世界時計の秒針
予約投稿です。
息苦しい日々を送っていた。
取り立てて辛い事があったり、突然のアクシデントに見舞わられた訳でもない。
ただ息苦しくて、酸素が足りないみたいだった。
ブルーライトを発するパソコンから、息継ぎをするように顔をあげると、今時珍しいアナログ時計は、朝の六時を指していた。
残業手当は出ない。
英一は、手元に置いておいた飲み掛けの緑茶を胃の中に流し込み、再びキーを五月蝿く叩いた。
ホームページに表示されたニュースに目を通してから、メールチェックをしようとしたとき、ふとマウスが止まってしまった。
オレオレ詐欺被害前年比二倍。千葉の路上で女子高生刺される、通り魔か? 政府与党が衆院を解散。
とりとめのないニュースの中に異物が一つだけ混じっていた。
ーー米国の研究機関が、一ヶ月後に世界が滅亡することを正式発表。経済への影響は?ーー
「バカらしい」
スーツの上にコートを着込んでも、寒く感じる師走の空。もちろんエイプリルフールではない。
まぁ、大手の検索エンジンでもミスをする可能性がある。
その時は、たいして気にすることなくメールチェックに戻ってしまった。
◇◇◇
徹夜明けでも仕事は定刻までやり遂げる。大学生の頃のような体力はなくなってしまったが、要領は良くなった。
抜くところは抜いて、入れるところは入れて。最近は、顔を伺うのではなく、伺われる側になったから一層楽だ。
すっかり暗くなってしまった帰り道。電車に揺られ、近所のコンビニで、肉じゃがとキンピラゴボウを購入。いつもの店員に「お疲れさま」と挨拶してから、家に帰る。
雑然とした部屋の一人暮らし。
冷蔵庫からカロリーオフのビールを出すと、テレビの前に置かれた炬燵に今日の夕食を並べた。
テレビの電源を付けると、若いアナが殺人事件を笑顔を読み上げる。その深刻さの欠片もない様子に可笑しさが込み上げた。
「続いては衆院解散のニュースです。首相官邸と中継が繋がっています、海老原さん!」
「はい、官邸では先程動きがありました。あぁ! 真鍋総理が出てきました」
手振れの激しいカメラ映像に、老狸と評判の総理が写し出された。若々しい海老原と呼ばれた特派員がマイクを片手に近づく。
「真鍋総理! 今回の解散について一言お願いします!」
「解散? 何を言ってるんだね、君は。今はそれどころじゃない!」
「え?」
「君、そのカメラは繋がっているかね」
「え、いや、はい……」
真鍋総理は、カメラをがっしりと掴んで、自らの方に向けた。画面に深いシワの刻まれた総理が大写しになる。
「詳しいことは、記者会見で言う。だが、ここでも予めお伝えしなければならないだろう。落ち着いて聞いて欲しい。日本は......いや、世界は一ヶ月後に滅ぶ」
◇◇◇
総理の発言で、日本は大混乱に陥った。なんでも米国の発表に由れば、99.9999%で地球に小惑星が衝突するらしい。
当初は政府高官が秘匿した情報だったが、内部の裏切りで世界中に漏れだしてしまったということだ。
「でさ、間宮英一くん。君を解雇しようと思うのだが」
「なぜ......ですか?」
朝一番に出社の準備をしていると、専務の相原さんから電話が掛かってきた。
「なぜって。そりゃ、世界が滅亡するからだろ。あと一ヶ月しかないんだ。大事な人とでも過ごしなさい。これはわが社の心使いだ。素直に受け取りたまえ」
「しかし......そんな突然に......」
ネクタイを結び直しながら食い下がる。
「我々出版業界はそんなもんだよ。あと一ヶ月しかないのに、本を出す必要性はない。あぁ、すまんな。社員全員に掛けているから、時間がないんだ。では解雇だ、以上」
ブチりと回線は切れてしまった。言い知れない虚脱感に襲われる。結びかけのネクタイから手を離すと、だらりと手が落ちていった。
二十年間勤めあげた。それなのにこれだけ。
心使い?
大切な人?
