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少女は目覚め:第一日(1)

 これは夢だ――。

 そして、わたくしの記憶。母の後ろに隠れて掴んだスカートの裾ならば、襞の縫い目さえ数えられるのに、周囲や大人たちの表情がはっきりと思い出せないから――靄がかっているのだ。

 これは夢――。

 そして、わたくしが幼いころのこと。靄の理由を探ろうとした途端、母のスカートを掴む自分と、上品な婦人の陰に隠れる金髪少女が、二つ重ねになって知覚されたから――怯えと哀しみも。

 これは――。

 重なった視点の先は男たち。

「申し訳ございません旦那様。申し訳ございません」

 男たちに相対する「旦那様」――父に何度も謝っているのは家事使用人(メイド)だろう。文字通り間に立たされ、ただただ縮こまっていた。

 男たちの指示――身なりは整っている――父が白い壁を――その前に横へずらしたのは絵か――探る。

(ああ……)

 少女の自分と、少女を見つめる自分が、やはり嘆きを共にした。

 なにもなかったはずの壁に扉が開く。男たちが中へ入っていく。

 運び出される。運び出される。次々と運び出されていく。

 大事な大事な錠と鍵。

「待てっ。待ってくれ!」

 父の上擦った声。男たちの前に立ちふさがる。

「それが私の資産(もの)だったことは一度もない!」「娘へ譲渡した証書もある」「元は私の母――あの子の祖母のものだ」「祖母は亡くなっているのだから、権利はあの子にあるはずだろう」「他のものはいくらでも渡す」「それだけは!」

 嘆願。愁訴――すげなく却下――すがる父。その必死さが痛々しく――二つ重ねの知覚で心痛も倍に。

 男たち――合法的群盗――が去っていく。婦人が――母が、紳士――父の傍らへ。

 家事使用人が謝りつづけている。口が滑った。裏切るつもりは一切なかった。いままでお仕えしていたのになんてことを。

 父は――紳士は――怒っていない。滅多に怒らなかった。いつも余裕のある顔つきを――少女は見上げる。影が差していた。判然としない。表情を窺い知れない。目を凝らすが、翳りはなお濃く、暗く、深く――。

「アイリス――」

 下から呼ばれ――それが自分の名だと気づき――いつの間にか天井を仰いでいたことに一瞬の目眩。

 視線を下へ――寝台を――そこに横たわる男――父を見る。

(ああ、そうだった)

 自分は涙を堪えていたんだ。母のスカートに隠れた日から八年。絶望に多量の〈魔薬〉を呷り、いまや逃れようのない旅立ちを控えた父の姿に。

「あの鍵を……」

 やせ衰え、骨張った震える父の手が虚しく宙を掻く。すでに意識も混濁していることを物語っていた。

「二人きりにしていただけますか」

「分かりました。手を握ってあげてください」

 傍らの医者が――床に倒れ伏した父の姿を見つけてすぐに呼んだのだが、残念ながら急性〈魔薬〉中毒の治療は彼の領分ではなかった――告げて部屋を後にする。

 彷徨う手を上から包み、父に自分の存在を教えた。握り返す力は弱々しい。

「取り戻してくれ……あれは、他人が使ってはならんものだ」

「大丈夫です。お父様。大丈夫」

「アイリス。我がヴァレリアン家がどうしてあの鍵だけは女系相続していたのか……あの鍵……鍵という存在は錠とひと組であり……いわばつがい(・・・)の……」

 秩序を失っていく意識が、不連続な言葉の羅列を紡ぎ出す。

「お父様。安心してください」

 腰をかがめ、耳元へ口を寄せて、ゆっくりと話しかけた。金髪が握り合う父娘(おやこ)の手にかかる。

「あなたの娘は――アイリス・ヴァレリアンは、必ず、あの鍵を取り戻してみせます」

「うむ……うむ……」

 安堵と引き替えに、父の瞳から光がみるみる衰えていく。かすかな、ため息。

「年頃の娘にこんなことを……不甲斐ない父親で済まなかった――」

「そんな。お父様は――」

 言葉が詰まった。父の、握っていた最後の力が霧散していく。するりと抜け、みずからの胸へ落ちた。

「お父様……」

 打ちひしがれ、深い皺が刻まれ、実年齢よりはるかに老け込んだ顔を見下ろす。この世の労苦から解放された表情は穏やかで、それだけがせめてもの慰めだった。

「アイリスは、あなたの娘で幸せでした」

 さようなら。

 瞑目――暗転。


                      ◆◆◆


「うーん」

 娘は、掲げた自分の両手をためつすがめつしていた。板で上下から挟む型の手枷がつけられている。

 結いあげた金髪を、ちょこんと傾ける。蝋燭の細い火に揺らめく影が、じめじめと結露した灰色の石の表面で真似をする。

「これは、どうしたものでしょう……」

 がしゃんと手枷の音を響かせ、腕を脱力。ひとつ大きく息。天井を仰ぐ。ここも濡れた石ばかり。

「さっっっ――」

 全身に力を込め、だらりと下げていた細腕を持ちあげる。

「――っぱり思い出せません!」

 期せずして、なけなしの戦意を奮い起こした拳闘家の構え。きりりと前を睨みつける。天井から床までを、薄汚れた水が滴る鉄格子で遮られていた。

「牢……ですわね? それも――」

 前を指さし、もう何度目かの確認。格子の向こうへ真っ直ぐに伸びた廊下は、蝋燭の儚い灯火に辛うじて突き当たりまで見える。階段だ。上へと通じているらしい。

「おそらく地下牢……」

 みずからの推測に頷く。それから――沈黙――どうして、こんなところに? 疑問と手をたずさえて、寂とした空気が襲いかかる。

「ほ……他には?」

 静けさを追い払う詰問――怯えてる? いいえ。そんなこと断じてありません!

