花は不機嫌に:第五日(4)
首都東端地区――安宿にほど近い酒場。
「あなたがどういう方なのか、ようやく理解できましたわ」
レディからの非難とも受け取れる口調に、相対する〈教授〉が飄然と周囲を見渡した――中央の小ぶりな卓についている。まだ残っている陽が、安普請のここそこから赤みの混じり始めた光として射し込んでいた。
他に客はなし――逃げ出した。すべて。首都を流れる黒河に繋がった船渠があり、船乗り、船大工、そのほか水運関連で働く、酒好きで血の気の多い連中が闊歩している町なのだが。
「この場合、東端地区がどんな場所なのか分かった、と言うべきではないかね?」
「それは一枚の硬貨を見て、裏だ表だと言っているようなものです」
ぴしゃりと言って、示した銅貨を卓の端――右手――へと滑らせた。
取ったのは店主。前掛けへ放り込み、代わりにポーチェの前へキドニーパイが盛られた皿を置く。空っぽの店内に食器のぶつかる派手な音――手が震えている。酒の切れた中毒患者と疑われても弁解できないほどだ。
「あ、アイヴィーの旦……じゃなかった。〈教授〉……今日は、その、いったいぜんたいどんなご用で?」
「用? 彼女たちと夕食を。朝が早かったうえに、昼は抜きだったのでね。それだけだ」
さっそくパイを頬張っているポーチェの姿に目を細めつつ――孫娘、あるいは遅くできた子を溺愛する風情――付け加える。
「『狩り』をするつもりはない。いまは」
その言葉にツクモは卓上に落としていた目をあげ、右へ――ポーチェから見れば正面だ――、〈教授〉へちらりと目をやった。赤毛の少女を見つめている賞金稼ぎの表情は窺い知れないが――言葉は自分に向けられたものだと察知。
お楽しみは最後にとっておくってことか――。
ツクモの全身――産毛の先端にまで――静かな緊張に覆われる。瞬時に〈教授〉の醸し出す圧迫感が拮抗――背もたれに身をあずける。杖の握りに力を込める。横顔。口髭が曲線を。唇の端が上向いている――笑み。それも歓喜。
本当に、厄介なやつに目をつけられた――。
ツクモは秘かに嘆きの息をつく。
〈教授〉の機嫌の良さを客商売の敏感さで察した店主が、これ幸いと勇を奮って――店外、二階、裏手で息をひそめて聞き耳を立てる連中を代表し――疑問をぶつける。レディを窺いながら。
「こちらは、お嬢様で?」
「こんなに若くはないな」
「助けていただいたのです。暴漢に襲われそうになっているところを」
レディが説明を添えた。
「ですが、有名人の娘と思われるのは光栄ですわ」
「こちらこそ。君のように美しい娘を持つ父親なら、さぞ鼻が高いだろうね」
皮肉にも、〈教授〉は笑みを崩さない。
「しかも、強い」
芯が――という意味なのはツクモにも分かったが、事情を知らない店主の頭に広がったのは金髪を翻して悪党を捻り倒す「女賞金稼ぎ」とでもいうべき姿だったらしい。
「左様で……し、失礼いたしました」
そそくさと引き下がる姿に、レディがむくれた。
「過分なお褒めの言葉。恐縮ですわ……暗闇で虎に合ったような目で見られましたけど!」
「追いつめられたときに一番必要なのは格闘する技術ではない。平然とはったりを利かせたり、涼しい顔で駆け引きをする図太さだ。君には十全に備わっている」
〈教授〉が噛みついてきた虎を易々といなす。
「だからあの街道でも生き残れたのだよ。これらは普通、日々の経験や鍛錬が下支えしているものだが……」
「生憎と忘れてしまいましたの」
「ふむ……過去に覚えたことなのかもしれないな」
疑問を呟きつつも、さらに根掘り葉掘りと訊ねないのは――どのみち記憶を封じられて答えられはしないのだが――さすがに紳士的というべきか。
しばしの黙考。沈思の汀から連れ戻したのは、レディの問いだった。
「娘さんがおられるの?」
「もう十年は会ってないがね」
〈教授〉の穏やかな髭の曲線が、苦笑に変化する。
「逆恨みがつきものの商売だ。仕方ない」
「……そうですか」
レディの顔つきが微かに晴れる――引っかかっていたものが取れた、胸のつかえがおりた、あるいは疑問に思っていたことが判明した――ツクモには、そう見えた。
「さきほど店主があなたの苗字を言いかけて止めたのも、用心のために禁止してるのですか?」
「いいや」
〈教授〉が髭に、再び元の曲線を許す。用心など必要ない――不遜とも言える顔つき。
「詩は読むかね?」
「多少は」
即答。
どうして記憶はないのに断言できる――。
ツクモは訝るが、問い質すより先にレディが「ああ!」と小さく手を打つ。
「比喩で使いますね。蔦は」
「そう。女性の隠喩。戯曲のほうが有名かもしれないな……『楡の木に絡む蔦』というやつだ。この商売は、ときに凄味を利かせる必要もあるのでね。あまり優しげな印象は付けたくない」
「それで、〈教授〉と?」
「自称ではないよ。売り出し中の若いころ、苗字で呼ばないで欲しいとお願いしていたら、いつの間にかこうなった。教鞭など執ったことないのだが」
「別の鞭を執ったからじゃないのか?」
ツクモは冷ややかに口を挟んだ。そもそも本当に「お願い」したのかどうかも怪しい、と思っている。
その内心の語りも伝わったのだろう。〈教授〉が、心外だと身ぶりで示した。
「私は『狩り』に鞭など使わないよ。杖と、せいぜい縄だけだ。もっとも、その縄のひとつは君が壊してしまったがね」
