5話
「ま、まあ、そういうこともあるよなー」
しん、と静まり返った空気を打ち破ったのは、上野くんだった。
追加で注文したらしいイカのワタ焼きのホイルをつつきながら、しみじみと呟く。
「ほら、仕事だって毎度毎度うまくいくばっかりじゃないしさ、嫌なことだって誰にでもあんだろ。別に美代だけが特別ってわけじゃないよ」
「まあ、そうだよね」
上野くんの言葉をひきついだのは、里香だった。
「あたしだってそうだよ」
「里香も?」
結婚前という、幸せの絶頂期にいるんだとばかりにおもっていたあたしは、彼女の言葉に思わず顔をあげた。
すると里香はくすくすと笑いだした。
「そりゃそうだよ。好きな人と一緒になるのは幸せだろうけどさぁ。でも、結婚ってそれだけじゃないんだよね。家族も増えるし、生活だってかわる。好きだけじゃダメだな、って思うことはこれから一杯あるだろうしね」
「えっ」
上野くんの顔から笑みが消えた。
「里香、え、なんか……おまえ、嫌なことでもあんのか?」
「え?」
きょとんとした里香は、すぐさまとても幸せそうな笑みを浮かべた。
「違うわよ。そういう意味じゃなくて、この先あたしなんかで大丈夫なのかな、って思っただけ」
「だ、大丈夫にきまってんだろ!」
そういって立ち上がりかけた上野くんだが、テーブルに脛をしたたかにぶつけ涙目になりながらその場に崩れ落ちた。
あまりにベタな展開に美代の一件で暗く沈んだ空気がさっと払われた。
あたしもアハハと笑いながらも、美代のことがどうにも心にひっかかり、心底愉快な気持ちになんてなれなかった。
それからあたしたちは一時間ほど騒いで、店を出た。
もっと一緒にいたかったけど、実家では第二関門といっていい両親が手ぐすね引いて待っているかと思うととてもゆっくりなんてしてられなかった。
「じゃあ、またな!」
「連絡しろよー」
「結婚式、まってるからねー」
二件目にいくという三人に手をふり、あたしたちはすっかり人気のなくなった道を歩き出した。
街路灯だけが照らす通りは夜というものがどれほど暗いものかと思い知らされる。
星の一つひとつまでくっきりと見ることができる。ネオンが無いせいだろう。
のんびりと歩いていると、一哉が突然あたしの手を握ってきた。驚いてあたしは一哉をみた。
「な、……どうしたの? もう大丈夫じゃない?」
「さあ、わかんないだろ」
わずかにゆがめた頬がうっすらと赤い。酔っているな。あたしはちょっと怒ったように眉をあげた。
「みんな、もういないってば。っていうか、そこまでやるもん?」
「何?」
一哉はちょっとびっくりしたようにあたしを見る。
「お前、嫌なのか?」
「へ? あ、いや、別にそうじゃないけど……」
「だったらいいだろ」
そういうものか? 怪訝そうなあたしを置いて、一哉は握る手に力をこめる。
一哉の掌はすこし暖かかった。やっぱり酔っているんだな、と思った。
まあ、あれからビールだの焼酎だの結構飲んでいたからな。やたらと機嫌が良さそうな一哉をあたしはなんか呆れたように見あげる。
「酔ってるでしょ」
「そう?」
「酔ってるよ。っていうか、いつもこんな感じなの?」
彼氏貸出屋っていつもこんなことやってんのかな。何気なく尋ねたあたしは、振り返った一哉の表情にしまったと後悔した。
街路灯の白くちらちらした明かりにてらされた一哉の横顔からすうと、笑みが消えていったのがみえたからだ。
「こんな感じって?」
「あ、……いや、ごめん。そういうつもりで言ったわけじゃなくて」
「じゃあ、どういうつもりだよ」
先ほどまでの機嫌の良さはかき消され、一哉の声はどこまでも固い。あたしは俯いたまま、ごめんと呟いた。
彼のことを何も知らないくせに、言うべきことじゃなかった。
黙りこんだあたしの耳に、一哉のため息が聞こえた。
ちらりと視線をあげると、一歩先を歩く一哉のこわばった横顔が見えた。
「……いつもはもっとうまくやっている」
「うまく?」
「ああ」
一哉は自嘲気味な笑みを浮かべた。
「もっとちやほやするし、言って欲しいだろうなと思うことはなんだって言う。理想の恋人を演じることは別にむずかしいことじゃない……、そこに心はないからな。だから、今日だっていつもと同じようにやればいいと思っていた。けど」
「けど?」
首をかしげるあたしに、一哉は小さく頷いた。
「……なんか、今日は無理だった」
「え?」
無理? なんで?
