鼠の死体
「始まりは、どんなものでも小さい」キケロ
五月二七日の午前、町内でも知名度の高い若き医師石井文人が診察室でいつものようにやって来る病人の診察をしていると、若い新米の看護婦が入ってきた。
新米が言うには、階段の真ん中で鼠の死体があるとのことだ。文人はこの時、首をかしげた。そしてすぐに処分を命じたが、新米は若さ故なのか鼠の死体処理を拒否していた。新米が言うには、鼠の死体には触りたくないと。
その時、別の看護婦が入ってくる。長年、この病院で勤務しているベテランだ。ベテランは新米の落ち着かない雰囲気を察したのか、何事かと訪ねた。そこで新米は階段に鼠の死体があると話し、文人は診察があるから自分はこの場を離れるわけには行かないと言って処分を命じた。
しかし、ベテランは渋い顔を作った。彼女はこの時、こう言った。
――この病院は常に清潔さを保っています。鼠は愚かゴキブリすらいないはずです。もし本当に鼠の死体があるのなら、それは外部からやってきた、つまり誰かのいたずらでしょう。
この時の文人は納得し、ただ、頷いた。
その日の夕方、文人は自宅であるマンションに戻り、玄関の前で鍵を探していた。その時、廊下の奥から何か気配がしたので振り返ってみると、そこには大きな鼠がいた。大きな鼠は全身が湿っているように見え、フラフラと前進していた。どこか様子が変だと思ったので、文人は観察をした。
その直後、廊下の奥からもう一匹の鼠が現れた。小さな鼠は初めこそは鈍い動きで歩いていたが、やがて大きいほうの鼠を見つけると、突然駆け出し、その背中に乗っかった。
文人は「親子か」と思い込み、そのまま自宅に入った。
文人は夢ばかりを追いかけてきた男である。医師になるその日まで、彼は勉強ばかりをしていた。趣味や娯楽などは、勉強の妨げになると思い興味を持たず、また対人関係も必要最低限の関係しか作らず、恋人などは自分の自由を縛る存在になり得るとし、作らなかった。
故に文人は独身である。家に帰ればたちまち孤独になる。しかし本人は特にそれを気にしていない。気にする必要もないと思っていた。
文人は新聞を広げる。一面には、米軍機の墜落事故が掲載されていた。墜落場所を確認すると、意外とこの町に近い場所だと知り、驚いた。
そういえば、待合室の患者たちは皆、米軍機墜落について語り合っていたような気がした。文人は自分がいかに社会に関心がないか実感し、苦笑した。
そして、外が騒がしいことに気づく。廊下に出てみれば、住民たちが集まっていた。中心には痛みで泣く子供の姿があり、それを慰めようと周りの大人たちが必死になっていた。
文人は近くの老人に話しかけてみた。
「すいません、何があったのですか?」
「あ? ああ、なんでも、あのお子さんが鼠に噛まれたそうだ」
「鼠? 鼠に?」
「ああ、何でも、母親と一緒に帰ってきたら、廊下の真ん中に二匹の鼠が居たそうだ。一匹はでかくて、もう一匹は小さかったような気がした。
とにかくな、子供は鼠を可愛いと思ったんだろう、近寄ってみたら、小さい方の鼠が突然飛びかかって、腕を数箇所、何回も強く噛んだ」
文人は一瞬、背中に悪感が走った。この時、彼は狂犬病の可能性を考えていたのだ。狂犬病は人を含む全ての哺乳類に感染する。人への感染源は主に犬だが、外国へ行くと蝙蝠なども感染源となっていることがあるため、鼠が感染源となってもおかしくはなかった。
だが首を振った。近年の日本国内で狂犬病が発生したことはない。発生事例があっても、それは日本国外での感染が原因だ。
しかし万が一のこともある。
「あの子の母親に病院へ行くことを勧めてください。万が一、何かの感染症にかかっていたら笑い事では済まされませんからな」
「確かに」
文人は戻った。今日はもう疲れていた。ここ最近、忙しさのあまり不眠が続くことが多かった。今は眠りたかったのだ。
翌日五月二八日、七時頃、大家は通りかかった文人を引き止め、どこかの悪ガキが一階のエレベーター前に鼠の死体を四匹置いて行ったと訴えた。証拠はないが、大家は誰かのいたずらだと確信していた。鼠は強力な罠で捕まったのか、血まみれだった。大家はもし犯人を見つけることができたら、この手で殺してやると怒鳴った。
「クソガキどもが、このマンションで汚らわしいものを置いていきやがって! 絶対に許さないからな」
文人はこの時から嫌な予感はしていたが、気にしないことにした。
今日は病院でも一番若い医師と看護婦が研修のため東京へ行くこととなっており、文人は自分を車で二人を駅まで送った。
