6話
「ごめんね」
そう呟いたあたしを、風呂から出てきたばかりの一哉は意味が分からないというように首をかしげる。ゆらりと揺れた髪はまだしっとりと濡れているのだろう。
廊下を照らす細い橙色の明かりを反射し、てらりと光っている。
「どうした、急に」
「ほら、父さんの相手してもらったから」
「ああ」
そういうと一哉は首からさげたタオルで髪を拭いながら、ちょっと笑った。
「全然。久しぶりに親父と話した気分で楽しかった」
一哉の言葉に、あたしは思わず声を詰まらせる。
どう返したらいいのかわからなかった。
佇むあたしに、一哉はちょっと話そうかと応接間にうながした。
両親はすでに寝室に行ってしまい、人気のない応接間はやけに寒々しく見えた。あたしはさっきまで座っていたソファにすわる。一哉もその隣に腰を下ろした。
「……いいな、おまえんち」
しみじみと呟く一哉に、あたしはちょっと眉をひそめる。
「えー、どこが?」
「どこって、全部」
「そんなこと母さんの前でいってみな。あのオカンアート、てんこもりで持たされるから」
「かまわないさ」
そういった一哉の顔がちょっとだけ歪んだ。
「……俺の親が生きてたら多分同じ感じだと思う」
「え、あの……い、生きていたらって……ど、どういう」
「大学の二年だったかなー」
一哉の視線が宙をさまよう。
「二人でメシ食いにいくって出かけていってさ、そこにトラックが突っ込んできた」
「……い、のうえくん……」
大学二年って……成人式に帰った時、そんなこと誰も何もいっていなかった。
みんな知っていてあたしに知らせなかったのか。それとも、誰に知られずひっそりと静かに見送ったのか。聞くことはできなかった。いや、それ以上になんて答えていいのかわらず、あたしはただ黙りこんでしまった。
だが、一哉はまったく気にするそぶりもみせず肩頬をゆがめる、あの意地の悪い笑みを浮かべてみせた。
「一哉だろ。間違えるなよ」
「ご、ごめん」
何をあやまっているのかわからなかった。
でも、なんかあやまらないといけない気がした。
「俺んちの母親もあんな感じ。家中わけわかんない物で溢れてて、俺の部屋にまで毛糸の服着た人形とかあった」
「あー……あれね」
あたしの部屋にもある。
あれの意味が未だにわからない。旦那や子供の服なんて絶対作らないのに何故人形の服にあれだけ手間をかけることができるのか。
未だに意味がわからない。そういうと一哉は眼鏡のブリッヂを押し上げながら、笑った。
「作ってもどうせお前、着ないだろ。俺んちはもっとすごいぞ。母さんが日本人形ってやつ? あれ作ってきたことあった」
「日本人形」
それはまた、レベル高いな。
ウチはまだそこまでいかないなぁ。そういうと、一哉はちょっと嫌そうに眉をひそめた。
「……それも俺が寝ているベッドの脇に置いてくてたことがあった。起きて真っ先にそいつと目があったときはさすがに凍った」
「た、たしかに……」
あたしだったら叫ぶな。そしてそのまま親との全面戦争だ。
そういうと、一哉はさもおかしそうに笑った。
「俺も喧嘩した。……おまえんちきて、それ思い出したよ」
「そっか」
何か言おうかとおもった。気のきいたこと言おうかとおもったが、何をいってもどこか嘘くさく聞こえるだろうとも思った。
だからあたしは、一哉の手をそっと握りしめた。
なんかしてないと、馬鹿なことを言ってしまいそうだったからだ。
一哉はちょっとびっくりしたような顔をした。そしてにやりと頬をゆがめた。
「なんだ。慰めてくれるのか? だったらもっと、直接迫ってくれてもいいんだぜ」
「バカじゃないの」
握った手を振りはらおうとした。が、一哉の手がそれを制した。
「……もうちょっと握ってくれててもいいんじゃない?」
「調子に乗りすぎ」
あたしは今度こそ手を振り払い、ソファから立ち上がった。
「風呂入ってくる」
「じゃ、俺は先に休ませてもらう」
のんびりと立ちあがった一哉をあたしはちらりと振り返る。