あたしが相手だからか。
顔をこわばらせるあたしに、一哉はちょっとだけ笑った。
「俺さ、マジでお前のこと好きだったんだよ」
「……て、」
目を見張るあたしに、一哉は笑った。その笑みは高校の時にあたしに向けていたちょっと意地悪なものでも、さっきまで浮かべていた優しげなものでもない。
胸をえぐるような切なさと、淋しさが入り混じったものだった。
あたしはなんだか胸が苦しくなって、顔をそむけた。と、一哉がくすりとわらった声が聞こえた。
「ごめん」
「……ちが」
あたしは眼をつむって言った。
「違う、あたしはそんなこと言ってもらえるような奴じゃないよ」
「……晴美?」
一哉の足が止まる。手をにぎったまま、こっちに近づいてくるのがわかった。
あたしは顔を見られたくなくて手を振り払おうとした。だけど、手は離れるどころか、しっかりと絡め取られたまま。とりあえず顔だけはと思い、あたしは精一杯そむけた。
「……見ててわかったでしょ。あたしは自分のことしか考えてないサイテーな人間だって。友達だって言いながら、あたしは美代がどんな気持ちで電話をかけてきたかなんてこれっぽっちも考えてなかった。昔がそうだからって、今でも同じだと思って一番サイテーなやり方で美代のこと傷つけたんだ」
あたしは最低だ。
里香や上野くん、マサたちがあの時どんな気持ちになったか。考えるだけで嫌になる。
結局あたしは自分が傷つきたくないだけなんだ。
そのためにならなんでもやる。お金で解決できるならそれをする。今もそうだ。本当のことをいって面倒くさいことになるなら、避けて通りたいとおもっている。
一哉が告白した時だってそうだ。あの時あたしが思ったのは、なんであんなことをいってくるんだろうということだった。告白してきた一哉の気持ちなんてこれっぽっちも考えたことがなんかなかった。ただ、美代ともめるのが嫌だった。
結局あたしは二人を傷つけ、自分だけを守った。
元彼のことをあたしはサイテーな奴だと思った。自分勝手でわがままで。
でも結局あたしも同じだった。
あいつと同じ、自分のことばっかりで、相手のことなんて気にしない。
なんて――なんて、最悪な奴なんだ。
「……最悪?」
一哉の問いにあたしは小さく頷く。
「だからあたしなんか、そんなこといってもらう必要ない」
「……俺が今でも好きっていってもか?」
「へ?」
ふりかえったあたしを、一哉の両手が抱き寄せる。
強引に引き寄せた彼の胸に鼻先がぶつかった。痛い。小さく呻いたあたしの耳に、一哉のちょっと怒ったような声が聞こえた。
「だから嫌だったんだ……」
お前と一緒にいるのは。
ぼそりと呟いた彼の顔はきっとあたしが知っている、ちょっと怒ったような、皮肉げな笑みをうかべたものだろう。
「……貸出屋ってさこういうのしちゃいけないんじゃないの?」
オーナーはたしかこういたこともふくめてしないといっていたはずだ。それなのに。これは大いなる規則違反なんじゃないのか?
いや、それともあれは建前?
思わず言ったその言葉に、一哉は心底嫌そうな顔をした。
「……お前、なんでそんなに冷静なんだよ。俺は今、お前を口説いているんだろ」
「え?」
口説いていたのか。
ぽかんとするあたしに、一哉の眉間に皺はさらに深くなった。
「なんだよ……」
一哉は抱きしめていた手をゆるめ、あたしの顔を覗き込んだ。街路灯の白くつめたい光に照らされた顔は予想通りというか、想像どおり不愉快そうにゆがんだままだ。
「……本気にしてないだろ、お前」
「まあ……」
「……まあ、そうだよな」
一哉は自嘲気味な笑みをうかべ、あたしを解放した。
思ったより強い力で抱きしめられていたのか。緩められた瞬間、体中の血が一気に走り出すような妙な感覚があたしを襲った。
だから、だろう。
頬が熱いのも。
心臓が大きく跳ねるのも。
戸惑うあたしの手を、一哉がしずかに握った。
「……仕方ない。明日までは仕事に専念するか」
「う、うん?」
どういう意味だ? 首をかしげるあたしに、一哉はちょっと笑って歩き出した。
家までの長いような短い時間、必死に考えたけど一哉の言った言葉の意味があたしにはよくわからなかった。