今年の七月に四十になった独身男にそんなものがあると思っているのか。冗談ではない。
ちらりと数年会っていない母の顔が脳裏を過った。
しかしその考えを振り払った。
違う。
大切な人ではない。母は生けてるけど、死んでしまったんだ。
◇◇◇
ペーパードライバー。そんな言葉が似合うほど、普段車を使っていなかった。
正月に実家に帰るときは、毎度使っていたが、六年前に父がぽっくり逝ってしまってからは、それさえなくなった。
向かう先は、東京から車でも数時間掛かる長野。実家のある場所だ。
でも行き先は実家ではなく。緑の里、という介護施設。
母が入院している施設だ。
「間宮英一です。ここに母が入院している思うのですが......」
受付で退屈そうにしていた女は、驚いたように此方を見た。少し躊躇しながら、名簿をパラパラと捲る。
「間宮......フミさんで間違いないですか?」
「......はい」
言葉少なく頷くと受付は、パッと笑顔を咲かせた。
「やっぱり、最後はご家族と過ごされる方が多いですね」
「まぁ、そんなところです」
「304号室です。きっと喜ばれますよ」
やっぱり受付は、笑顔を絶やさず、304と書かれたカードキーを渡してきた。震える手で、それを受け取る。
営業で練習したはずの笑顔が上手く行っているか心配になるくらい、心は冷え込んでいた。
キーを認証させると、緑色のランプが点灯して、扉が開いた。中には、ベッドで半身を起こして外の夕日を見つめる白髪の老女が居た。
「母さん……」
理性が「やめとけ」と叫んでいたのに、口は自然に動いてしまう。
物憂げに振り返った母は、昔と変わらない優しくて、暖かい笑顔を浮かべた。
「あぁ......と、ねぇ。どなたでしょう......?」
分かっていたはずの現実は残酷だった。
◇◇◇
きっかけは、何のことはない。父の死だった。
通夜の時は、ごく普通。でも今考えてみれば、どこかおかしかったのかもしれない。
一ヶ月も経たない内に、認知症と診断され、気づけば要介護の認定を受けてしまっていた。
当初は面倒見の良い妹夫婦が、母の世話を請け負った。
「仕事一辺倒の兄貴には任せられない」
そう言っていた妹、真弓の言葉は一ヶ月もしない内に「もし暇あるなら、兄貴が面倒見てくれない?」に変わり、一年後には「施設にいれるから、割り勘して」に落ち着いた。
母との関係が良好だったはずの妹の言葉に逆鱗した。無責任にも程がある。そう思って疑わなかった。
「金、金って、お前どうしたんだよ!」
「......」
「何とか言ってみろよ」
「っ......、私だって......頑張ったよ。でも無理だよ、もう......」
震えていた妹の言葉はいつしか嗚咽に変わっていた。この時は何も知らなかった。ただ仕事という言い訳を使って知ることを避けていたのだ。
有給を取って妹夫婦の家に乗り込むと、いつもと変わらない母に迎えられた。
「どなた......?」
その言葉が真っ直ぐに心臓を抉った。
◇◇◇
今となっては、妹を批難できない。自分も同じ選択をしてしまったから。
大人しくお金を割り勘して、母を姨捨の如く施設に放り込んだ。母の様子は、自分と妹にとっては毒でしかなかった。
サバサバと自分達を教え導いてくれた母。料理はあんまり得意じゃなかったのに、誕生日には必ず手料理を振る舞ってくれた母。念願の大学に合格した時に、一緒に喜んでくれた母。
見掛け何を変わらない母の皮を被ったリアルな人形は、事ある毎に自分達を苦しめた。
ーーいっそのこと死んで欲しい。
そうすれば、全ては良い思い出の中に“母”を封じ込めることが出来たはずだ。
母の手を引きながら、実家近くの銀杏並木道を歩いていた。
「ここら辺は、紅葉がねぇ、綺麗なんよ」
ーー知ってるよ。だって子供の頃、一緒に歩いたじゃないか。
「そうなんですか。もうほとんど散ってますけど......来年見に来ようかな」
「そうねぇ。十月終わりが一番色付くよ。あぁ......、スーパー寄っても良いかい?」
「何か買いたいものがあるんですか?」
「ちょっとねぇ。付き合わせちゃって、悪いわねぇ、ヘルパーさん」
「......いえ、それが仕事ですから」
ーー家族としての......。
◇◇◇
近所のスーパーまで母を連れていくと、自分は外で待つことにしてタバコを取り出した。
最近は健康に気遣って控えていたが、どうせ一ヶ月で世界が終わってしまうなら、肺が真っ黒になろうが胃に穴が空こうが関係ない。
それに今はタバコを吸いたい気分だ。
100円ライターのギアを捻ると、懐かしくて虚しい臭いが喉の奥をくすぐった。肺のぎりぎりまで入れてから、大きく吹き出す。
久しぶりすぎて目がチカチカして、目尻から涙が溢れた。
もし母が正気でいたら、今の自分を見て何と言っただろう?