その時、あたしは見た。彼の視線が、テーブルの隅おかれたあたしの母がつくったオカンアートを、なんともいえないような切なげな瞳で見つめていたのを。
翌朝、朝食をとってあたしたちは家を出た。
両親などはゆっくりしていけばといったが、明日も仕事があるというとあっさり引いた。まあ、顔をみて満足したのだろう。母はぎりぎりまで自身の最新作のこけし……のような何かを一哉に渡そうとしていたが。
なんとか母の魔の手から逃れ、あたしたちは駅へとむかった。
平日ともあってか駅前にはばらばらと人の姿があった。といっても、このあたりの人たちは電車よりも車移動が多い。こういうのを見ると東京がいかに人が多いか思い知らされる。平日の午後だってここよりもずっと人がいるだろう。
駅で切符を買い、ホームへとむかう途中ふいに一哉があたしに声をかけてきた。
「帰るまえに少し寄りたいところがあるんだが」
「寄りたいところ?」
首をかしげるあたしに、一哉はうなずいてちらりとホームの端を見る。
「少し遠回りになるが、かまわないか?」
「いいけど……、どこに行くの?」
ちょっと一哉は言いにくそうに言葉を濁す。
だが、言わないわけにはいかないと思ったのだろう。ちょっと息を吐いた。
「実家。せっかくこっちまで来たんだし、見て帰ろうかと」
「え、あ、そうだよね。うん、いいよ」
「ありがとう」
ちらりと笑った彼に、あたしはなんともいえない気持ちがした。
それは彼に対してそういう気が回らなかった自分に対する苛立ちとか、そういうのは自分がセッティングするべきだったとかそういうものがごちゃごちゃになったものだ。
ここであたしが謝ったりしても、一哉はいつもの皮肉げな笑みをうかべるだけだろう。だからあたしは何でもないといった顔をして一哉を促した。一哉の実家は意外なことにこれよりもさらに下ったところにあるらしい。
彼が言うにはあたしが電車に転がるように飛びこんでくる姿を何度も見ているといっていた。
「そういうのは覚えていても見て見ぬふりするもんじゃない?」
そういうと、彼はくくっと笑い
「あんなすごい形相で飛びこんでくる奴、なかなか忘れられるもんじゃない」
とのたまわった。
あたしはこの瞬間、さきほどまでの感情を打ち消した。
……心配して損した。
あたしはすりきれそうになっているビロードっぽい生地のシートにどっかりと腰をおろし、まだくすくす笑う一哉から視線をそらした。
どこかの払い下げの電車なのか。もうめったにお目にかかることのないような古ぼけた車両にはあたしたちの他、数人しか乗客はいなかった。
ぎしぎしと妙なスプリング音をあげる電車で、三つほど下ったところで一哉はようやく腰をあげた。ここは海に近いのか。山や木々にかこまれたホームにいても、かすかな潮の匂いがした。
無人駅なんだ、といいながらホームを下りた一哉はだらだらと続く細い一本道をのんびりと歩き出した。
「家ってどこ?」
「すぐだよ」
そういった一哉の視線の先には家らしいものはどこにもみえない。あるのは田んぼ、田んぼ、そして畑。唯一、違うものといったらもう少し先にいったところにある竹林ぐらいだが、やはりそこにも家らしいものは何も見えなかった。
「すぐってどこよ。何にも見えないけど」
「ほら、あそこ」
一哉はすっと前の指す。うねうねした模様がはいったシルバーのリングのはまった指の先には――やはり、何もない。あたしにはただ畑が広がっているようにしかみえなかった。
「あそこ? あそこって畑じゃない?」
「……そう。今はね」
そういうと、一哉はその畑目指して歩き出した。
田んぼの奥。竹林にほどちかい場所にそこはあった。耕したばかりなのか、黒々とした土が長細い小山となって綺麗にならんでいた。
けれども、やはり家らしきものはどこにもみあたらなかった。
「ここ?」
一哉はこっくりとうなずいた。
「そう。まあ、正しくは家だった、っていうかな」
