4話
「いらっしゃーい
硝子がはめ込まれた戸を開くと、店の中のたまっていた歓声が通りに一気にあふれだした。
白地黒い切り文字の看板に書かれているのは「居酒屋たっちゃん」店主の名前そのまんまだ。同級生の父がやっていたこの店は、今の店主は高校の同級生だ。
店は駅から通りを少しはいったところにある。
駅前といってもこのあたりにあるのは小さな商店と小さなスーパーだけ。
コンビニなんてものは国道沿いぐらいにしかない。
都内では24時間営業が当たり前になっているが、ここはそうではない。
八時ちかくになるとどの店もシャッターを下ろし、明かりをつけている店と言ったら居酒屋ぐらいだ。
街路灯だけが照らす通りは薄暗く、晴美が住んでいるアパートの周囲のほうがよっぽど明るいしにぎわっている。
あたしたちは店主の声にうながされるように店の中へと踏み込んだ。
店内は薄汚れた……失礼。歴史が積み重なった店の奥から「おーい」と呼ぶ声が聞こえてきた。
「もう、遅いよ。今まで何してた……の……」
店の名前の入ったサンダルをひっかけ、奥の個室から出てきた美代は、頬を赤く染めすっかり出来あがっているようだった。
高校の時も彼女のかわいらしさは他校に知れ渡るほどだったが、今でも欠けるどころか、さらに磨きがかかっていた。
その彼女が表情が崩れるにもかかわらず、ぽかんと口を開けてこちらを見ている。
いや、正確に言えば彼女の視線の先にあったのはあたしではない。隣にいる一哉だ。
そのことに気が付いたのか。一哉はちらりとあたしを見、それから美代にぎこちなく微笑んだ。
「……久しぶり」
「う、うそ……もしかして……」
美代はぱっと両手で口元を覆う。
綺麗に整えられた指先がふるふると震え、彼女の頬からさあと血の気が引いていくのがはた目から見てもはっきりとわかった。
ぶるぶる震える手をゆっくりと握りしめ、美代は一哉に近づく。
「井上くん?」
「ああ」
眼鏡の奥の瞳がわずかに緩む。ほんの一瞬、だがはっきりとした笑みを向けられ、美代も微笑む。だが、すぐさまそれはかき消され、冷たい眼差しをあたしへと移した。
「これはどういうこと?」
「ど、どういうことって……」
「嘘をつくにももっとマシなものがあるんじゃないの? 井上くんに頼むなんて、ホント、サイテーッ!」
「ち、違う、違うって」
ぶんぶんと頭をふるあたしに、美代はフンと鼻を鳴らした。
まあ、正直な話、鼻で笑うって上品ではないと思うんだけど、美人がするとまあ、色んな意味で凡人とは違うなと思ったわ。
彼女は店内にいる客の視線を一身に浴び、あたしをぎりと見据える。
「晴美、みそこなったわよ」
「ちが、違うって! あたしたち」
「本当だ」
一哉はあたしの肩に手をまわしながら軽く微笑んだ。
その動きはまるでいつもやっているかのように自然で、あたしのほうが仰天したぐらいだ。
だが、おそらくあたし以上に驚いたのは美代だったに違いない。ぶるぶると唇をかみしめたかと思うと、くるりと踵を返した。
と、とりあえず第一関門は突破した。
彼女を追って、歩きながらあたしはそっとため息をつく。それにしても――あたしは肩を抱いたままの一哉をちらりと見る。
カウンターと小上がりの間の細い通路を、まるでエスコートをするように歩く彼は、さっきまでの俺様的態度ではなかった。
――ああ、これが今の……
目の前にいるのは、あたしの知っている井上一哉ではない。一時間いくらで借りることができる彼氏「葛城純」なのだ。
そんなことをぼんやり考えながら、あたしは皆のいる個室に入る。
そこにいたのは美代ともう一人。先日、結婚すると知らせてきた同じく高校が一緒だった里香だ。
テーブルの端に座っていた里香は、あたしを見るやいなやぱっと顔を綻ばせた。
