、強盗、殺人などの重罪犯。警察など恐れもしない不遜の輩どもだとも。
その彼らが――もはや監獄正面で吊られるか、はるか南の不毛地へ流されるかという二者択一の状態ではあるけれど――飼い主を前にした忠犬よりも静かにしていた。いや、犬ならば飼い主に尻尾を振れば撫でてもらえる。まだましかもしれない。
鉄格子の向こうにいる男たちは、あきらかに恐れおののいていた。恐怖政治を布く暴君を前にした、非力な家臣一同と化している。
「さきほどの方々は、あなたが捕まえたのですか?」
レディは、さりげない口調で窺ってみる。
「いいや。違う」
〈教授〉が首を振った。歩みは緩めない。わずかに顔を巡らし、肩越しにつづける。
「昔は、ここの独房すべてを私の『獲物』で占めたこともあったが……」
嘆かわしく息をつく。
「最近はご覧の通りだ。不摂生な者ばかりで、『狩る』に値しない」
「そう……」
レディはそっと肩を竦めた。節制に励む犯罪者など聞いたことがない。
左右の格子が不規則な音階を奏でる。
ごもっともで――〈教授〉にはかないませんや――へい。もうなにもかも――あの世で心を入れ替えます――次々と囚人たちがひと言だけ応じ、また静まりかえる。どうやら、〈教授〉に格子を叩かれた者だけ発言を許されているらしい。
「それにひきかえ、君の騎士は素晴らしい。私が、この稼業を始めてから最高の『獲物』だ!」
自分も〈騎士〉として雇え、といったことなどすっかり抛り出した〈賞金稼ぎ〉の口ぶりだ。
「ツクモは鹿でも狐でも兎でもありません」
「――と、これは失敬」
険を含んだレディの声音は泰然と受け流され、足が止まる。初めて格子へと顔を向けた。中は――空。死刑を宣告された男の最後の住処だったはずだが、執行前に消えた――消滅した、と言うほうが正確かもしれない。
扉の鍵は開いている。ポーチェが軽い足取りで真っ先に入っていったものの、ひと通り見回して、すぐに興味を失ったらしい。廊下へと戻ってしまった。
「君は?」
〈教授〉の勧めを、レディは丁重に断る。
「牢屋には、いい思い出がありませんの」
「あるほうが珍しいと思うがね」
〈教授〉自身も用はないらしく、向かい側の鉄格子へと歩み寄り、杖の一打。
「囚人を――いや、神の御許に最も近かった男を連れ出した人物は見たかね? マグウィッチ」
「はい。名は分かりませんが、二人おりました。どこぞの紳士らしいのが」
年嵩、赤ら顔の男が、上得意を迎える仕立屋の低姿勢で答える。いまにも揉み手を始めそうだ。
「どうやって夜の監獄に入ったのかしら?」
「正面からだろう。獄吏に賄賂を握らせてね」
不審な顔をするレディへ、〈教授〉がこともなげに言った。
「小細工など必要ない」
「顔を見られてしまうのに?」
「大監獄の連中は――鉄格子の内外を問わず――上流の紳士淑女方の顔を見ただけで、その身元が分かる者などいやしない。畏れ多いことに女王陛下の顔さえ見分けられないのが大半だ」
顔を隠していたらかえって怪しまれるだろう、と世の裏街道も見てきた〈教授〉に説明され、レディは納得するしかない。
〈教授〉が、来た道を引き返しながら、再び格子を叩いていく。
ただし、今度は同じような言葉ばかりだった――紳士を二人見た、というものだ。目立った特徴はなかったが、対等の二人というわけでなく、上下関係が窺えたとも。
(〈魔法卿〉と〈魔人〉の二人ではないかしら――)
むろん後者は通常の状態だったろう。
レディは後ろを歩くポーチェに意見を――振り返る――断念。少女から読み取れるものは、いつもの茫洋とした無表情のみ。おそらく頭の中では、さまざまに思いめぐらしているのだろうが。
(最初に聞かされるのが結果というのは困りものですわね)
あるいは一応とはいえ、思考の経緯を説明してくれるだけ良しと考えるべきなのか。さらには、もし記憶を失う前も同じ性格だったら――余計な誤解や軋轢を生んでいたかもしれない。出会ったときに地下の倉庫へ閉じこめられていたのも――想像して少しばかり哀しくもなる。
〈魔術師〉は人付き合いが苦手と言われる――かの儀典長は例外中の例外――理由の一端を、垣間見た気がした。
◆
