怪人に追われ:第一日(2)
不穏な言葉に、娘は格子から――男から――距離をおく――後退った。危険だ――湿った床石でわずかに靴を滑らして、やっと自分の動揺に気づいた。
「ぬう……」
男が呻きとも唸りともつかない息をこぼす。物腰同様に枯淡の表情でありながら徐々に熱をまといはじめている。
「膨らんで……る?」
娘は柳眉をひそめ――その瞬間、男が――爆ぜた。
蝶ネクタイが落ち、シャツが前後から裂け、肩から袖が千切れ、カフスが飛び、ズボンの縫製がたちまち綻び、靴が音を立てて崩壊した。
現れたのは、肉の隆起。
筋肉筋肉筋肉筋肉筋肉――五体これすべて筋肉。ただただ筋肉。ひたすら筋肉だった。
盛り上がった肉の瘤と瘤が重なり、男を異形の存在へと変化させている。太い幹となった首に乗る頭部だけが、幾筋もの血管を浮かせながらも形を歪ませることなく居座っているために、かえって奇怪な釣り合いを醸し出していた。
「いかがですか? この肉体美っっっ!」
男の口元で、ようやく感情らしきものが形に――恍惚の笑み。
「……わたくしの……趣味には合わないようですわ」
対する娘は硬い笑み。紡ぐ言葉の間隙に、悲鳴を差し挟まないよう慎重に。
視線を忙しく動かす――逃げ道は? そう考えて鼻で笑いそうになった。牢屋に逃げ道! これほど矛盾した取り合わせはないだろう。石の地下牢には鼠の通る穴さえ見当たらない。あえて挙げるなら、唯一、鉄格子の向こうということになるが。
双眸に力をこめる。改めて、いまや筋肉の怪物となった男へ――集中。一挙手一投足に。唇が微かに動いた。
「大丈夫。わたくしは怯えていない。足も震えていない。奥歯も鳴っていない。嗚呼、神様! 感謝いたします! ふてぶてしさだけは奪わずに残してくださって!」
口中で励ますうちに、男が鉄格子へ手をかけた――と、見る間にぐにゃりと飴細工よりも易々と左右へ撓む。
「この剛力! 素晴らしいでしょう? 我が主に授けていただいたのですよ」
「あ。それは素敵ですわね。雑巾が良く絞れそうで」
「雑巾……」
男が、かすかに憮然とする。
「あなたとは趣味が合わないようですね」
「ですからさっき、そう申し上げましたでしょう?」
曲げた格子の隙間から、窮屈そうにして牢の中へと入ってきた男の動きに合わせ、娘はさらに退く。踵が後ろの壁に当たった――終点。行き止まり。袋小路。それでも、瞳の力は失われない。絶望の色もない。
「ふむ」
男が諸手を広げた。発達しすぎた広背筋が、脇の下でいびつな両翼となっている。
「決めました。この力を存分に味わっていただくため、抱きしめて差し上げましょう……全身の骨が砕け、その美しい唇から内臓が飛び出し、翡翠のような瞳がこぼれ出すまで」
「でも、わたくしたち知り合ったばかりでお互いのことをよく存じ上げませんし――」
娘の見え透いた時間稼ぎを、怪人の風と熱と凶暴な悦びが遮った。左右、頭上から悪趣味な死の抱擁。
そこへ――娘はみずから飛び込んだ。
進むべき道は前にしかない。身を屈め、金髪をなびかせ、渦巻きながら叩きつけられる圧力をくぐり――前転。
「あら、失礼」
舞いあがったスカートの裾を手枷で押さえると、空しく我が身をかき抱いたまま振り返る男へ微笑をひとひら。ひしゃげた鉄格子の隙間から外へ。後ろも見ずに走り出す。手には、さきほど男が床へ置いたはずのランプ。ぬかりない。
「わたくし、ずいぶん身軽なようですわ!」
ちょっとした驚きと昂揚感をにじませながら、石の階段まで数十歩。一段飛ばしで駆け上がり、すぐに上階中央。
「……塔?」
灯りを掲げて仰ぎ見る。吹き抜け――円筒形の空間が上へとつづき、やがて細い光では届かない闇となっている。円周の石壁に螺旋を描いて鉄柵付きの階段。
静謐。
娘の急いた息づかいと、ひたひたと濡れた床石を踏んで迫る足音だけが奇妙に響く。
「扉――」
娘は焦燥を堪えた声音で周囲を見渡す――あった。大きな樽に囲まれて。小さいが鉄製。ノブに取りつく――押す。ガンッと手応え。引く――同じく手応え。
「鍵――」
呟いたものの、すぐに首を横に振った。筋肉紳士の主人とおぼしき人物が、去り際に錠をおろしていたはずだ。
「開かないなら――」
嘆いてまごつく時間すら惜しみつつ身を翻し、階段へ。駆け上る。
「無駄ですよ。頂上に部屋があるだけですし、もう火の海です」
男が地階から、膨れあがった肉の巨体を現した。余裕の足取りが、他に逃げ場のないことを証明――しているかに思えた。
「あら? するとご自慢の肉体美のまま、ずっとこの塔に閉じこもってるおつもりですの?」
娘は息を切らしながら返し――直後に顔を巡らせた。あと四分の三周ほどで、壁が丸く空いている。明かり取りか。空気の入れ換え用か。ともかく外へ出られる。
男が小さく笑った。
「私の視線を辿るとは! 油断いたしました。いえ、ここはお嬢さんの機転をお褒めするべきでしょうか」
語りながらも足取りは悠々としたままだ。
「そこは高いですよ」
ようやく階段へ足をかけつつ忠告。
「お嬢さんが飛び降りるには少々難しいかと。私のような美しい体がなければ――」
「でも、わたくし往生際が悪いようですの!」
膝まで露わに裾をたくし上げ、同時にランプを振りかぶる。狙い――筋肉紳士――投げた。飛ぶ――見当違いの方向へ。
「……投げるのは苦手みたいですわ」
肩をすくめて言い繕う。床でランプの火屋が砕けた。油が飛び散る。一拍おいて小さな炎と細い煙。
「ふむ」
筋肉の上で、男の顔が険しくなった。
「急ぎましょうか。制限時間ができてしまったようです」
「まあ嬉しい。やっと意見が一致いたしましたね」
娘は階段のぼりを再開する。
床の炎と煙は、まだ消えていない。ゆっくりと動いていた。鉄扉のほう――樽の山へ。
導火線。
筋肉紳士が主人らしき人物に報告していたではないか。
火薬の準備は整った――と。