そういって一哉はその場にちょこんとしゃがみこんだ。
あたしもあわてて隣にしゃがみこむ。綺麗に耕された畑の周囲には、細い葉の雑草がちらほらみえる。踏み潰された草から青々しい香りがふわりと漂う。
「殺風景だな」
しみじみと呟く一哉の目には何が映っているのだろうか。
あたしの眼には黒々とした土と、雑草が広がるばかりだ。家の名残はどこにもない。けど、彼の目にはかつての家が見えるのだろうか。
「墓参り、しようかなって思ったんだけど……やめた」
「どうして?」
「なんとなく」
一哉はちょっと笑った。彼の高そうなレザーシューズが土で少し汚れていた。
「葬式以来一度も来られなかったからちょっと気になってたんだよね。家も壊すっていわれてたのに、全然見にもこられなかったしさ」
「そうなんだ」
「……ちょっとすっきりした」
「そっか」
よかったのかどうかはわからない。だが、一哉の中で一段落ついたのなら、それでいいのかもしれない。
そんなことをぼんやり考えていたあたしに、一哉はそういえばと続けた。
「そういえばさ、おまえんち母さんとさ、ウチの親、多分知り合いだ」
「え?」
あたしはぎょっとする。
「マジ?」
「マジ。多分だけど、公民館でやってる手芸クラブっていうのか。アレで会っていたと思う。多分、葬式にも来てたと思う」
「あー」
だからか。あたしは思わず頷いた。
母が言っていたことは気のせいでもなんでもなかったのだ。彼をみたのはおそらく葬式の会場でだろう。
「なるほど……だからオカンアート……」
「そうそう」
一哉はくくっとわらい、何もない畑を見つめた。
「なんか、何もないと結構狭いもんだなぁ」
「そう?」
がらんとしたそこは、畑にしてもかなりの大きさだ。何もなくても十分広さを感じるのだから、家があったころはそうとう大きな家だったのだろう。
このあたりの雰囲気からいして代々続いていた農家だったのかもしれない。
「充分広いよ。これぐらいあったんだから、家だって大きかったんでしょ」
「まあね」
そういった一哉はすっと指で虚空をなぞる。
「あそこに母屋があって、トラクターとかしまってあった納屋はその隣。向かいには庭があったかな」
「なるほど、やっぱり大きいよ、それ」
だが、今はその面影すら見えない。
「今は誰かに貸しているの?」
「いや、売ったよ。借金あったし。あと大学の進学資金とかも必要だったし」
「そっか。……なんか、大変だったんだね」
「まあね」
一哉はちらりと笑い、そして黙りこんだ。
大変だった。
一言でいってしまえばそれまでだ。職を失い、彼氏に去られただけでもあたしには相当なショックだった。だが、それ以上のことが、彼にはおこっていたに違いない。
そのことはあたしには想像すらできない。
知ることも、理解することもおそらくできないだろう。
だから、あたしはただ黙ったまま、一哉の隣にしゃがみ変わらない景色をただじっと見つめていた。
太陽は中天へとかけあがり、しゃがんだ足がどうにもならないほど痺れきった頃、ようやく一哉はその腰をあげた。
「そろそろ帰るか」
「うん」
そう言ってあたしも腰をあげる。が……
「ちょ……」
両足の感覚が無い。
ぽかんとする一哉に、とりあえず待てとだけつげなんとか体を起こす。つか、なんであたし、ずっとしゃがんでたんだろ。
ふらふらとふらつく足になんとか力を入れようと四苦八苦するあたしに、一哉はくくっと笑った。
「助けてやろうか?」
「はああ!? 結構です!」
どんだけ上から目線なんだ。
あたしはぎっと睨み、よろよろと歩き出す。が、やはりすぐに治るわけもない。感覚が無い。足に力が入らない。おかげで、危うく畑にあたまから突っ込むところだった。それを支えてくれたのは、一哉だった。
「ご、ごめん」
「ほらな。やっぱり無理だったろ?」
一哉はくくっと笑い、ふらつくあたしの前にしゃがみこんだ。
「何よ」
「おぶってやるよ」
「はあ?」
ここで? あたしを?
