騎士は再会し:第三日(7)
帝国の夜空の下――河へと飛び込んだツクモは水面を割って顔を出した。
暗闇。増水。濁流。加えて足の拘束。
かの慈悲深き人ならば、ひと目見るなり安息をくれるはずの重荷だったが、ツクモは水勢に翻弄されながらも冷静に息をつく。
深山の渓流に叩き込まれた鍛錬に比べれば――自分から飛び込んだのは反抗的だとして、あとで薬湯――いま思えば〈魔薬〉を無理矢理飲まされたが――帝国の河は飼い慣らされた虎よりも穏やかだ。しかも、工場の製品を沿岸に送る水運に使われているので、底はおおむね浚われている。大きな石がない。せいぜい流木に気をつける程度だった。
両足を揃えて水を蹴り、ゆっくりと着実に岸へ近づく。増水で引き上げられ、繋留された舟の並ぶ浅瀬へ立ったときには、足に絡まっていた鉤爪付きの投げ紐も解き終えていた。
「ふっ」
息を吐き出しつつ、掴んだ左足首に力を込める。ごり――という骨の滑るくぐもった音がした。縄抜けのために外した関節を元に戻す。初期に叩き込まれる〈術〉のひとつだ。基本中の基本。ゆえに顔色も変えない。
くるくると指先で投げ紐を回し、小さくまとめ――ズボンへ。
河に寄り添っている道へ出ると暗闇の周囲を見渡し、轍を確認――そのあいだに靴を脱いで中の水を捨て――素足で走り出す。
ほどなくして、湿った夜陰に滲む小さな灯りが見えた。ふらふらふわふわと漂うさまは、民話の妖光そのままだ――が、怪しまない。むしろ目標。足を早める。
城址で見た――〈光球〉。
馬車灯と目印の代わりに保持していたらしい。近づくにつれ、仄かな灯りに照らされた馬車の後部が鮮明になっていく。ゆっくりと泥濘の街道に轍と蹄の跡を刻みながら進んでいた。
「来たよー」
ふいに車窓から顔を出したポーチェが、ろくに確認もせず馭者台へ告げる。実に勘が良い。
馬車が止まった。
手綱を投げ出し、雨に濡れそぼったレディが飛び降りてくる。
「まったく! 信じられませんわ! 無茶にもほどがあります!」
まだ辿り着いていないというのに、早くもかなりの剣幕――ついさっきまで気絶してたとは思えない。余計な気を利かせたポーチェが、レディの頭上に〈光球〉を移動させ、その激怒ぶりを照らし出す演出。
「川沿いと言ったから、てっきり舟で下って来るとばかり!」
道すがら、増水でことごとく繋留されていたのを見て、飛び込んだことを悟ったのだろう。
ツクモは息をつくと――それが無事を確認した安堵か小言の予感にげんなりしたのか自分でもわからないまま――一気に残りを走りきる。
「元気そうでなによりだ」
目の前に駆けつけるなり、機先を制するのも兼ねて頷いた。何事もなかった様子で馬車の扉を開ける。
「交代しよう」
レディが言葉を探して口元をまごつかせているうちに、車内へ押しやる。
「自分で乗れますわ!」
結局、憤然としつつも座席へついてくれた。扉を閉めようと手をかけたところで、「待って」と厳しい調子で制止――きちんと膝へ揃えた手。凛然と伸ばした背筋。わずかに反らした顎。高みから睨む碧眼。
なかなかの見得じゃないか――。
故国の芝居を思い出すツクモへ――下問。
「他に手はなかったのですか?」
「あの賞金稼ぎと真正面からやりあえば手間取るし、俺は無事じゃ済まない」
言い訳でも、嘘でもない。〈暗殺者〉として鍛えられた者の、ごく自然な状況判断だ。
「かといって俺が馬車で逃げようとすれば、あの男は車輪を壊して止めるぐらいのことはやってのける」
「逃げるには、いったん二手に別れるしかなかったと?」
「そういうことだな」
そして、賞金稼ぎの手が届かない場所まで走らせた馬車へ、できるかぎり素早く追いつくには――河の流れを利用するのが手っ取り早かった。泳いだのも、ツクモにしてみれば通常の選択だ。
舟を使うというのは自分の独り合点と納得したレディが、それでもむくれながら渋々目をそらす。
「約束は守ったわけですし……許してあげます。それと――」
そもそも妥協したんじゃなかったのか――。
思うが、口にすれば話がこじれることぐらいツクモにも想像はつく。つづく言葉を拝聴。
「さきほど助けに来てくたこと、お礼を申し上げますわ」
やや堅さを帯びた声音――礼と同時に、自分の不甲斐なさで辛い思いをさせてしまったという後悔の謝罪でもあった。
ツクモは、どう応じたものか見当もつかない。ありのままに話す。
「気にするな。俺もお前には助けられた」
「あら? それなら、お互い様ですわね」
あっさりと笑み――その裏にある感情を探るほどの猶予は与えられず。
「びしょ濡れですが、乾かす時間ぐらいは待って差し上げましょうか?」
「どうせ雨と夜霧で濡れる」
ツクモは頭の露を払いつつ、我ながら不自然な――これでも精一杯だったが――さりげなさを装って訊く。
「お前こそいいのか?」
「その扉を閉めてくだされば着替えますわ」
「いや、そういう意味じゃなく――」
「わたくしが女泥棒で〈魔法卿〉の鍵のペンダントを偽物とすり替えてもしかするとそれが原因で市民消失の大惨事を引き起こしたかもしれない、ということですか?」
ひと息に言われ、ツクモはただ首を縦に。