駅から実家まではあるいて二十分ぐらい。学生のときはこの距離を自転車で往復していた。家に近づくと、あたしが帰ってくるのを待っていたのか門のところの外灯がついていた。
「……あのさ」
近づく家の明かりをみつめたまま、切り出したあたしに一哉は、ん? とこっちを見る。
「ウチの親さ、ちょっと激しいからビビらないでね」
一哉はちょっと目を見張った。
「激しい?」
「うん。まあ、主に母親のほうがなんだけど。例えるならあたしの性格をもっと強烈にした感じ、かな?」
「お前を強烈に?」
頷くあたしに、一哉は眼鏡のブリッヂを指でくいっと押しあげながら、わらった。
「本当か? すごいな、それ」
「すごいって……」
あー、全然本気にしてないな。
あたしは小さくため息をつき、門柱にあるインターフォンを殴るように押した。築20年の家ともあってインターフォンもいまどきこれ? というようなものだ。まあ、使えるからいいのというのが親の台詞だ。
その古いインターフォンから雑音まじりの声が聞こえてきた。
「はーい」
のんびりとした声。父親だ。
「あたし」
その声をきくやいなやドアとインターフォンの両方からガチャガチャと盛大な音が聞こえてきた。その音がどんどん大きくなり、そして扉が開いた。
「あーら、遅かったわね」
化粧っけのない顔であらわれたのは、母親だ。たっぷりとボリュームのあるエプロン姿はもう十数年来の彼女のユニフォームだ。相変わらずの姿に呆れるあたしを母はちらりと見、その隣にたつ一哉に視線を移した。
「あら、あなたが……」
「はじめまして井上一哉です」
丁寧に頭をさげる一哉を、母は感心したように見つめた。
「まあ……わざわざ。今日は泊まって行けるんでしょ?」
「ご迷惑でなければ」
申し訳なさそうにする一哉に、母はあらあらと人の良さそうな笑みを浮かべた。
「まあ、そんな迷惑だなんて。ウチのバカ娘がいつもお世話になってるんでしょ。そのお礼なんだから気にしないで」
「自分の娘つかまえておいてバカって……」
むっつりとするあたしを母はかるく流し、一哉に部屋に入るように促した。
一哉はというと先ほどマサたちにみせた柔らかな笑みを浮かべている。あたしには決して見せない、優等生のとでもいうべきか。その笑みをみた母が、すすっとあたしに近づいてそっと耳打ちした。
「あんた、いい子つかまえたじゃない」
「は?」
目をむくあたしに、母はぐっと親指を立てる。
何やってんだ。……もう唖然というよりも、茫然としたままのあたしをのこし、二人はさっさと家の中にはいっていった。
母も母だが、一哉も一哉だ。
あたしにはそんな顔、一回も向けたことないのに。何、親に全力で微笑んじゃったりしてんだ。むっつりと顔をしかめたまま、玄関先に立たずんでいると奥から今度は父が顔をのぞかせた。そして不思議そうにあたしをみつめ
「お前、何やってんだ」
と言ってきた。
何って……久々にかえってきたのに、この対応!
まあ、万歳三唱で迎えられるとはおもってなかったけどあまりに普通すぎる対応に若干肩をおとしながら、あたしは家に入った。
家は相変わらずだった。
趣味のオカンアート全開のよくわからない作品が家の中いたるところにおかれ、父の趣味であるゴルフバックと、古いバイクのメットがちんまりと玄関の隅においやられている。
まあ、平和な証拠なんだろう。
あたしは苦笑いをうかべながら、母たちが入って言った応接間にむかった。
「あんたたち、夕飯終わってるんでしょ? じゃあ、メロンでも切ってあげようか」
「あー……」
あたしはちらりと一哉を見る。と、いつの間にか一哉の手に折箱があった。菓子、だろうか。一哉はそれを母にそっと差し出す。
「つまらないものですが」
「まあ!」
わざとらしいまでに母が声をあげる。
「わざわざ……ありがとうね。ほら、お父さん! 一哉くんからいただいちゃったわよ!」
「……すまないな」
ぼそりと呟く父に、一哉はいえと小さく返す。
「俺の家の近くのものです。……美味しいかどうかわかりませんが」
「そんなことないわよ! ねえ、晴美」
「へ?」
あ、あたしかい!