思わずさけぶあたしを、一哉はしゃがんだまま振りかえる。
「どうせ歩けないんだろ。だったら駅までおぶってやるよ」
「なに、それ」
「今なら無料ですよ」
にっと笑う一哉に、あたしは思わず噴き出した。
その後しばらくやる、やらないと押し問答がつづいた。結局、あたしが折れる形となり、一哉におぶってもらうことになった。
「何が悲しくて一哉におんぶされなきゃいけないのよ」
「まあまあ、文句言わない」
仏頂面のあたしに対し、一哉はどこまでも上機嫌だ。
「何、機嫌いいじゃない」
「まあ、そりゃあね」
一哉はふふんと笑った。
「昨日から仕事らしい仕事、全然してないだろ。あれで金、貰う訳にはいかないだろ。だから、まあその分っていうか」
「あ、そう」
なーんだ。そういうことか。じゃあ、遠慮なく。そういってあたしは一哉の首に腕をまわしぎゅうとしがみついた。
すると一哉は一瞬びっくりしたように足をとめ、ちらりとあたしをふりかえった。
「……何」
「何って、何が?」
「あ、いや……」
めずらしく口ごもった一哉に、あたしは肩越しにぐっと顔を近づける。
「何よ、はっきりいたら? あ、重いとか言うつもりでしょ」
「違う……、そうじゃなくて」
一哉はもごもごと口の中で呟いたかと思うと、突然歩く足を速めた。
それは小走りにも近い。あたしは振りおとされないようにぎゅっと一哉にしがみついた。
「ちょ、は、早い! 早すぎる!」
「そうか?」
しれっとわらう一哉に、あたしは心の中で盛大に罵声を浴びせかけた。
結局駅についたころにはあたしは別の意味で、体中の力がぬけていた。へなへなと滑り落ちるようにおりたあたしに、一哉はぼそりと呟いた。
「お前、けっこうあるのな……」
「は?」
「……胸」
目を見開くあたしに、一哉はふいっと顔をそむけそのまま切符売り場にいってしまった。
な、何。今の……。
首からじわじわと熱が昇ってくるのがわかる。
「ば、ばかじゃないの!」
思わず叫ぶ。いや、叫ばずにはいられなかった。
どこの中学生だっつーの。
一哉はちらりとあたしを見ると、なんともきまりわるそうにそっぽをむいた。
くそう。あの野郎。
口のなかで何度も罵倒の言葉を繰り返しながら、あたしは差し出された切符を受け取ろうと手を伸ばし、そしてあっと声をあげた。
「……ごめん。お金、いくらだった?」
「いや、これば別。俺の用事だから」
そういって一哉はあたしの手に切符を握らせ、そのまま手をつないだ。
運が良かったのかどうかはしらないが、すぐにホームにやってきた電車にのりこむ。そしてシートに座ると同時に、もうすぐ終わってしまうのだとぼんやり思った。
行きと同じ道をたどっているのにもかかわらず、帰りはやたらと早く電車が進んでいるように思えた。
電車を乗り換えるたびに車窓の景色は静かに、ゆっくりと、だが確実に変わっていく。
木の緑ばかりだったのが、二階建の住宅街へとかわり、やがてマンション群へ。そのマンションがみるみる高さを伸ばしていくにつれ、景色はグレー一色にかわっていく。
車内もがらがらだったローカル列車の時とは違い、スーツを着たサラリーマンたちが大半を占めるようになった。
あたしたちはその間、何もしゃべらずただだまって外を見つめていた。
最初の待ち合わせの駅である都内でも一番の繁華街近くの改札口の前に出た時には、あたりはすっかり暗くなっていた。
駅を出る人たちもサラリーマンから夜の職業の人へと変わり、妙に浮足立った空気があたりにたちこめる。
改札を出たところで足を止めたあたしは、あらためて一哉を見つめた。