「良いとは申し上げられませんわ。もちろん」
レディが肩を竦める。
「ですが、あの宿屋で独りになったとき考えていたのは、やっぱり最初と同じことでした」
わたくしは、どうして、こんな目に遭わなければならなかったのか――だ。その問いを繰り返すということは、まだ腑に落ちていないのだろう。
往生際が悪いと言えなくもないが――。
ツクモには、むしろ、その強さのほうが――したたかさ、と言ったほうが正確だろうか――なじみ深い。
「命を狙われつづける理由がわかりません」
レディが首を傾げた。
「もしすり替えで、あの事件が起きたのなら『この女が犯人です』と公表して、指名手配でもすればいいと思いませんか?」
「この一件に関わってることが知られたら、〈魔法卿〉も被害者面だけしているわけにはいかなくなるからだろう?」
「あの男は貴族です。たしかに体面を重んじるでしょうが、腕の良い弁護士を雇えば、少なくとも法的に責任を追及されることはなくなります。そうすれば再起はいくらでもできる。殺そうとする必要はないじゃありませんか」
「それは順番の問題じゃないかなー」
口を挟んできたのは、飽きずに〈光球〉をお手玉にしていたポーチェだった。
「推測だけど、〈魔法卿〉が鍵のすり替えに気づいたのは彼がシスルの町を出た後だと思うのー。最初は単純に塔の〈魔術〉で予想外の市民消失が起きたと思ったから、自分は逃げ出して、証拠隠滅のためにレディを殺そうとしたんじゃないかなー」
ツクモは、陋屋で〈魔人〉とやりあったときのことを思い出した。あのとき、レディが割り込み、結い上げていた髪に隠していた鍵が落ち、それを見たからこそ首を締め上げていた手が弛んだ。
「そうか!」
あのときの〈魔人〉の反応をツクモは説明する。
「あれは、『どうして今ここに、ご主人様が持っているはずの鍵が?』と驚いていたからだ」
「よくできた偽物は、なかなか気づかれないって贋作屋さんも言ってたしねー」
淡々と付け加えたポーチェに、レディが呆れた素振りをする。
「それじゃあ『勘違いで殺そうとした』ということが露見しないようにするため、本当に殺しておくと?」
「んー。それも違うと思うなー」
ポーチェの細い腕に〈光球〉がまとわりつく。ほとんど小動物だ。ツクモは内心で舌を巻いていた。この短時間で瞬く間に高度な〈制御〉を体得し、なおも才能の片鱗を発揮しつづけている。しかも、話しながらの手すさびで。
「だって殺そうとしてるのは〈魔人〉だしー。命じた人をレディは見ていないしー。〈魔法卿〉が首謀者だという証拠はないしー」
「殺す理由はそこじゃない、というわけですか?」
「んーとねー、殺すって言うから分からなくなると思うのー。ここは『口を封じる』って言ったほうが理解しやすいかなー」
「……いま不用意に口外されたらまずい、と?」
「そー」と、ポーチェが頷く。
「そいつは、つまり……まだ、なにか企てている途中なのか?」
「なにを?」
二人の問いに、赤毛の少女が首を傾げる。そこまでは分からないらしい。
「もうっ!」
レディが両の拳を自分の膝に振り下ろした。淑女としてはしたない行為と知りながら、どうしても抑えきれない――そう見えたのは、しかし束の間。すぐに取り繕い、何事もなかった様子で改めて手を――指の先まで神経を行き届かせ――揃える。
「ひとつ――きっと、あとひとつ。手札が一枚欠けていて……役が作れない」
ひたと見据えられ、ツクモはその強い眼差しに射抜かれて呼吸も忘れる。
「納得できないのです。ただ現実を見たくないから言い逃れをしているのかもしれませんが」
「いや……俺も同意見だ」
ゆっくりと、ひそやかに息をつきながら笑みを作る。
「なんにせよ、すっかり元のレディのようだな」
「最初からわたくしですわ。他に〈魔弾〉で反撃する人がいるとでも?」
「ごもっともで」
自殺すると考えたのは、少しばかり見くびっていたのかもしれない。ツクモは扉を閉めようとして、「それでも――」という呟きに手が止まる。
「女泥棒という事実は動かないようですけどね」
鋭利な自嘲。
「そうだな」
ツクモは馬鹿正直に肯定してしまい――咄嗟に対応できなかったのだ――まごつく。扉を閉めあぐねるうちに、レディがふと思いついた様子で付け加える。
「ですが、貴族専門という話でしたわね?」
「ああ……そういえばそうだったな」
「華やかで良いですわ。レディという名乗りにはふさわしいかもしれません」
自画自賛。まんざらでもない顔つき。
あ――。
その横顔を見つめて、ツクモは気づいた。
もしかして、それでも俺はお前の騎士だ、とでも言えば良かったのか――。
いまさら付け加えるのも面倒なので――いや。
そんな気障なこと言ってたまるか――。
そもそも騎士は河に飛び込んで逃げたりはしない。それに、いつから自分は「お前の」騎士になったのか。妙なところに馴染んでしまっている。
「いかんいかん」
口中の呟きを顔を拭ってごまかす。さほど濡れていなかった。夜空を見上げる。
「止みそうですわね」
一緒になって仰いでいたレディが、晴れ晴れと頷く。
「では参りましょう。今度こそ首都へ!」




