1話
「どういうことか説明してもらえる?」
「……すっ、すみません」
男は、がばっと頭をさげるのを見、私は一瞬ぎょっとする。
いやいや。違うんだってば。
そうじゃなくて。
私はすぐさま心の中で首を横に振った。
「あのね……、私は別にあやまってほしいわけじゃないの。どうしてこんなことになったか説明が欲しいの。わかる?」
若干声がきつくなったのはご愛嬌だ。
罵倒しないだけありがたく思ってもらわないと。
それぐらい、私の腹の中は煮えくりかえっていた。
それが顔にも出ていたのだろう。のそりと顔をあげた男の顔から、みるみる血の気が引いていくのがみえた。もう今にも泣きだしそうだ。
あー……もー……。
私はがりがりと頭をかき、目の前に置かれている書類を見つめる。
どうしてこんなことになったんだか。
泣きたいのはこっちだっつーんだ。
業界でもそこそこ名の知れたメーカーに就職して10年。
それなりに役職もつき、部下もできた。
けど、こんなのことは初めてだった。
この書類は取引先から送られてきたものだった。長いことおさめていた商品がここ一月あまり不良品が相当数出ているということだった。
すでにいくつかはユーザーの手にわたり、かなりのクレームを受けているようだった。
これらの商品にまつわる詳細なデータ、そしてすぐさま対策と改善をするようにと、かなり強い口調で書かれていた。
さらに信じられないことに、これらの報告は今回が初めてではない、ということだった。
内容を見るだけでも一度以上、担当に通達していると、書かれてあった。
事務的な内容ながらも、書類の向こうに取引先の怒りが透けて見えてくるようだった。
「……あのさ、どうしてこんなになるまで放っておいたの?」
「そ、それは……自分でなんとかしようと……」
なんとか!
はあーとため息が出る。
項垂れていた男はさらに低く頭をさげた。こうなってくると、いっそ土下座でもしかねない勢いだった。
「……自分で? どうやって」
「そ、それは」
男の声がくぐもる。
このまま黙っていればいいものの、大抵このあと「こうするつもりだった」とか「予定ではこのはずだった」という後付けがついてくるに違いない。
だが、大抵それは実行できるようなものではない。
そもそも実行できていれば、端から事態になどなっていないはずなのだ。
じいと見つめる私に、男は堪え切れず口を開いた。
「……自分で確認してから、主任の指示を仰ごうかと……おもって」
「だから! それができてないからこんなことになってんでしょうが!」
我慢に我慢を重ねていた私の中で、ぶちりと何かがキレる音がした。
多分それは堪忍袋の緒。
思わず立ち上がった私に、男は眼をかっと開き、口をわなわなとふるわせた。
「おい、松崎、落ちつけ。声がデカい」
慌ててかけよってきた一課の新藤を私はちらりと見る。
「……新藤係長、黙っていてくれませんか。これはウチの問題です」
「ウチの問題って……もうそんなレベルじゃないだろが」
新藤はあきれたように言い、私の手から書類を引っこ抜く。
立ち上がった拍子にどうやら強く握りしめてしまったらしい。下の方がくしゃくしゃに皺がよってしまっていた。
それをちらりとみた新藤の表情が曇った。
それすら今の私にとってはシャクにさわった。
「何よ」
新藤はため息をつき、男に向き直る。
「お前はもう帰れ。とりあえず週明けたら俺と松崎と、部長と四人で頭下げるぞ」
新藤の言葉がとどめになったのか、男は小さくはいと答えると項垂れたままフロアを後にした。彼の姿が見えなくなるをまって私は、新藤を睨みつけた。
「……勝手なことを」
「勝手じゃねーだろ」
新藤は眉をちょっと上げる。
「あいつをここで叩いたって問題解決しねーだろ。とりあえずこの先のこと考えたほうがマシだ」
「あのね」
私は堪え切れず声をはりあげる。
「これが最初だったら私だってここまでネチネチ怒らないわよ! でも、わかるでしょ、彼、もう三度目だよ! それも今回は最大級のやらかし!」
いくら有名大学をご立派な成績で卒業したからって、あれはない。
子どもの使いじゃないんだ。出来ないことがあるなら相談してくれればいい。問題があったら報告しなさい。困ったことがあったらいつでもどこからでも連絡して。何度も、それこそ朝の挨拶代わりに言っているのに、一度として聞きやしない。
まあ、これもボンボンによくあるような自分はデキるという、意味のわからない勘違いからくるものだとしよう。
実際はそんなにデキてないし、私や同じ課の先輩たちから指摘されてあやうく防いだミスだって数えたらきりがないぐらいあるんだ。
まあ、それだってまだ若いからだと思っていた。
(同期の子がいくら出来たとしても)彼は大学を卒業してまだそれほどたっていない。
営業だからそれなりに大変だろうとはおもう。けど! それでも! こんなのはあんまりだ。
見れば問題発生からもう二週間以上たっている。その間、私は聞いていた。
問題ない? と。
唇を噛む私に、新藤はやれやれと肩をすくめるように笑った。
「お前も帰ったほうがいいな。あとは俺がなんとかしとく」
「いい……」
「帰れ」
「なんでっ」
言い返す私を、まわりが痛々しいもので見るような視線をむけた。
「……俺がなんとかする。おそらくどっかの部品の金型がイカれてんだろ。他のところにも連絡まわして、確認させる」
「それぐらい私だって」