黒河南岸――ねぐらを出たツクモは、再び西へ戻りながら裏町を歩く。路地を曲がるごとに少しずつ捨てているのは、鞄に放り込んだ〈暗殺者〉としての品だ。毒物は汚水へ少量ずつ流し、拳銃は分解して部品ごとに散らし、着替えて不用になった服は通りすがりの素足の少女へ――「古着屋にでも売れ」――押しつけ、その他の得物もひとつずつ手放していく。
鞄を空にしたころには、南へ蛇行する黒河に近づき、先ほどよりは「人並み」な地域へ。見えてくるのは駅舎――レディたちと別れた場所だ。首都内の他の駅と比べて小ぶりだが、壮麗な――設計者は王立取引所と同じだ――構えだった。
それを横目に少しばかり上等な――なにしろ出入り口に扉がある――店へと入る。こぎれいな身なりの東洋人客に店主が好奇の視線を注いだものの、流暢な下町訛りでひと皿注文するうちに、すぐ興味をなくした。
立って待つ前に出されたのは、肉の切れ端と野菜の切れ端と魚の切れ端と――ようするに切れ端ばかり――を、ひたすら火にかけて泥状の液体にした、貧救院の粥以下のしろものだ。付いてるパンの堅さは、〈暗殺者〉として鍛え抜かれた膂力をいまこそ発揮せよと訴える。
ツクモはパンの端を捩り割り、そこへ煮物――らしきもの――を塗ると、足元へ落とした。
すぐさまかぶりついたのは野良犬だ。街を行き来する人間同様、肋の浮いた痩せ犬だった。たちまち食べ尽くし、ツクモを仰ぐと、舌を出して尾を振る。
「すまんな」
謝罪はおかわりがないこと。それと――毒味をさせたこと。
〈血判状〉を盗み出した以上、〈組織〉もなりふり構わなくなるだろう。用心にこしたことはない。
〈封〉が解けてないころならば、謝りもせず作業に徹しただろうから、まだ良心があると言える。
犬が、まだツクモを見上げていた。黒い瞳に期待を読み取る――そう思いたいだけかもしれないが。
「がめつい野良犬は長生きできないぞ」
呟く。通じたのか、それとも諦めたのか、犬がぷいと尻を向けて去っていった。
ツクモは食事に手をつける。ゆっくりと租借。味は気にしない。より正確には、美味い不味いの差が分からなかった。これまで食べ物というのは、ただ生きるためだけのものであり、、胃に収めて体が支障なく動くのであれば石炭でも良かったのだ。大事なことは味ではなく、周囲の状況――聴覚を研ぎ澄ます。
店で同じものを口にしている男たち――普段は、いわゆる岸辺の労働者――くず鉄拾いや、下水道さらい――の話題は、もっぱら先日の大監獄怪光事件だった。
「なんだってんだ。人様の数少ないお楽しみを取り上げやがってよぉ」
死刑囚が消えてしまえば、彼らが最大級の娯楽としている公開処刑もなくなってしまう。
並んで不平を聞きながら安酒を呷っていた男が、名案がわいたのか、天啓を得たのか、ふいにカウンターをひとつ叩く。
「お前、今日は万博の仕事にありついたんだろ?」
「おお。〈魔法部門〉だかなんだかの配置を急に――ほれ、シスルだかどっかで大勢が消えちまった話があったろ? だから見せる物が届かねえんだとさ――そんで空き場所ができちまうから、色々と並べ替えするんだ」
「だからさ、そこでお前、なにかひとつちょろまかしてくればいい」
「はあ? 冗談じゃねえや。見つかりゃ、それこそ縛り首じゃねえか」
「そうだよ。そうすりゃ特等席で見物できるじゃねえか」
言い放ち、店主と一緒にげらげら笑う。
「白目剥きながら、どうやって見物しろってんだよ」
万博の仕事をしたという男が、みずから首を絞めて舌を垂らし、ぎょろりと器用に目玉を裏返してみせた。また、ひとしきり笑い。
なにが面白いのかツクモにはよく分からなかったが、すぐそばにいたために背中を叩かれ――「な? こいつ面白いだろう?」――仕方なくぎこちない笑みを作った。入れ替わりに万博の作業員、安酒の男、店主の三人までもが揃って笑みを引っ込め、露骨に怪訝な表情を浮かべる。
初めての愛想笑いにしちゃあ、よくできたほうさ――。
ツクモは密かに自分を慰めた。
「そうだ。そんなことより聞いてくれ。万博で思い出した」
そんなこと、とは先のよく分からない冗談を差すのか、それとも自分の笑顔か。
俺だろうな――。
消極的ながらも抗議を差し挟みたくなったが、黒河の蒸気快速船よりも速く進む会話に、置き去りにされる。さらに、出てきた名が聞き役に専念することを促した。
「そいつが〈魔法卿〉って陰口を叩かれてる青白い貴族様でな――」
展示物変更の指揮は〈魔法卿〉が仕切っているらしい。