ようやく腰をおろしてほっとしているところに話をふられ、慌てるあたしに、一哉はふっと頬を緩めた。
「晴美さんもはじめてかもしれません」
「まあ、そうなの? じゃあ、コーヒーでも淹れるわね。晴美、手伝って」
「はーい」
やれやれと立ちあがり、台所にむかう。台所は今では当たり前になったカウンターキッチというものではない。独立した小さな部屋だ。母にとっては私室に近いものがあるせいか、玄関以上にオカンアート群に占領されていた。
まるで迫りくるような作品群に唖然としていると、母はヤカンを片手に満足げに笑った。
「あら、気がついた? それ、昨日できたばかりなのよぉ」
「……こ、これ?」
紙でつくったミニチュア和傘のことだろうか。
昔は煙草の空き箱でつくっていたような気がするが、今回のは綺麗な和紙がはられてちょっとした店先に出せそうなものだ。
だが、それだけで終わればいいものを、周囲をさらにレースやスパンコールなどをデコラティブにしてしまうあたり母らしいといなくもない。
そもそも母は引き算というものを知らない。
なんでも付ければいいとおもっているのか。和洋折衷ゴッテゴテの傘を手にとり、眺めていたあたしに、母がそういえば、と切り出した。
「あの人、どこかで見たような気がするんだけど……」
「あの人って、一哉のこと?」
くるりと傘を回すあたしに、母はうなずく。
「そう、どこかしらねぇ……最近、見たような気がするんだけど」
やかんを火にかけ、首をかしげる母にあたしはああ、と答えた。
「そりゃそうでしょ。一哉、高校の同級生で生徒会長してたもん。あとたしか新入生挨拶とか卒業式に答辞もしてた」
「まあ、優等生!」
母の正直なことばに、あたしは思わず噴き出した。
確かにその通り。一哉はいうなれば優等生だった。あたしに対するどーしようもない態度を除けば、生活態度も言うことなし。未来はペッカペカに明るいものだっただろう。それが、どうしてこんなことになっているんだか。
まあ、そのあたりを母に言えるわけもなく、あたしは曖昧に頷く。
「そう、優等生。だから見たことあって当然でしょ」
「そうねー……」
一旦は頷きながらも、母はどこか納得してないように顔をしかめたままコンロにむかった。
「なに? 違うの?」
「違うっていうかねぇ」
コーヒーの入った瓶を取り出しながら、母はちょっと虚空をにらむように見つめる。
「……高校じゃなくて別の場所で見たような気がするんだよねぇ……どこだろうねぇ」
「まあ、地元だしどっかでみたんじゃない?」
一哉の実家はこのあたりのはずだ。だったら買い物とかですれ違うことだってあるだろう。それにいくら一哉だって高校を出てから一度もこっちに戻ってきたことがないってこともないだろう。ならどこかで偶然みかけたということもあるだろう。
そう言ってみるが、相変わらず首をかしげながら、母はあたしが並べたカップにインスタントのコーヒーを入れた。
「そういえば、アンタ、結婚とかどうすんの?」
「は?」
ぎょっとするあたしに、母はにやっと笑う。
「挨拶にきたってことはそれなりに順調ってことなんでしょ?」
「ちょ、どうしてそうなるのよ!」
焦るあたしに、母はまあまあとしたり顔で頷いた。
「わかるわよー、私もお父さんを始めて家に連れて行った時はそりゃもう、いろいろ緊張したもんだしねぇ」
「ち、ちが、違うってば!」
だから嫌なんだ。母はなんでも都合のいいように解釈する。良く言えば前向き、悪くいえば都合の悪いことは全然聞かないタイプだ。
実際にあたしがいくら叫んでも、母はまあまあといった様子でまったく聞く気が無いようだった。
フンフンと鼻歌なんかうたってカップにお湯を注いでいる。
「母さん……ホント、やめてよね」
「あら、何を?」
「一哉に結婚とか言うの。言ったらマジで怒るからね」
「なんでよ」
力を込めて言うあたしに、母はちょっと不満そうに眉をひそめた。
「でも、そういうのはちゃんとしておかないと」
「まだそう言う話し出てないし! とにかく、今微妙な感じなんだからそっとしておいてよ!」
微妙、というところを強調すると、母はしぶしぶ頷いた。
だが、ここで油断していると、後で痛い目をみるのは経験上あたしは知っている。悪い人じゃないんだが……。おかげで、あたしは折角一哉が持ってきてくれたという都内でも有名なお菓子の味もよくわからなかった。
母をぎりぎりと牽制しているあたしにくらべ、一哉はというとホント、ここが自分の家かと思うほどリラックスしていた。
あたしがコーヒーを入れている間、父とバイクの話で盛り上がっていた。
父がバイク? と驚いているあたしに、一哉は玄関にあった古いメットに気がついたらしい。今ではすっかりご無沙汰だが、父はかつてバイカーだったらしく珍しいほど高いテンションで一哉に語っていた。一哉はというと、楽しげに父の話に相槌を打っていた。
饒舌な父を寝室へとやり、ようやく落ち着いたのは時計の針がてっぺん近くを指したころだった。