「お前は今、冷静じゃない」
新藤の言葉ははっきりしていた。
思わず口をつぐむ私に、彼はちらりと笑ってみせた。
「別にお前の力を信じてないわけじゃない。だが、少し冷静になったほうがいい。それにお前、今日、予定あったんだろ?」
「……あ!」
私はぱっと腕時計を見る。
時間はすでに七時を過ぎていた。
さあ、と青ざめる私に、新藤はにかっと頷いて見せた。
「大丈夫だって。明日は休みだけどどーせお前休日出勤するんだろ? 今日、俺がどこまでやったかメモ置いといてやる。だから今日はもう帰れ」
「……わかった。わるい、新藤」
「いいって。俺だってお前に助けてもらったこと、何度もあるしな」
新藤の手が私の肩をたたく。
軽く叩いたはずのそれが、今の私にはやたらとずっしりと重く感じた。
新藤に追い出されるように会社を出たものの、約束の時間はとっくに過ぎていた。
彼のことだからちゃんと待っていてくれるだろうが。それでも待たせたという事実は変わらない。
焦燥感が全身を駆け巡る。
こうなってくると、会社からほど近いカフェを指定したのは、間違っていなかった。まあ、その時はもしかしたら営業でちょっと遅れるかな、ぐらいにしか思っていなかったのだが。
それでも長年の勘というものはあながちバカにできない。
私は必死に待ち合わせ場所へと走った。
会社からほど近いところにある待ち合わせのカフェは、通りに面した大半をガラスとなっている。橙色のライトがガラス越しにこぼれおち、夜の気配を孕んだ通りをやさしく照らす。
化粧直しとかも考えたが、そんな時間などあるはずもない。
髪の毛が乱れているのにもかかわらず私はカフェへと飛びこんだ。
「いらっしゃいませ」
「あ、あの、待ちあわせなんですけど」
ぜいぜいと息を切らせる私に、ソムリエエプロンをつけた店員が小さく頷き、ちらりと店の奥を見る。
店内はやはりがらんとしていて、客も数えるほどしかいない。
その中の一人。若い男が窓際の席でぼんやりと外を見ながら座っているのがみえた。
「ご、ごめん!」
あわてて駆け寄ると、男ははっとしたように顔をあげた。
「仕事?」
「う、うん……ごめん」
ぎこちない笑みを浮かべる私に、彼は小さく頭をふった。
「別に。大丈夫、かなちゃんの場合、いっつもだもーん」
「……っ」
にっこりと笑う彼の言葉に、ぐうの音もでない。
だが、本当だから仕方がない。
項垂れる私の耳に、彼のくすくす笑う声が聞こえてきた。
「冗談だよ。待ってた。ちょっとだけ心配もしたよ?」
「て……哲平くん……」
ううう、涙がでそう。
口をぶるぶるふるわせる私に、哲平くんはあーあ、と呆れたように笑いながらテーブルの脇においてあった紙ナプキンを二枚ほど引き抜いて渡してくれた。
やっぱり三十を超えてから涙腺が緩くなったのかしら。
渡されたナフキンで目頭をおさえていると、哲平くんは子犬のようにちょこんと首をかしげてみせた。
「仕事、忙しかったの?」
「うん……」
「そっかー。かなちゃん、がんばりやさんだもんねぇ」
哲平くんはうんうんとうなずくと、再びにっこりと笑って見せた。
「じゃー、今日はゆっくりする? それともぱーっと遊ぶ?」
「お腹すいた」
「りょーかーい」
にかっとわらい、哲平くんは立ち上がった。
私はテーブルにあった伝票を手に取る。注文はオレンジジュースが一杯だけ。時間も打刻されていて彼が一時間、ここにいたことを教えていた。
あー……最悪だ。
いくらなんでも一時間待たせるなんて。怒らない彼の優しさが胸をつく。
私は心の中で項垂れながら、会計にむかった。
会計を終わらせ、外に出る。先に出ていた哲平くんがはいっと手を差し出した。
きょとんとする私に、彼はちょっと口をとがらせる。
「もー、かなちゃん、まだ言わないとダメなの?」
「あ、あー……ご、ごめん」
慌てて私は差し出してくれた彼の手に自分のそれを重ねる。
一応営業やっているから指や爪の手入れはしているが、それは仕事のためだ。恋人のためとかそんな甘いものではない。
もし人に見られる仕事じゃなかったらもしかしたら手入れすらしないかもしれない。
そんな私の手を、哲平くんは大切な宝物にたいするように優しく、そっと握りしめてくれた。
「どこにいく?」
「うーん、この前の店でいい?」
そう言うと、哲平くんはにこっと笑った。
「りょーかーい。じゃ、いきますかー!」
手をにぎったまま哲平くんは歩き出す。
ちょっと遅れて歩き出した私は、彼の背中をちらりと見る。細くて、華奢で、一見少年か女の子のようにみえるが、それでも肩幅も背も私よりはずっと大きい。
くるりとカールしたやわかそうな髪が夜風にふわりと揺れている。
ふわりとした頬、すうと通った鼻梁、大きな眼。カッコイイというよりも、かわいいと言った方がきっと彼にはふさわしい。けど
「ん? どうした?」
振り返った彼が私を見る。その眼に心臓が小さく跳ねた。
「なんでもないよ」
「そう?」
彼は軽く目をほそめた。
今の私たちをはたから見たら、多分誰もが恋人同士、もしくはそれに近い関係だと思うだろう。
だが、全部は嘘。
これは決して本当のことではない。
そう、彼は私の恋人なんかじゃない。友達でもないし、知り合いでもない。
彼は「彼氏貸出屋」の人。お金を払っているから、今彼はここにいる。それがわかっていてもなお、私にとってはかけがえのない存在となっていた。