彼女は高校を卒業してすぐに就職し、地元の建設会社の事務員として働いているはずだ。その隣に座っているのは里香の婚約者、上野くん。
中ジョッキで美味しそうにビールを飲む姿は、とても同い年には見えない。
そしてその隣に座っているのは
「よう」
同じく中ジョッキ片手に、にっと笑ったのは野球部の元部長、及川正弘。通称マサだ。
彼も高校を卒業してすぐに就職したらしい。ワイシャツにネクタイ姿だった彼は、かつての野球少年の面影はどこにもない。
短めの髪をワックスで散らすという、なかなかのおしゃれさんになっていた。
わああ、と声をあげたあたしは、マサの隣に腰を下ろした。
「ちょ、久しぶり! 何、どしたの?」
「いや、お前が男を連れて帰ってくるって、上野から聞いたからさ」
そう言いながら、マサはしみじみと一哉を見あげる。
「しかし、まさかあの井上だとは思わなかったなぁ」
「久しぶり」
軽く目で挨拶をし、一哉はあたしの隣に腰を下ろした。
それをまって里香がさっとおしぼりとメニューを差し出した。
「晴美ちゃん、井上くん、何か飲む?」
煙草のやにで黄ばんだメニューにはチェーン店にあるような、派手なカクテルや舌を噛みそうな名前のお洒落なつまみなんてものはない。
あるのは冷や奴や煮込み、串焼きにもろきゅうといった定番のものだけ。
「えっと、あたしは梅酒サワーで、えー……っと、一哉は?」
「俺はビールでいい」
「了解っ」
にっこり笑い、里香は注文をしにカウンターへと向かう。
その後ろ姿に手をふったあたしは、振り返った瞬間全身に突き刺さる視線に思わずげっと声をあげた。
「な、なに!? 何よ!」
「いや、何っていうか……なぁ」
にやにやと笑いながら上野くんはマサに振る。
するとマサがなんとも言えないといった表情でああ、と頷いた。
「お前らが付き合うってことだけはマジ無いな、と思ってたんだけどな。……っていうか、実際に目の前に並ばれてもイマイチ実感がわかないっつーか」
「ちょ、……どういう意味よ」
マサをぎりと睨むと、奴は大げさに体を震わせた。
「だ、だってお前ら、すげぇ仲悪かっただろ? 会えばいつも喧嘩だし、会わなくてもお前、わざわざ生徒会室に喧嘩売りにいってたじゃん」
「そ……それは」
「だから、高校んとき井上がお前に告白したって噂、聞いても絶対あり得ないと思ったんだけどなぁ」
マサの言葉に、上野くんまで頷いている。
「あー、オレもそれ思った。大体あの予算会議でのバトル見て、くっつくって考えるほうがどうかしていると思うよな」
「そうそう」
マサの目がふっと遠くを見る。
「オレがどんだけこいつを抑えるのに苦労したか……お前ら、しらねぇだろ」
「あー、わかるわー」
げらげら笑うマサを睨みながら、あたしはおしぼりで手を拭った。
だから、こっちに戻ってくるの嫌なんだ。
高校時代、あたしは自分がやったことに一ミリたりとも後悔はしてない。けど成人式や何かのついでにこっちに戻るたびにこの手でいじり倒されるのには我慢がならん。
むっつりと黙りこむあたしの前に、突出しのたこわさと梅酒サワーがおかれた。
それを機に、上野くんがやおら立ち上がった。
「全員そろいましたので、皆さま各々グラスをお持ちくださーい。では、再会と」
もったいぶったように言葉を切り、上野くんがあたしと一哉を見る。
「二人の前途を祝しまして……、かんぱーい!」
グラスがぶつかる音が響く。
里香、上野くん、マサのグラスと合わせる。そして、ちらっと斜め向かいを見た。
美代もとりあえずはグラスを持ち上げたが、誰とも合わせることなくすぐさまテーブルに下ろしてしまった。
その間もずっと視線は一哉にむけたままだ。
「そういえば、二人どうやって付き合いだしたんだよ」
「え?」
唐突に切り出した上野くんにあたしは顔をひきつらせる。
「え、えと……」
な、なんだったっけ?