想像しても、今の母と昔の母がぐちゃぐちゃになって何一つ思い付かない。
自分が「大切な人と過ごせ」と言われたとき、真っ先に思い浮かべたのが母の顔だった。
だからここに来たけれど、結局その意味はまた分からなくなってしまった。
もし本当に大切だったなら、ちゃんと世話を引き受けたのだろうか。いや違うな。
大切だったからこそ、自分も妹も今の母が好きになれないんだ。だから過去の自分の選択は間違っていない、そのはずだ。
「あぁ、ヘルパーさん、ごめんねぇ。待ったかい」
「いえいえ」
慌ててタバコを灰皿に突っ込んだ後に苦笑した。母は、酒もタバコも大嫌いだった。でもそんなこと今は気にしていない。
過去をいつまでも引きずっているのは自分だけだ。
「何を買ったんですか?」
重そうなレジ袋指して言った。母は照れ臭そうに笑う。
「甘食だよぉ。でも買いすぎたねぇ。一つ食べるかい?」
差し出されたのは一袋三個入りの甘食。袋の中を覗けば、そればかりだった。
「......頂きます」
うちの家庭でおやつと言えば何故か甘食だった。冷蔵庫の上見れば必ず一袋はあった。
自分も嫌いではなかった。牛乳なしでは食べられないパサパサ加減とほのかな甘さ。
久しぶりに食べた甘食は、やっぱりパサパサで甘味も少なかった。
「......おいしいです」
「そうかい」
母のにっこりと笑った笑顔は、手料理に対して自分がお世辞で「おいしい」とコメントしたときと同じものだった。
◇◇◇
誰も住んでいない実家は綺麗に片付けられていたが、床に薄白く埃が積もっていた。
それでも懐かしい檜の香りのする実家。コンクリ打ちっぱなしの1Lマンションとは違う暖かみがある。
「ありゃー、埃が溜まってるねぇ。掃除機はどこかなぁ」
まるで昨日まで生活していたかのように自然な様子で玄関に上がる母。
昔の母と同じ姿。
「あぁ、ヘルパーさんも上がってねぇ」
「......はい」
革靴を脱ぐと実家の玄関に足を乗せた。
扉を抜けてリビングへ。
生活感の抜け落ちた整った部屋。妹夫婦が引き取るに当たって片付けたらしい。
肉が取れて、骨格だけになってしまったような、化石のような冷たさ。
二階に登ると真っ直ぐに自分の部屋に向かった。
どうやらここは手を付けられていないらしい。東京の大学に行ってから、あんまり変わっていない。
ここだけ時間が止まっているみたいだ。
ラグビーの市部大会で優勝したときの賞状。筒に入ったままの高校の卒業証書。卒業アルバム。
あまりの懐かしさに、ついつい手を伸ばした。
がっしゃーん
二階の寝室で何かが落ちる音がした。慌てて向かうと、蹲った母と倒れた本棚があった。
「なにやってんだよ!」
「ごめんねぇ、埃拭こうと思ったら、倒しちゃってねぇ」
「良いよ、全部こっちでやるから」
強い口調で叱ると、母は悲しそうな顔になった。その様子を見るとイライラが募る。
母はいつも隙を見せなかった。子供には苦労しているところを隠したし、一本の筋の通った人だった。
こんなことで......。違う。それは昔の母だ。
頭を振って、幻想を振り払った。
「向こうで休んでいてください」
「悪いねぇ」
二階の寝室から母を追い出すと、一人本棚を起こし、散らばった本を片し始めた。
ハムレット、リア王、ロミオとジュリエット。母はシェークスピアの大ファンだった。
子供の頃に読み聞かせてくれたけど、正直言ってよく分からなかった。もっと楽しいお話が読みたい。
子供ながら、そう思ったものだ。
たまたま目についたリア王を手に取ると、まるで付箋がしてあったように真ん中のページが開かれた。
一枚の折り畳まれて、しわしわになった手紙が入っていた。
ーー拝啓ーー
◇◇◇
拝啓 冷気日ごとに加わり、紅葉がどこかもの悲しい季節となりました。このお手紙を読んでいるあなたは、どうお過ごしでしょうか。
さて、このたび何故筆を取ったか、それにはいささか込み入った事情があります。たぶんこの手紙を読んでいるあなたはお気づきかもしれませんが、わたしは病気に掛かっているそうです。今現在の症状は軽度のものですが、何れ症状が進めば何もかもボヤけた霞のように消えてしまうかもしれません。だから、この手紙はわたしの遺書として受け取って貰っても構いません。
わたしは怖いのです。日毎に大切な何かを忘れてしまっているのではないか、そう思うだけで身の縮むような気持ちになります。今日は、神社で道が分からなくなりました。大したことではありません。でも、お医者様はこれを軽度と仰いました。