「そりゃもう高利貸しみてえに細けえ奴でよぉ。置き場所がズレてるだの、向きが違うだの、いちいちいちいち全部に文句つけてきやがって、うるせえのなんの」
これっぱかしの差だぜ、と鼻先にわずかばかり広げた指を見せる。
「聞いた話じゃ、床石も気にくわねえから引っぺがして指示通りに並べたらしい」
話しているうちに、鮮明に思い出したのだろう。うんざりした表情は、その場の細々とした神経質な指図を説明以上に物語っていた。
「これで金払いが悪けりゃ、ぶん殴って辞めるところだぜ」
「なんだ? けっこう実入りのいい仕事だったんじゃねえか。それで一杯も奢らねえってのはどういうこった。え?」
言われた万博作業員が悲劇役者になりきって天井を仰ぐ。
「神よ。この強欲に天罰を。じゃなかったら呪いを。絶望して死にやがれ」
嘆く横で、もう安酒を飲み干した男が、容赦なく作業員の払いで麦酒を注文する。
図々しくもツクモにまで勧め――返事も聞かずに大ぶりのジョッキが前へ。警戒――毒味をさせられそうな犬は完全に河岸を移してしまった。
ツクモは把手を掴み――もう一方の手を素早く翻し――麦酒をひとくち――手にした獲物を足元に打ち捨て――すぐさま麦酒を吐き出す。盛大に。
「おやじっ。この麦酒、蛾が泳いでやがったぞっ」
地面には――床板などない――ツクモのビールを浴びて瀕死の蛾が蠢いていた。傍目には、口から吐き出されたと見える。
「言っとくが、代わりは出さねえぞ」
謝るどころか釘を刺す店主に、ツクモは渋々といった体を装って頷く。
この界隈の食べ物に虫が入ってるなど、日常のことだ。店主の態度はごく当たり前で、返金もしない。空腹ならば虫だけ捨ててでも食べるし、嫌なら口をつけない。ツクモは後者の理由を作っただけ――たいていの者は前者を選択したが――いつも飢えている貧者が、たかが蛾の一匹で食べることを止めたりはしない。
食えるとわかったら、食えるだけ腹に――。
そう考えたところで、ふと、ポーチェの顔が浮かぶ。そういえば子供らしからぬ食べっぷりだったと、いまさら気づいたのだ。いまでこそ、レディの見立てで上品な服を着ているが、最初に会ったころはいかにも貧民の子といったみすぼらしさだった。
やはり移民の子で、シスルの裏町育ちというところなんだろうな――。
驚異的な〈魔術〉の才や消失に巻き込まれなかったことで、特別な生い立ちを――〈魔術師〉の血統だとか――連想したくなるが。
そういうのは伯爵令嬢のレディ一人で十分だ――。
自分に言い聞かせ、麦酒に口をつけないことをごまかすかわり――それこそが本命だったのだが――奢るはめになった万博作業員の男へ話しかける。
「ところでダンナ、その配置換えってのは、どんな具合なんで?」
「どんなって……そうさな……広場というか、こう、四角い――」
男が胸の前で箱を抱える格好をし、その中身をぐるぐると掻き混ぜながら説明する。
「憩いの場って言うのかな、その四隅と間の二カ所に置くんだとよ。あっちこっちの珍品を。で、いっとう珍しいのが演壇に……なんてったっけな? ホレ、アレだ。珍しいやつだよ」
万博に出品されるなら大半は珍しいか、新しいものだろう。しばらく頭を捻っていた男が、どうにも思い出せないらしく、ついにはひらひらと手を振った。
「どうしても知りたきゃ、エルムズパークに行ってきな。昨日からチラシを配ってるぜ」
「お前は貰ってこなかったのかよ」
店主に訊かれ、万博の作業員は大きな身ぶりでおどけてみせた。説明がなくともわかる――文字が読めなかったのだ。
ツクモは礼を言うと、店を後にした。手に荷物はない――空の鞄をこっそりと置いてきた。さっきの男たちの誰かが、古道具屋にでも売って明日の麦酒の代金にでもすればいい。
エルムズパークで配っているチラシというのは、昨日手に入れたものだろう。「珍しいやつ」は〈賢者の石〉だ――が。
いっぺん、会場を探っておいたほうがいいかもしれないな――。
黒河を渡って北を目指しつつも、心に留める。いまから行こうとしている場所と万博会場のエルムズパークは、さほど離れていない。宿へ戻る前に様子を窺う程度のことはできるだろう。
そこまで算段し、またも、ポーチェの顔が思い浮かぶ。今度は、ふくれっ面だった。
見てきた、と言ったら怒るだろうなあ――。
ツクモは自然と口元を綻ばせる。今度はまともな笑みになっている自信があった。