いきなり打ち合わせにない質問に、あたしは口ごもる。
とりあえず一哉を横目でみるが、何を考えているのか一哉は答えるどころかにやりと口端をゆがめていた。
「やっぱり、あれ? 二人とも東京だからさ、街で偶然ばったり出会ったとか?」
「えー、違うよ!」
上野くんの妄想に、つまみを持って戻ってきた里香が答えた。
「ほら、井上くんが告白してきたときから、二人はこっそり影でつきあっていたんだよ」
「え? マジ?」
マサがびっくりしたような顔をしてあたしを見る。
……わかる。わかるよ、マサ。
信じられないって言いたいんでしょ。その通り。あの時のあたしと一哉の関係は里香が想像するような甘いものではなかった。いうなれば「最悪」だった。
告白したとされるあの日だって呼び出された最初の理由だって、ナイター照明の使用時間についてだった。三年の引退試合を目前にあたしたちは夜遅くまで練習に励んでいた。それをもっと短くしろといってきたのだ。
別に毎日ダラダラやっているわけじゃない。
この期間だけのことだ。終わったら短くもしよう。
そう返したあたしに、井上は何をトチ狂ったか。突然、そういえばとまるで物のついでのように告白してきたのだ。
あんな告白をされて、胸を高鳴らせる奴がどこにいるというのだろうか。
むしろ怒りしかわいてこなかった。
今でも思い出すと頭にくるほどだ。ちらりと横目でみると、一哉もその時のことを思い出しているのか、咳き込むふりして宛てた拳からちらりとのぞいた唇が小さく震えているのが見えた。
……ほらね。
こういう奴だよ。ホント、良い性格しているよ。
あたしは怒りにまかせグラスを乱暴に持ち上げた。と、その時だ。
「違うからね!」
突然美代が叫んだ。
「あの時、井上くんが付き合っていたのは晴美じゃない! 井上くん、誰とも付き合っていないっていってたじゃない! そうだよね」
すがるような眼差しに、一哉は一瞬戸惑ったように目をふせる。そして
「まあ、そうだな」
一哉の言葉に、美代の顔が勝ち誇ったように歪んだ。
その顔を見た瞬間、あたしはなんだか酷く切ないような気持ちになった。
彼女はもうあたしの友達なんかんじゃないんだと、あらためて突きつけられた気がした。まあ、こんな感じでは井上が出て来なくてもどこかで壊れていたのかもしれないが。だまりこんだあたしの手に、ふと何かが重なった。
一哉の手だった。
びっくりして顔をあげたあたしに、一哉は微笑む。
その笑みは、まるで愛しい恋人を見つめているかのように、甘く、優しい。
「でも、俺はずっとこいつが好きだった。だから、あれからずっと口説いて口説いて、口説きまくってようやく落とした」
ささやく声も甘く、まるでビロードのようだ。
耳触りの良い言葉に一瞬本気にしそうになったあたしを、もう一人のあたしが慌てて止める。
違う。勘違いしたらダメだ。これは演技。彼がこう言っているのはあくまで仕事の一つだ。
危ない危ない。
ふうと汗をぬぐうあたしの耳に、里香のうっとりとしたため息が聞こえた。
「井上くん、本当に晴美のこと好きなんだねぇ」
一哉はちょっと照れくさそうに眼鏡のブリッヂを中指で押し上げた。
「まあね」
「井上……お前、ほんと、かわったよなぁ……」
心底信じられないといった様子のマサに、一哉はそうか? と返した。
「そうだよ。だって、昔のお前だったらんなこと絶対言わなそうだしなぁ……」
「ああ、それ、わかる」
頷いたのは里香だ。
「あたし、井上くんと二年のとき一緒だったけど、なんか話しかけずらかったもん。だから、晴美ちゃんがあれだけ面とむかって言いたい放題言ってるの、すごーいって思ったもん」
「それは……」
年頃の女の子に対する褒め言葉じゃないな。というか、あたしの高校時代どんだけ乱暴者だったんだよ。
マサも上野くんも否定しないところが憎らしい。
あたしはむっつりとしながら、梅酒サワーをすする。
「まあ、この乱暴者の相手をできたのも井上だけだったしなぁ……ある意味お似合いだったのかもしれないなぁ」
その隣でつまみのホッケをつついていたマサがしみじみと呟く。同じ部活のときは影に日向に助けてやったのに。その恩も忘れてこの言いぐさ。
言葉もでないでいるあたしに、井上はちらりと笑って見せる。
「でも、あれはわざとだから」
ぽかんとするあたしに、井上はちらりと笑った。その笑みは取り繕ったものではなく、先ほどみせたなんていうか……意地悪な笑みだった。
い、嫌な予感がする。
ものすごい嫌な予感しかしない!
ぞわぞわと背筋があわだつ。
あわてて話題を変えようとしたあたしよりも先に、もろきゅうを口に放り込んだ上野くんが目をきらきらさせて身を乗り出した。
「わざとってなんだよ。え? もしかして、お前、こいつに絡んでいたのって」
上野くんの問いに一哉は答えない。
薄く微笑んだまま、グラスに注がれたビールを飲み干しただけだ。それが何を意味するか、わざわざいわなくてもわかるだろう。
里香ちゃんがひゃーと声をあげ、上野くんが真っ赤な顔をしたまま感心したように見つめ、マサはというとなんとも気の毒そうにあたしを見た。
……見るな。
こっち、見んな!
