騎士は追跡し:第三日(3)
どんっ――と砲声にも似た響きが安食堂の食器たちを震わせる。
向かい側――安宿、二階。半ば腐った戸板が弾け飛ぶ――炎上、落下。地面で四散。
「お蝶さま……」
赤毛の少女が三切れ目のプディングを頬張りながら呟いた。音に驚いた様子はなく、規則正しく咀嚼。
「いまの、〈魔弾〉だー」
「ほう?」
〈教授〉が髭についた麦酒の雫を拭った。少女にとって通りは背後にあたる。
「振り返りもせずに、よく分かるね」
「油や火薬の臭いもしないのに、ここまで熱い風が吹き込んでくるほどの爆炎は〈魔術〉ぐらいでしょー?」
口のものを飲み込んだ少女が、最後の一切れに目を落としながらつづける。
「もちろん裏町に〈魔術師〉が住んでる可能性はあるけど、あの宿で発動させる意味はないもの。で、あそこにはいま〈魔弾〉を持った人がいる。それに――」
皿を持った。
「あの『音』は、このあいだむかつくほど聞いたのー」
席を立つ。
少女の正面に座っていた、東洋人の姿はすでにない。
卓上のナイフ、フォークも。
ポーチェの高説を賜っている暇はなく、その必要も、ツクモは感じていなかった。疑問は抱いたが、すぐに納得――こいつなら分かりそうだ――さらに他の疑問が取って代わった。
まさか敵か――。
〈教授〉に集中はしていたが、安宿から意識はそらしたわけではない。裏口は宿の女将と家族が使っているのを確認済み。それらの目を盗んで忍び込むのは難しい。可能性がもっとも高いのは、正面から出入りした者となるが――入りが三、出が二――合わない数は娘。ポーチェよりも二、三歳ほど上の背格好。
「いったい、どういうことだいっ?」
部屋に辿り着くなり、女将の悲鳴とも怒号ともつかない喚きが迎えた。ツクモは答えない。立ちはだかった豊満すぎる体を押しのけ、部屋の中へ。
正面――くすんだ雨の裏町を、窓枠という額縁に収めた絵画と化している。
脇――寝台。上に旅行鞄。開いている。中身を慌てて引っ張り出したのか。散乱。
下――床。木。転がっているのは〈魔弾〉用の大口径銃――拾いあげた。
背後――女将が壁となって戸口を塞いでいる。金切り声。早口と下町特有の訛りで聞き取りにくい。
愛想笑い――通じないふりをする。押しのけ、再び廊下へ。向かい側の部屋の扉を開ける――半身は壁の陰へ――無人。しかし窓が裏町の眺めを披露していた。駆け寄る。
家並み。屋根の山脈。入り組んだ路地。物干し用に渡された細い綱――でたらめに引かれた幾本もの線の下。町の一隅。
馬。背の積み荷――レディ。気絶しているらしい。垂らした手足に力がない。
女――。
ツクモは馬の傍らに立つ人影に、記憶の頁を繰り直す――合致。宿に入って出てこなかった娘。何かの遣いかと思っていたのだが。
こちらを振り仰いだ。頭を鷲掴みにして髪を毟りとる――かつら。栗色から漆黒へ。スカートの裾をまくり上げ、一気に脱ぎ捨てる。
あいつか――。
さらに記憶の頁が遡った。マグワートの裏町で警告した〈組織〉の若い者だと気づく。
やられた――。
ここで女装とは。故国か、もしくは外国人相手なら良く使う〈術〉なのだが。
俺に使うとは――。
それでも自分を直に狙えば見破ったかもしれないが、標的をレディに変えてきた――すべて言い訳――歯噛み。少なくとも、以前なら犯さなかった過ちだ。
追え――。
すかさず命じるが、足は動かない。追えるのか? ポーチェを残していくのか? その隙に別の者が狙うかもしれない。〈魔人〉が来る可能性もある。
考えが連なるほどに、それぞれ別のざわめきが体を縛る。窓辺に立ち竦む。息を詰める。
くそっ――。
〈封〉が解けてから迷ってばかりだ。
「手伝うことはあるかね?」
戸口から声。〈教授〉だ。
そうか。こいつもいた――。
願ってもない申し出だ。救いの御子か。悪魔の囁きか。秤にかける時間はない。
「条件は?」
振り返らずに訊く。目は、走り去ろうとする〈組織〉の者を捉えたまま――こちらを見ていた。追ってこいと語りかけている。
「私との手合わせ」
〈教授〉の言葉が、窓の向こう〈組織〉の者からも、同じように聞こえた気がした。
「わかった」
即答。ツクモはようやく振り返る。
「彼女と荷物を――」
皿のプディングを行儀悪く立ち食いしているポーチェを示し、預けてある馬車で追うように頼む。