「それでは行ってきます、先生」
看護婦は微笑みながらそう言った。
「ああ、頑張ってきて」
後輩である医師は何かを思い出したかのように、手を叩いた。
「先輩、帰りに秋葉原でも寄ろうと思っているので何か買って欲しいものとかありますか」
言いながら、卑しい笑みを浮かばていた。
「お前は俺が何も欲しがらないとわかっていて、そんなくだらない質問をしてるんだろ?」
「いえいえ、とんでもありません」
「くだらんこと言わないで、さっさと言って、さっさと帰ってこい」
看護婦は笑って、それではと言って敬礼した。文人はからかわれていると思い、あまり愉快な気持ちにはなれなかったが、それでも明るい気分で見送ろうと思った。
「万事上手くいくさ、二人共、頑張ってこいよ」
二人は自動改札機を通り、階段を下って下に止まっている電車に乗りに行った。文人は二人の姿がなくなると、戻ろうとし学生にぶつかった。
「おっと済まない」
「いえ、こちらこそ」
学生は男性で、背は高く、端正な顔立ちで愛想が良さそうであった。男性の割には髪が長く、首の後ろで束ねているのが印象的であった。
「どこかへ行くのかい」と興味本位で尋ねると、学生は照れくさそうにこう答えた。
「実家に帰っていた先生が戻ってくるんです。だから迎えに来たんです」
文人は頷き、学生の目線が自分の後ろに行っていることに気づく。
「鼠……」
この瞬間、文人が印象に残ったことは、鼠の死体が隙間なく詰められている大きな箱を小脇に抱えた駅員が、急ぎ足でどこかへ向かっていることであった。
その日の午後、文人は診察室である患者の診察を行っていた。その患者は突然、高熱を出したのだ。見るからに顔も青く、どこか落ち着きのなさが目立っていた。
「ほかに何か症状はありますか?」
「特にありませんが、不安です」
「不安?」
「はい、何か不安を感じるんです。仕事上でも、私生活でも、自分で言うのもなんですかうまくいっており不安になる要素など何一つないのに、不安を感じるんです」
「不安、ですか」
文人は首を傾げた。無意味な不安を感じる、こんなことを訴える患者は初めて出会ったため、対応に困ったが、肺の音もそれほど悪くなく、喉の赤みもそれほど異常ではなかったため、ここは風邪と見ても問題なさそうに見えた。
「今日は風邪薬を三日分出しますので、薬が切れたら診断に来てください。今は目立った症状がないので風邪と診断しますが、三日以内に症状が悪化した場合は迷わず、すぐに病院で診断を受けてください」
「分かりました」
六時頃、文人は病院の階段を下っていると、踊り場で一匹の鼠を見かけた。誰かに潰されたのか、全身が血まみれで弱々しく痙攣をしていた。
たまたま近くを通りかかった入院患者が文人に話しかけた。
「鼠に興味があるんですか?」
「いえ、ただ最近鼠を見かけることが多くなったので」
「奇遇ですな、私も昨日、トイレに行っていると鼠の死体を見つけたでさ、気持ち悪いんで看護婦にすぐに処分してもらったんですが」
ちょうど看護婦が通り過ぎた。その看護婦は明るく、いつもは笑顔で血相が良いのに、今日はぐったりとし、顔も少し青かった。
すぐに呼び止め、体の調子を訪ねた。看護婦は体の調子は悪くないと答えた。しかしと付け加える。どうも調子が十分ではなく、何か精神的な作用が原因かもしれないと言った。
彼女が言うには、昨日、病院でも自宅でも鼠を見かけてショックを受けたので、きっとしばらく休めば調子も良くなるだろう。
車で自宅に帰っている途中、文人は何もない道で何度も車が強く揺れることに気づいたが、気にしないことにし、駐車場につくと車を止め、エレベーターで自分の住む階まで向かった。
エレベーターから出て、玄関に向かう最中、文人はそれに気づき、絶句した。
廊下の端から端まで鼠の死体が散乱していた。どの鼠の血まみれで、中には四肢がもぎ取られているものまでいる。文人は言いようのない吐き気に襲われ、ぐっとこらえる。
誰かのいたずらにしては、度が過ぎている。
文人はとりあえず、市に電話することにした。これほどの死体の処理は大変そうだった。
だが、そこで文人は再び驚かされた。
市の方も、朝からずっと鼠の死体の対応に困り果てていたのだ。町中のいたるところから鼠の死体が大量に発見され、どれほど収集しても、死体の数は増える一方だった。文人の住むマンションにも、一度回収に行っていたのだと言う。
ここで文人は初めて、尋常ではない何かが起こり始めているのではないかと疑った。