あたしはわめきだしそうになるのを、串焼きにかぶりつくことでなんとかこらえた。
微かに聞える笑い声は一哉のだ。その声があたしには、この場で怒鳴れないのをいいことに楽しんでいるようにしか思えなかった。
けど、皆はというと、予想外すぎる一哉の言葉に気をとられ、うっそりと笑う彼のことなどまるで気が付いていない。
「井上……すげぇな、お前」
「……俺なら怖くてそんなこと言えないわ……」
しみじみと呟いたマサを、あたしはぎりと睨む。
「べ、別に、気にしてないから!」
「ほらね」
一哉はにっこりと笑いながら、あたしの頭をポンポンと撫でる。
ぜ、絶対楽しんでいる……。ふるふると拳を握りしめるあたしの耳に、突然何かが倒れる音が飛び込んできた。
美代だ。俯いたままあたしの拳と同じようにふるふると両手を震わせていたかと思うと、ぱっと顔をあげ眉をつりあげた。
「嘘でしょ!」
「へ?」
ぽかんとする上野くんを、美代はぎっと睨む。
なまじ美人なものだから怒ると壮絶に恐ろしい。上野くんは串をくわえたまま目を白黒させているし、マサなんかはこれ以上無いほど目を見開いていた。
美代は鋭い眼をマサ、そして一哉にすべらせる。そしてあたしの前で止めると眼にさらに力を込めた。
「……晴美はさ、井上くんのことすごい嫌ってたよね」
「み、美代……やめなよ」
あわてて止めようとする里香の手を振り払い、美代は立ち上がる。
「あの時だって、井上くんなんかとは付き合わないっていってたじゃん! 井上くんなんか嫌いだって! あんな嫌なやついないっていってたじゃん! それなのにどうして! なんで井上くんなのよ!」
最後の方は叫び声のようだった。美代は両手でばっと顔を覆い、小さく肩を震わせた。
あわてて立ち上がったあたしは、泣きじゃくる美代の肩に手を伸ばした。が、その指先が触れるやいなや、彼女はぱっと顔をあげ般若のように眉をつりあげ、あたしの手を思いっきり振り払った。
「晴美、かわってないよね……、自分ばっかりいい思いしてさ」
「……み、よ……」
叩かれた手がじりじりと痛む。が、それ以上に彼女の言葉が胸をえぐる。
言葉もでないといった様子のあたしに、美代は目に涙をいっぱいうかべながらさらに叫んだ。
「どうしてこんな意地悪するの! あたしが、……あたしがまだ井上くんのこと好きだって知っててやってるんでしょ!」
「美代!」
里香が必死にさけび、あたしと美代の間に割り込んだ。
「もうやめなってば」
彼女の言葉に、美代はぎりっと里香とあたしを睨むと、自分のバッグをひったくるように掴みそのまま部屋を飛び出してしまった。
遠ざかる足音。そして叩きつけるように湿られたドアの音に、あたしはその場にへなへなとしゃがみこんだ。
いや、茫然としていたのはあたしだけじゃない。
あたしたちが来る前までは上機嫌だった美代の、あまりの急転直下ぶりにマサも上野くんも里香もどうしていいかわからないといった様子だ。
そんなあたしたちの耳に、一哉のため息が飛び込んできた。
「……ごめん」
一体なんのことか、理解できないあたしに一哉はもう一度ごめんと言った。
「いや、井上は関係ないだろ」
マサはぽつりとつぶやき、空のコップにビールを注ぐ。
「……なんかさ、あいつ最近ツイてないみたいなんだ。だから、まあ……八つ当たりだよ」
「八つ当たり? つか、なんでマサ知ってるの?」
首をかしげるあたしに、マサはちょっと困ったような笑みを浮かべた。
「オレん家の母親とあいつん家の母親がさ、同じところで働いてるんだよ。ほら駅前にスーパーあるだろ。あそこ」
ああ、とあたしはうなずく。
この辺りで働くならあそこか隣町まで行かなければいけない。
マサはなみなみと注いだビールに口をつけながら遠くを見るような眼をした。
「あいつ、仕事先が倒産してさ、付き合っていた彼氏に女ができたとかで別れたらしい。だからちょっと大変なんだとさ」
「……そう、なんだ」
あたしはマサの顔が見られなかった。
いや、マサだけじゃない。あたしは産まれてはじめてこの場から消えてしまいたいと思った。