わたしには何を以て判断すべきかは分かりません。でも迷惑は掛けたくないのです。病状が悪化すれば、入院をしなければならないでしょう。もしこの手紙を読んでいるのが、英一か真弓なら、わたしの最後の我儘を聞いてはくれないでしょうか。
わたしを殺してください。
もう辛いのです。全てを忘れて生きるなら、全てを持ったまま死んだ方がマシです。
本当に我儘なお願いですね。
敬具
間宮フミ
何処かの誰か様へ
◇◇◇
しばらく手紙を見たまま動くことが出来なかった。
恐らくこの文章は、昔の母が書いたものだ。気の強い母の弱音なんて数えるほどしか見たことがなかった。
でもこの文章が昔の母のモノだと分かった。
「わたしを殺してください、か、本当に我儘なお願いだよ」
自然と涙が溢れた。
どうしてこんなになるまで助けてあげられなかったのだろうか。どうして言ってくれなかったのだろうか。
今さら、言われても仕方がない。
母は死んだ。もう残滓くらいしかない。
「大分遅くなっちゃったけど、それでも良いかな」
誰も居ない本棚に向かって話しかけた。そこに昔の母がいることを信じて。
◇◇◇
世界滅亡のカウントダウンから世界は緩やかに崩壊を始めた。
都市機能は麻痺し、空いていない会社やお店がほとんどだ。一部は自分のような職場にしか居場所を持てない者たちによって活動しているが、それだけだ。
政府の取った政策は、ある人から見れば最低かもしれないけど、今の自分から見れば最良だった。
市役所に来ると、薄暗い室内に一人の男性が立っていた。
「こんにちは、あなたもですか?」
「はい、二袋お願いします」
男性公務員は笑顔を曇らせた。
「一応確認しますが、相手の許可は取っていますか? 無理心中はダメですよ」
「許可は取っていません。母は認知症なんです」
「......そう、ですか」
男性公務員は苦虫を噛み潰したような顔をすると、“青酸カリ”と書かれた粉薬を二袋用意してくれた。
「一応、注意事項です。致死量以上入っていますが、飲み物などに混ぜて服用した場合、上手くいかないケースがあるので直接服用することをお勧めします。また死ぬまでに、めまいなどの症状に襲われるので注意してください」
「そんなこと百も承知ですよ」
それを聞くと男性公務員は「ですよね」と乾いた笑い声を漏らした。
彼も大変だろう。よく分からない隕石衝突で死ぬくらいなら、自分で死にたいという人のために、毒薬を配って回る。
「お疲れさま」
「どうか、お元気で」
そこに込められた皮肉には苦笑するしかなかった。
◇◇◇
実家に戻ると、母の姿を探した。
リビングのソファーに座って、テレビを見ている。番組はない。過去の映画やドラマを無限に再生するだけだ。
薬の苦味を誤魔化すために、二杯のコーヒーを作って、その中に薬を入れた。
「コーヒー飲みますか?」
「へぇ、あぁ、ヘルパーさん。ありがとう」
危なっかしい手つきでコップを受け取った母は、此方を見て一瞬不審そうな顔をした。もしかしたら、ヘルパーとしての自分も忘れてしまったのかもしれない。
「ちょっとだけ、お話に付き合って貰えませんか?」
「えぇよ」
母はちょこんと両手にコップを抱えるとソファーに座り直した。その横に腰掛け、コップの中を一気に煽る。
喉に抜ける苦味を感じてから、口を開いた。
「時間あんまりないからさ。単刀直入に言うわ。今まで、ごめん」
「えぇ? そうかい?」
「正直言って、面倒くさくて逃げてたんだ。とんだ親不孝ものだよ。こんな年になっても結婚もしないで、孫の顔も見せてやれない」
「はぁ?」
「それにな。世界が滅亡するって言われて、ちょっと嬉しかったんだ。この無味乾燥な世の中で死ぬ大義名分が得られたと思ってな」
「......いったいどうしたんだい?」
「もう何もわかんねぇーよ。でも、これが答えなんだ。だからあなたを殺す」
「あぁ、えっとねぇ」
「不甲斐ない息子で、本当にごめん、母さん」
言い終えると胸が苦しくなってきた。視界がぐるぐると回って、母の膝元に突っ伏してしまう。
意識が遠退くなか、小さな手で頭がさらさらと撫でられた気がした。
「英一......大きくなったなぁ......」
意識が途切れる間際に聞こえた声は、自分の頭が作り出した都合の良い幻聴なのか、それとも本物だったのか。
答えを出す前に、意識は真っ暗闇に消え去った。