「なにか分かることは?」

 つとめて穏やかに自問するものの、仄かな闇にも映える白い肌の首をすくめる――答えは、なし、だ。整った眉間に皺。記憶の底を掘り返す痛みに耐える顔つきが、ぱっと華やぐ。

「そう! 目覚める前に夢を見てましたわ――」

 枷がなければ手を打っていただろう――ただし、一瞬の明るさだったが。

「もう、内容は忘れちゃいましたけど……」

 呟き、首を振る――しぶとく。

「見た夢を忘れることなんて珍しくありませんわ。大丈夫……落ち着きなさい。どうしてこんな場所にいるのか分からないけれど。なぜ手枷をされているのかまっっったく身に覚えがないけれど。そもそも――」

 くっ、と細い喉が息を――悲鳴を――飲み下す。


「自分がいったい何者なのか、ちっとも思い出せないけれど」


 微かな戦慄(おのの)きを伴って絞り出した言葉が、冷ややかな石壁の廊下へ溶けていくのを見送り、朱唇を引き結んだ。きりきりと鳴るのは奥歯。枷に嵌められた両手を握りしめる――白い指が掌に食い込み、さらに白くなった。

 そのまま立ちつくしていたが、しばらくして大きく一歩。そこで息をつく。肩から力が抜ける。

「ほら、まだ前へ進めますわ」

 口元に微笑――安堵と自讃。

 改めて目を落とした。足首を覆う裾まで。

「それなりに上等な服……さしずめ囚われの令嬢といったところでしょうか?」

 思案顔。少しして。口角が弛む。

「悪くありませんわね」

 改めて背筋を伸ばし、鉄格子へ近づく。ざらつく錆に躊躇うことなく、顔を押しつけた。

「人を呼ぶべきか、それとも待つべきか――それが問題ですわ」

 北国の王子を気取った台詞をこぼしつつ、じっと濡れた石を見つめて逡巡――すぐに解決。揺れる灯りが、突き当たりの階段に見えた。階上にいるらしい。助けを求めようと口を開きかけたところで、声も聞こえてきた。

「火薬の準備は整いましたが、地下牢に例の娘がまだ……」

 落ち着いた物腰を思わせる説明――わたくしのことですわね。察した娘は言葉を飲み込んだ。剣呑な気配がする。ここは様子を見ることにしよう。

 階上では、「ほう」という甲高い驚きが応じていた。それから独り言。

「〈魔法陣〉の直下、それも地下で〈魔力〉が及ばなかったのか……?」

「いかがいたしましょう?」

 主従なのかもしれない。伺いを立てる静かな声は、ひたすら慇懃だ。

「苦しむのは報いとして諦めてもらおうか。こうなった以上、証拠となるものはすべて消す……人であっても」

「かしこまりました」

「モルガン様の馬車はすでに護衛と共に発たれた。私も行く。すぐに取りかかれ」

「はい。お気をつけて」

 物騒な主命に、送る声は微塵の動揺も見せない。二人分の足音のうちのひとつは、錠が落ちたのを合図に締めくくられた。もうひとつが、仄暗い石壁に反響させながらゆっくりと階段をくだってくる。

 ランプを手に現れたのは、声質にふさわしい初老の男だった。真っ直ぐに伸びた背筋。広い額。ぺたりと撫でつけた灰色の髪。鑿で刻んだ顔つき。

「おや。目が覚めておられましたか」

 言葉のわりに驚きの調子はなく、淡々と男が牢の前で佇んだ。

「できることなら恐怖におののくことなく、眠っているあいだに殺して差し上げたかったのですが」

 丁寧かつ物騒な宣告に、娘はやっと格子から顔を離した。錆で汚れた頬を気に留めることもなく、わずかに首を傾げ――目を細める。剃刀の冷ややかさ。

「安心いたしましたわ。『どうせ殺すのだから少し愉しもう』などと下劣なことを考えそうな方ではなくて。もっとも――」

 顎をあげる――口元に冷笑。

「考えたところで使いもの(・・・・)にならないかもしれませんが」

 傲然。

 男の瞼がぴくりと引きつったものの、表情はたちまち凪いだ水面(みなも)の静けさを取り戻した。

「挑発したいのなら、頬は赤らめないほうが良いかと。それに芝居っ気が強すぎますな」

「素人なので大目に見てくださいな。次は、もう少し抑えることにしますから」

 意図を見抜かれながらも、娘は態度を崩さない。むしろ、自分自身を奮い立たせるために必要なのだ。

 その振る舞いに、男が淡々と洩らす。

「見かけによらず大胆な――いや、あんな真似をするのだから当然ともいえますが……」

「あんな真似?」

 娘の疑念に男の説明はなく、ただ納得の首肯を繰り返している。

「たしかに、お嬢さんのご期待には応えられそうにありません。残念ながら」

 提げていた灯りを床へ。骨張った指が、仕立ての良い上着の釦を外していく。

「なにしろ、私の趣味は少々特殊なようでございまして」

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