「君は――」
どうするのかという〈教授〉の問いを終わりまで聞くことなく、ツクモは窓から飛び出した。
それが、答え。
屋根に降り立つ――疾走。傾き、軋み、撓み、ぬめり、雨に濡れて不揃いな足元をツクモは危なげなく進む。
猫――それも野良――の鋭く荒々しいしなやかさ。
壁。半階分の高さ。跳ぶ。壁を蹴る――手を伸ばす――雨樋を――埃と煤煙が溜まり、すでに本来の役目を放棄していたが――掴む。降り注ぐ泥飛沫を貫いて上へ。
裏町の黒く煤けて汚れ果てた屋根が、冬の海の波形を描いてつづいている。
下。怒声と罵り――馬――疾駆。せせこましい裏路地で暴力的な――人を蹄にかけることもいとわない――手綱捌きは、先日見た男娼を連想させる印象からは、ずいぶんかけ離れていた。
さらに視線を先へ。
馬が抜けていく経路の、おおよその見当をつけ――〈魔弾〉を放つ――風見鶏に当たった。
炎上。
銃を後ろ腰にねじ込み、軽やかな急発進。追跡再開――猫科の疾走。
区画が切れる――跳躍。路地を越えて隣の区画へ。着地。屋根板を踏み抜き――かけて、重心を頭へ。倒れこみ、片手をつき、ふわりと一回転――走る。速度は緩まず。
左へ角を折れる馬が見えた。斜面の八合目から、雨水の流れを裂きつつ下る。屋根の麓へ。左手に道――幅広の谷が隣区画とを隔てている。
加速。野良猫から猟犬の猛々しさへ。雨樋の角――蹴った。
宙へ。
翼はない。
足場が要る。
乗った――一本目――通りに張り渡された物干し用の細綱。反発の感触を片足の裏で確かめて離れる――二本目――さっきとは逆の足で同じく――三本目――隣の区画は目と鼻の先――だが。
低い。
行きたいのは、屋根の上だ。障害物がなく、最短距離を進める「道」だ。
「下がれ!」
鋭く命じる先にいたのは、薄着の女だった。暴走馬の騒ぎを見物していたのだろう。寝ているところを叩き起こされたという風情。娼婦かもしれない。
「ひゃっ」
中途半端なしゃっくりにも聞こえる悲鳴をあげて、室内へ逃げ込む。その、凭れていた窓辺にツクモは着地――反動を目一杯に解放。上へ。雨樋。泥飛沫。体を運びあげる。
波頭――屋根の傾斜の頂へ。
路地へ消えていく馬の尾。追いながら斜面を駆け下りる。再びの谷間。手頃な細綱はなし。向かいの三階。窓がひとつ開いて――。
跳躍。
屋根から窓へ――三階の室内へ。転がる。受け身。脇に寝台――裸の女の悲鳴。仰向けで生白い両足を投げ出した男に跨っている。
「失敬」
ツクモは短く言い放ち、部屋を横断。廊下へと――飛び出しながら入り口に掛けてあった洋杖を手に――汚れで曇りきった窓を開ける。
中庭。細綱が交錯し、幾何学模様を作っている。窓の桟へ乗り出す。おいっ――背後で慌てふためく声は、さっき寝台にいた男か。
振り向かない。飛び降りる――物干しの細綱――洋杖の握りを引っかける。ぶら下がる――すぐに重さを支えきれずに紐が緩む――するすると降下。半ばにまで達すれば、ツクモにとって高さはないに等しい。
着地。やっと振り仰ぎ、投げ槍の要領で杖を三階へ返却。奇妙な闖入者の曲芸に目を丸くしながら、半裸の男女が窓から身を乗り出した――ときには、中庭を横切り細く暗い通路に。鉄の格子扉を蹴り開けて通りへ出た。
もう、ずいぶんと闇が迫っている。建物がいっそう黒く見える。
右手に罵り声。馬が駆け抜けていったのだろう。ツクモは目の前の路地へ走り込んだ。
ごみを物色する腰の曲がった老人の背を飛び越え、娼婦とその客の間を裂き、暴走馬を見失って引き上げてきた小汚いなりの少年たちをかき分け――抜ける。
街道。
厚い雲は夕暮れも隠し、すでに雨幕が、ついさっき駆けた屋根よりも深い黒に染まっている。
その奥で、蠢き、
やがて溶けて見えなくなる影を辛うじて見つけ、ツクモは呼吸を整えた。
〈魔弾〉――二発目を放つ。
街道の先が炎上。燃やすものがないのと、降りつづく小雨で濡れそぼっているせいか、たちまち火は威勢を失っていくが、これで十分だった。
目印だ。〈教授〉が気づけばいいし、先の発砲も併せて、見落とすような男ではなさそうだった。
赤い炎を目がけて、ツクモは走り出す。速さに衰えはない。
遅れて背後から、馬車の音が追いかけてきた。