黒のセルフレーム眼鏡の向こうに見える眼はあいかわらず不機嫌そうだ。これで彼氏貸出屋なんてやっているから笑える。
さぞやお客さんの評判は悪いのだろう。
きっと苦情の嵐だ。
くすり、と笑ったあたしに、一哉はちょっと首をかしげた。
「なんだよ」
「別に」
そういって、あたしはポケットから茶封筒を取り出す。
「はい、代金。ちゃんと数えてよ?」
「ああ」
一哉はそれを受け取り、中を確かめる。
一二時間ならたいしたことがないだろうが、一泊ともなるとさすがに金額が大きくなった。貯金していたとはいえ、痛いことにかわりはない。だが――まあいいかとも思った。
一哉はぺらぺらと札を数え、再び茶封筒に蓋をした。
「はい、たしかに。領収書とか必要?」
「別にいらない」
首をふると、一哉は茶封筒をレザーバッグに押し込んだ。そして、どこかの店員よろしく深々と頭をさげた。
「毎度ありがとうございます。またのご利用お待ちしております」
といった。
そんな一哉に、あたしは曖昧にわらってみせた。
次は、無い。
もし次があったとしたら、その時はその時だ。多分あたしは自分の力で、正面からぶつかっていこうと思うにちがいない。
「……そうだね。もし次があったら、ね」
その言葉の意味がわかったのか。一哉は唇をゆがめるように笑った。
「そっか……なら、いいかな」
「へ?」
何がいいんだろ。首をかしげるあたしに、一哉はぐっと顔を近づけた。
そして
「……っ!!!」
一哉の唇があたしのそれに一瞬重なった。
はっと身をよじるあたしの体を、一哉の両手が抱き寄せた。
何をするんだ! そう叫ぼうと開いた唇に再び一哉のそれが重なった。今度は深く。差し込まれた舌が、あたしのそれに絡みつく。
離せ、と胸を叩くがびくともしない。
それどころかさらに深く口づけられ、上あごから舌から歯の裏までまるで全部を確かめるようになぞられた。ぐちゅり、と嫌な水音と共に一哉は顔を離す。僅かにのこった唾液がつうと糸を引いた。
往来でするような口づけじゃない。
淫靡で、あからさまに性欲をそそるような動作。頬が熱くなるのがわかる。あたしは眉をつりあげ、一哉を睨みつけた。
「な……にすんのよ」
怒鳴ったつもりだった。いや、できることなら横面張った押してやりたかったが、体中からすっかり力がぬけ立っていることさえままならない。
よれよれのあたしに、一哉は濡れた唇をそのままに艶然と笑った。
「客じゃいならいいかなって……」
「何が!」
「口説くの」
不敵な笑みを浮かべる一哉に、あたしは目眩がしそうになった。
「いやいや、そうじゃないでしょうよ。つか、なんで?」
「え? 俺、昨日言ったよね? お前のこと好きだって」
「はああ?」
それは過去のことじゃないか。今更何いってんだと、脱力しかけたあたしに、一哉は意地悪そうに目を眇めた。
「俺さ、二度も告白してんのにお前、一度も返事くれてないよな」
「へ? そ、そうだっけ?」
「ああ」
だから、と一哉はあたしの耳に唇を寄せた。
「だからお前、俺に口説かれろよ」
「へええ??」
ぱっと振り返った視線の先に、一哉の笑みがみえる。
フレームの奥の目を細め、肩頬をゆがめるような笑い方。学生の時とまるっきりかわっていない。嫌みな笑い方だ。
生徒会室でこの笑みを向けられるたびにムカムカしたものだ。
今もそうだ。
どうやっても馬鹿にしているとしか思えない。
あたしは濡れた唇を拳でぬぐい、再び顔を傾ける一哉をきっと睨んだのだった。
――CASE1 浅川晴美 担当・葛城純(井上一哉)、依頼完了