「壊したのは肉団子だ。俺じゃない」
「貸したにもかかわらず我が物顔で使ったのは君だろう?」
「貸した? 詩を愛好してるわりには言葉の選び方が雑だな」
「責任転嫁かね? この振る舞いは騎士にふさわしくないと思うがどうだろう?」
〈教授〉が生真面目に――下手な演技ですぐに冗談と知れるが――レディへ訴える。
「二人ともやめてくださらない?」
レディが手を挙げてうんざりとした表情をする。
「せっかく和やかになりかけた空気を険悪にして」
いまの会話の、どこに和やかさが生まれつつあったのか。ツクモは理解に苦しんだが、これ以上ややこしくするのも面倒――黙り込む。
「ところで。さっきからお嬢ちゃんが、ずいぶんと不機嫌そうなのは私の思い過ごしかね?」
ひたすらキドニーパイを口へ運ぶポーチェを、〈教授〉が横目に見る。
「ひと言も口を利いていない気がするが?」
「万博の会場を見たがっていたけれど、無理に連れ帰ったものだから……」
レディの説明に、やっとポーチェが手を止めた。
「見たかったー」
ぷうっ。と、頬を丸く膨らませる少女に、〈教授〉が大仰に同情を示した。
「万博は明後日開幕だ。まだ一日二日を惜しむ歳じゃないだろう?」
「でも、ガラス張りでしょー。外から覗くぐらいできるよー」
〈教授〉の慰めも、ポーチェの機嫌を好転させない。
「それに、開幕初日は一般客は入れないのー」
「そうなのかね?」
〈教授〉の問いに、ツクモは一枚の紙を卓上に置いた――万博会場そばで配っていた告知。
まず目立つのは、その惹句――急告! 〈賢者の石〉特別展示決定!
明後日(五月一日)開幕の万国博会場にて。故メドウズ伯エルネスト・ヴァレリアンの秘宝がついに! 初日は新〈魔術〉の公開実演も! と、派手な字体でつづく。
「ふむ。『注意。一般入場は二日目から』と。たしかに」
〈教授〉が読み上げ――しかし、視線は別の部分――中央に描かれた美女。捧げ持つのは、柊の意匠が施された鍵。太い指でそこを叩き――レディへ。
「君が持っている模造品と、よく似ている」
「ええ。そうですわね」
「ここには賢者の石、と」
「ええ。初めて知りましたわ」
眉ひとつ動かさず、落ち着いた口調で応じるレディを、〈教授〉がしばし見つめる。やがて、言った。
「何者だね? 君は」
「さあ?」
レディが肩を竦めた。
「生憎と忘れてしまいましたの」
同じ台詞に別の微笑――あるいは自嘲。
「今朝お話しした通り、泥棒だったようですけれど」
その言葉に〈教授〉が手元の洋杖を見やり、握り直した。
「ちょうど去年の今頃だったか……腕のいい女辻屋がいるという噂を耳にした。牝鹿を狩る趣味はないのでね。それきりだったが」
弄ぶ手を止め、顔をあげる。
「金髪で、上流階級の作法に通じた美しい娘だという話だった」
「美しいというのでしたら、わたくしかもしれませんね」
レディがおどけた表情をつくる。
「命拾いしたようですわ。それとも、いま捕まえておきます?」
軽い口調が、ささくれた心中を際だたせた。すぐにレディ自身も気づいたらしい。否定しようとする〈教授〉を制して大きく首を横に振る。
「ごめんなさい。今朝、わたくしたちのことを話したときに黙っていてくれたのは、あなたの慎重さと心遣いだと分かっているわ」
「構わんさ。記憶を失うというのは想像を絶する負担だろう。気にすることはない」
「ありがとう」
いつも通りの素直な礼――大きく嘆息。
「わたくしには偽物がお似合いということでしょう」
胸元を押さえる。安宿で受け取ってから、中に下げていた。
途端に、鬱憤を食事で晴らしていたポーチェの手が止まる。
「もしかして、あの鍵は諦めちゃうのー?」
「わたくしの目的は鍵ではありませんもの。どうしてこんな目に遭わなければならなかったのか、です。そしてその疑問も、この――」
告知の紙を手元へ引き寄せる。
「内容で完全に解けました――解けてしまった、と言うべきかも。わたくしが鍵を持っていたのは秘宝〈賢者の石〉だったから。いかにも泥棒が狙いそうですわ」
細い肩を竦め、目を伏せて――睫毛の陰にあるのは弱々しい光。こういうときにこそ、なにか気の利いた言葉のひとつでもかけるのが紳士というものなのだろう――ツクモでさえ察せられるのだが、困ったことに一言一句も思いつかない。もどかしくしているうちに、レディがつづける。
「実験に使われる予定だったそれが、偽物にすり替えられたせいで〈魔術〉は暴走。古くからの町の市民全員が消失。皮肉にも〈魔法陣〉の真下にある地下牢にいた犯人は、記憶を失いつつも消失をまぬがれた……そんなところでしょう。今後の身の振り方を検討しなくてはなりませんね」
レディの口調が次第に生硬なものへ――自首や自決も含めた厳しさを宿し――それにつれ、ポーチェの顔にはありありと不満が募っていった。
「なんでー」
「これまでの事実から推察すると、そう考えるほかありません」
硬い口調のままきっぱりと断言――さらに声を落とす。
「〈魔法卿〉だけでなく〈科学卿〉も絡んでいるかもしれないの。今度こそ殺されてしまいますわよ」
「ええー?」
真っ向から不服の声をあげるポーチェの様子に、ツクモはわずかに首を捻った。
「なにか、納得いかないことでもあるのか?」
「だってー」
ポーチェが唇を尖らせる。
「あの鍵はレディのものでしょー」




